随談第466回 今月のあ・ら・かると(増補修正版)

歌舞伎座開場直前のこの月、東京だけで4劇場で歌舞伎があるというのは、歌舞伎隆盛の印なのかどうかわからないが、どれも実のある舞台であったのは幸いだった。新聞の劇評も当初は新橋演舞場と赤坂ACTシアターだけの予定だったのを、国立劇場を見て急遽、載せるようにしてもらえた。

ルテアトル銀座も、ということにならなかったのは紙面に限りがあるから以外に理由はない。『夏祭浪花鑑』と『高杯』という演目が、他に比較すると新味に欠けるうらみもあったが、しかしこの二つの演目は勘三郎追悼の意を籠めていたのだという、わざわざひと幕設けての海老蔵の「口上」はちょいと泣かせるだけのものがあった。新しい歌舞伎座のこけら落しで6月に團十郎がする予定だったのを父に代わってつとめる『助六』に、実は大いに期待している。これこそが、次代の歌舞伎を占うまさしく試金石、ここで目の覚めるような快打を一番、是非放ってほしい。

四座を通じての見ものは菊之助の『妹背山御殿』のお三輪だが、松緑の健闘もあったし、これがこけら落し直前のプレ・オリンピックの金メダル。他の三座は相撲の三賞でいうと、福助レベル、松也レベル、新悟・隼人・児太郎レベルそれぞれによくやった国立劇場組が殊勲賞、父の遺産をハイレベルの技術でよく受け継ぎ、自分たちの自立第一歩とした勘九郎・七之助兄弟のACTシアターが技能賞、父亡き後を急遽、座頭芝居で乗り切ったルテアトル銀座が敢闘賞、というところ、かな?

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新国立劇場の『長い墓標の列』がなかなかよかった。こういうものこそ新国立ならでは出来ない、出来たとしても世に広くアピールすることはむずかしい、好企画というべきである。もしかすると、新国立創立以来のベスト幾つかに数えて然るべきかもしれない。

モデルになっている河合栄治郎は例の『学生に與ふ』を昔、読んだことがある。現代教養文庫という、いかにも戦後民主主義が純真に信じられていた時代ならではの、往時若かった人ならだれでも、思い出せば歯の根が疼くような、懐かしさを感じる叢書の一冊だった。いかにも「古典的」という印象だったが、今度改めて、河合がこれを書いたのは、『長い墓標の列』に書かれている昭和一四年の事態と深く関わっており、かつて私が現代教養文庫の一冊として大学の生協の書籍部の棚で見つけて買ったのも、その少し前にぶどうの会でこの作を上演したのが評判をかちえたというようなタイミングの中でのことであったことに思い至って、なにやら(極めて個人的な)感慨に耽ったりもすることになった。

パンフの解説を読むと、当時すでに、ギリシャ劇になぞらえられたりしていたようだが、ギリシャ劇はともかく、河合を反映した主人公の山名ばかりを英雄的にクローズアップせず、その半措定として城崎と花里という教え子二人二様の人物をこしらえた巧さが、この作を今日見ても少しも古びて見えなくしている理由だろう。とくに花里が、師である山名を裏切る形になって帰ってゆくのを、母親(つまり山名の妻である)が強く勧めて娘の弘子が追ってゆくが、次の場になるとふたりが結ばれていないことが分り、最後の場で、父と決別して、ほっと重荷から解放されたような花里さんの様子を見たら、それ以上、追う気持が失せたと弘子に言わせるのが、実に巧い。(こういうところは師匠の木下順二より手練れなのではないかしらん。)

福田善之という人は、(一昨年だったか獅童がやった『一心太助』もそうだが)先代中村錦之助の芝居の脚本なども手掛けたり、なかなか食えない手練れの作者であることが、こうしてみると改めて知れる。(パンフの12ページに、中むら格子の浴衣を着た役者の胸から膝下までの写真が載っているが、あれはだれだろう。ひょっとして勘三郎か?)

