團十郎のことをもう少し書きたい。主に、観客としての思い出である。
それほど古いことは知らない。團十郎に限らず、菊五郎にしても、この世代の子役時代というものはこちらも子供であり過ぎた。例の十一代目團十郎襲名の『助六』の折の福山のかつぎというのも、もうあのころは子供ではなかったが、実は見ていない。あの、セリフの拙さに発奮したという、自らも語ってよく知られた話も、そうだそうだと思えるのは、実はLPになった音盤で知っているのに過ぎない。だから堀越夏雄クンの舞台をナマで見た最初というのは、すでに市川新之助となってから久しい、東横ホールで見た『寺子屋』と『鏡獅子』ということになるのかもしれない。(その前に、『大菩薩峠』で、父の机龍之助に対する宇津木兵馬というのがあったっけ。)ずっとのちに、すでに大家となってから、成田山新勝寺のための何やらで国立劇場で一日だけ『鏡獅子』を踊ったことがあったが、この人の『鏡獅子』は、もう一回、「荒磯会」という一門の勉強会をたしか三越劇場でやった時切りだと思うから(その他に何か特別な催しがあったとすれば別だが)、少なくとも3回のうちの2回は見ていることになる筈だ。
私はこの人の女形の時の顔というのが割合好きなのだが、それは、荒事をするときのとはまたちょっと別の意味で、ああ、これが團十郎家の顔なんだなという気がするからだ。九代目團十郎とは血がつながっているわけではないのだが、その孫娘で九代目の血統を引く最後の人だった市川翆扇(私はこの人が大好きだった。今に至るまで、舞台女優として一番の人と思っている)などとも一脈通じる、ぼてっとした厚みのある、いい顔だった。大家になってからやった岩藤のようなものは誰でも知っているだろうが、ひとつのミソは、国立劇場で『加賀鳶』の通しが出た時、子守娘の役をやったことがある。通しでなければ出ない「梅吉内」の場に登場する山出しの娘っ子の役で、團十郎が生涯に演じた役のリストを作ったなら、珍品ベスト3には間違いなく入るであろう。もっとも、このときはもう疾うに海老蔵を襲名した後だから、三之助時代も卒業しれっきとした若手スターで、菊五郎・先代辰之助とともに、華やかというなら一番華やかだった頃だったろう。
話を少し戻して新之助時代というと、三之助の仲間たちに比べても、舞台に立つことが少なかった。親の方針だったのかもしれない。東京オリンピックのさなかの昭和39年10月、東横ホールで当時の常連より一世代若いクラスで『忠臣蔵』の通しを出したことがあって、大星に前の権十郎が別格で出たほかは、菊五郎が当時丑之助で判官とおかる、辰之助の左近が勘平、左団次の男女蔵が師直、彦三郎の亀三郎が若狭助と平右衛門といった顔ぶれだったが、新之助は出ていない。その翌年に丑之助が菊之助に、左近が辰之助に、亀三郎が薪水に三人同時襲名ということがありこれがこの世代が脚光を浴びた最初といってよかったが、このときも新之助は騒ぎの外にいた。(騒ぎといえば、六代目菊五郎十七回忌追善というこの時の興行で、父の十一代目は不満があって途中休演するという騒ぎを起こし、その秋には亡くなってしまったのだから、このときに踊った『保名』が結局、最後の舞台となったのだった。だからいま思えば、さっき言った『大菩薩峠』というのは、見ておいてよかった稀有な父子共演ということにある。)
更にその翌年、菊之助がNHKの大河ドラマ『源義経』に出て一躍ブームの人となり、このころから東横ホールでこの世代中心の公演が本格的になった当初も、新之助は必ずしも中心的な位置にいたわけではなかった。その数少ない例が、先に言った『鏡獅子』であり、『寺子屋』の松王丸で、大きな役をするのを見た最初だったと思う。それも、菊之助たちがいくつも役をするのに対して、鏡獅子なら鏡獅子、松王丸なら松王丸だけ、出演するのだ。かなり慎重に構えている印象を受けた。三之助と騒がれ、東横歌舞伎でも他の二人と常連のようになるのは海老蔵を襲名する前後からで、だから「三之助」という呼名が文字通り、三人の「之助」であったのは、実際の期間としては、いま思えば嘘のように短かったことになる。
思い出した。海老蔵襲名が取り沙汰され、少しは顔を売っておこうとしたのかどうか、どこだったかの民放で、新之助を主役にした連続ドラマ『若様侍捕物帳』なるものが始まった。第一回には、三代目左団次や市川翆扇も特別出演したのだったと思う。で、毎回のオープニングに、何人かの切られ役を相手に立ち回りのシーンが写って、やがて新之助の顔がアップになり、「シンペエするな、峰打ちだ」というセリフがあってから、ジャーンと音楽が入ってタイトルが出る。その「シンペエするな、峰打ちだ」という声音が、いまも私の耳朶について離れない。
新之助・海老蔵時代も含め、若い頃の團十郎に対する劇評というと、セリフに難があるというのが判で押したようにつきまとったものだった。たしかに、この「シンペエするな。峰打ちだ」もそうだったが、團十郎の口跡に独特の特徴があったことは、誰しも知る通りで、それは終生、変わることはなかった。いわゆる滑舌の良さというものには恵まれなかったといえる。
しかし、今度のことがあってから、必要があって後年になってからの舞台の映像を見ると、癖は癖として、たとえば助六の啖呵のところなど、やはり誰の助六よりも助六のセリフだなという気がする。團十郎のセリフのもう一つの特徴は、高音が、ちょっと聞くと歯止めが利かないかと思うほせり上がって行く迫力にある。コントロールという観点からするとどうなのか知らないが、高低の抑制の利いたセリフにはない、一種の昂揚感があることに思い至る。高目にホップして、最後にはボール球になってしまいながら、打者がつい手を出して空振りしてしまう剛速球のようなものかもしれない。ある頃から以降、團十郎のセリフの難を言いたてる劇評は潮が引くように見かけなくなってしまう。癖は最後までなくなったわけではない。だが、そんなことはどうでもよくなってしまったのだ。技巧の難よりも、芸格の高さと大きさの方がはるかに高く、大きくなったのだ。
十一代目が亡くなってまだ間がない頃、東横ホールの客席で、話し相手を求めてか、俺は八十何歳だかで何十年だか芝居を見ているんだと、訊かれもしないのに自分から吹聴し出した老人が、聞かせよがしに高麗屋三兄弟の品評を始めた。一番巧いのは松緑だという。一番拙いのは團十郎だったな、というのだった。老人の言わんとするところはよくわかる。だがこの老人のもつ物差しでは、團十郎の芸の格は計れない。同じようなことは、これから、十二代目についてもあり得るだろう。思えば、いまの海老蔵も含めて成田屋三代、皆、よく似た「役者」なのだ。
いま振り返って、もし、團十郎とはどういう役者だったかと問われるなら、誰よりも團十郎らしい團十郎だったと答えるのが、一番よさそうな気がする。もちろん、時代時代に、自分たちの團十郎が一番だと思っていた古人は数知れずいただろうが、そうした比較を超えて、わが十二代目團十郎は、誰よりも團十郎らしい團十郎だったと、いま改めて思う。そういう團十郎を、同じ時代に持てたことは、かつて誰かさんが誰かさんについて言ったように、私たちの時代の幸福と呼んでいいのではあるまいか。
十八番物に限らない。丸本物でいえば、『寺子屋』とか『熊谷』のような近代的心理主義で作り上げられてしまったものよりも、『逆櫓』の松右衛門や『毛谷村』のようなものが、こよなく懐かしく思い出される。團十郎だけに限ったことではないが、、世紀の変わり目前後の何年間かが、歌舞伎界近年でのひとつのピークだったといま改めて思われる。皆、男盛りの華の盛りだったのだ。
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NHKテレビの團十郎を偲ぶという特別番組にゲストで出演した菊五郎に感服した。ぐちゃぐちゃと多くを語らない。新しい歌舞伎座の舞台を踏ませたかったの何のというのは、後に残った者の思いに過ぎない。本人が何を思いつつ逝ったかは誰にも知りようがない。ただ、ごくろうさま、としか言うことがない、というのだった。故人を最も深く思う者の思いとは、かくの如きものであろう。
私たちは、私たちの「團菊」をもっていたのである。