これを見た週は、連日、昼は歌舞伎を見、夜は夜で、シアタークリエだ日生だと、(どれも悪くなかったが)九時過ぎまでかかる長い芝居を見た挙句で、その中でも、最長にして最重量の芝居だったにもかかわらず、居眠りひとつせずに引きつけられて見た。

こういう芝居は、名優の名演技は、往々、却って邪魔になる。もちろん拙くては困るが、実力のある俳優が素直に、真摯に、取り組んでくれるのが一番いい。その意味で、今回の出演者諸氏はなかなかよくやっていた。山名役の村田雄浩は、身体についている一種のおかしみが、この人物の一種の過激さを表わす上で、この人物を神のごとき人物にしてしまわない上で、なかなか有効だった。そのことがあって、この戯曲の二重性が陰影をもって浮かび上がるからである。

くり返し言う。これは新国立創立以来、ベスト幾つかに入る好企画である。

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WBCの各戦、洩れなくというわけにはいかなかったが、見られた限りの試合はみんな見た。何となく、冴え返らない空模様を眺めるような気分だった。結局、井端と鳥谷という、渋い脇役の名手が最大の功労者であったというところに、今回の戦績が象徴されている。それにしても、プエルトリコはいいチームだった。こういうチームのことを、データの収集と分析、などというレベルのことだけではなく、もっと、生きた人間の集団として、日本はどれだけ認識していただろう?

戦術・戦略について利いた風なことは言うまいが、ただひとつ、素人の最も素朴な疑問として、例の井端と内川のダブルスチールのサインのことだが、行けると思ったら行け、という、極めて「個人」の判断に関わることを、二人が同時にしなければならないプレーにどうして出すのだろう? 現に、ひとりは突進し、ひとりは自重した。ひとりは熱情型、ひとりは冷静沈着。一人は行けると思ったが、ひとりは行けないと思ったわけだ。当然、あり得べきことではないだろうか? それともうひとつ、あのプレーの前に、コーチが二塁の井端の処へ行って肩を抱くようにして何ごとかを伝え、一塁の内川には何もしなかったのは、何故だろう? 事情通にはそんなことは当り前なのかもしれないが、素人であるこちらはオヤと思った。思ったと思ったら、あれよあれよという間にああいうことになった。野球に限ったことではないが、玄人の常識はときに素人の素朴な疑問に応えてくれないことがある。これだって、現にああいうことになったではないか、と言いたくなる気持を私は抑えがたい。

しかしまあ、随分良くなったと思うのは、頭から野球後進国のチームをなめてかかるような言説が、報道人にもコーチその他の専門家の間で、あまり聞かれなくなったことだ。シドニーのオリンピックの時だったか。相手国がどこだったか、日本のM選手が先制のホームランを打った。すると解説者が、今日この試合を見た現地の人の中には、10年後、お父さんはあの日本のM選手のホームランを見たんだぞ、とお子さんに自慢する人もあるでしょうね、と言った。一見ほほえましそうなこの言葉の中に、どれだけの言われなき優越感と先進国意識が隠されていることだろう。(因みにM選手は、その後、弱小後進国の投手を打てず、たしか大会を通じて、そのホームラン一本だけで終わったのではなかったろうか。)

次のアテネ大会の時、某投手と某捕手の投球を見ながら放送の解説を引き受けていた高名な某監督は、この二人ぐらいのレベルになると、ボールを投げながら対話を楽しんでいる感じだね、などと言っているうちに、相手の後進国の打者たちに打ちこまれて某投手はノックアウトされてしまった。その他その他、この種の言説を、野球専門家の口からこれまでどれだけ聞いただろう。その意味では、今度なまじ「三連覇」などしなかったのは、悪いことばかりではなかったかもしれない。

もっともその半面、やっぱりメジャーに行っている選手が出なかったから勝てなかったんだ、と利いた風な声が高まることも目に見えているようだ。しかしメジャーに在籍する選手がうじゃうじゃいる中南米の国々では、自国のリーグはどうなっているのだろう? それが知りたい。少なくとも、選手もファンも、メジャーリーグというものを、少年のような純真さで、夢見るように見ている国は、日本だけではないだろうか?

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