随談第473回 勘三郎随想(その10)

(承前)このとき、弥太五郎源七の役をつとめていたのは先代河原崎権十郎であった。若き日に、そのころ「海老さま」という愛称で人気絶頂だったのちの十一代目團十郎に風貌が似ているというので、渋谷の東横百貨店の九階にあった定員一〇〇二名の中劇場東横ホールで行なわれていた若手歌舞伎のリーダー格だったところから「渋谷の海老さま」と呼ばれた権十郎は、まさに羽子板の役者絵のような、イナセで気ッ風(ぷ)のいい江戸前の役者だったが、年齢とともに渋味を増して、その弥太五郎源七はなんとも凄みのある老博徒ぶりだった。

強いて難をいうなら、勘三郎の若さに比して齢を取りすぎていたともいえる。源七は、ばくち打ちらしくもないなまじの分別など身につけてしまったために新三につけ込まれたが、まだ老人というわけではないからだ。だがそんなことより、このときの勘三郎にとって弥太五郎が権十郎であったことが、いかに大事であったか。この、実をいうと弥太五郎以上に凄みのある権十郎に対し挑みかかってゆく新三の姿が、勘三郎自身の若さと重なって、私はこの役の本質にはじめて気がついたのだった。

実力と威勢の上とさっき言ったが、冷静に見れば、まだこの時点での両者の威勢も実力も、弥太五郎の方が上の筈なのだ。新三は、衰えを見せはじめてはいてもまだ現役の大関に、奇襲をかけて初黒星をつけた気鋭の平幕力士に過ぎない。だが、ベテランの大関にとっては不覚の一敗も、勝った若手にとっては飛躍台の踏み板を蹴ったに等しい。予期以上に他愛もなく術中にはまった弥太五郎を見て、新三は増長する。

勘三郎の新三は「強え奴を叩かなくっちゃ」というセリフを、弟分の勝奴とのやり取りの中で強調する。強い奴を叩くことの快感を知った新三は、怒りにふるえながら帰ろうとする弥太五郎に向かって「箍(たが)のゆるんだ小父さんえ」と毒づく勝奴を、「これ、二つ名のある親分さまだ、失礼なことをいうもんじゃねえ」とたしなめるふりをして、せせら笑う。新三の若さを、このときの勘三郎によって、私ははじめて実感した。新三の実年齢を、私ははじめて意識した。このとき、新三はあきらかに、あとは下り坂しか残っていない弥太五郎に対して、自分の勢いを意識し、その快感に酔っているのである。

そのときから約二十年、演じ重ねるにつれ、勘三郎の新三はもはや揺るぎないが、新三と重ね合わされる若さの魅力もまた、失っていない。襲名の舞台での弥太五郎役は大ベテランの中村富十郎だったが、つぎの幕に登場して新三を小僧扱いにする老獪な家主の役は、二十年前の初役のときは長老の中村又五郎だったのが、今度は、同世代で子供の頃からのライバルだった坂東三津五郎がつとめている。もちろん三津五郎としては初役であり、忠七と二役を兼ねるという、そちらはそちらとしてのミソがあるにせよ、二十年の歳月を物語る配役でもある。おのずから、その襲名興行の舞台は、富十郎の弥太五郎との応酬以上に、三津五郎の家主とのやり取りの方に、興味と実感は移ることになった。

弥太五郎源七がまんまと新三に鼻をあかされたのを知った家主の長兵衛は、源七が白子屋から頼まれた示談のまとめ役を、みずから乗り出して引き受ける。源七が決めた示談金が十両と聞くと、そりゃあ親分らしくもないと嗤って、白子屋から事態を託されている出入りの車力の善八に、三十両で話をまとめてやろうと約束する。三十両という、なんとなく半端な感じのする金額を言い出したところに老獪な仕掛けがあることを、観客はやがて知ることになる。ここらあたりの、作者黙阿弥の練達の筆は、長兵衛以上に老巧である。

家主の長兵衛は、表面は廻りの髪結という堅気の職人を装っている新三が、じつは上総から流れてきた無宿人で、腕に入墨を入れられた前科者であることを承知で、素知らぬ顔で店子にしているという、なかなか食えない老人である。源七をみごと撃退したあと、新三が、四分の三両にあたる三分(ぶ)という、長屋暮らしの者には破天荒な値段で初鰹を惜しげもなく買って、勝奴に刺身につくらせて一杯やっているところへ上がり込んでくると、二枚に下ろした鰹の片身を貰い受ける約束をしてから、用件の示談にかかる。当然、新三は三十両という額には不満だが、入墨を見せて凄んでも家主には効き目がない。ちょっと解説めいた言い方になるが、家主というのは単なる借家の管理人ではなく江戸の警察システムの末端を担う存在であり、その家主に召し連れ訴えをしてお上に突き出すぞと逆に威嚇されては、新三は屈服せざるを得ない。こうして無事娘を救出すると、長兵衛は、示談金はやるが但し鰹は半分もらう約束だったと謎をかけて、三十両の半分の十五両を口利き料にせしめてしまう。この家主と新三の応酬は、さっきの弥太五郎源七とのドスのきいた対決と裏腹に、落語でも聞くような喜劇風の軽いタッチで運ぶ。硬軟とりまぜて観客を飽かせない作者の老練な筆遣いが、江戸の市井の人間模様を描き出す。達人の筆になる江戸の人間喜劇である。

十八代目襲名の折の『髪結新三』では、この場面がおもしろかった。三津五郎が忠七と二役を兼ねて、長兵衛を初役でつとめるという興味も手伝っていたことは事実だが、幼い頃から互いの演技の呼吸をのみ込んでいるふたりのやりとりは快適で、三津五郎のかっちりと緊密な芝居運びと、勘三郎の気迫とが相乗して、緊迫度の高い空間を作り出していた。もともと、自身と役の愛嬌を重ね合わせ、観客との距離をもおのずからなる役者としての感覚で測定し、親近感を巻き起こすことにかけて父ゆずりの天賦の感性をもった勘三郎としては、初演のときから既に堂に入っていた場面である。勘三郎ならではの巧さを見る上では、興味はこちらにあるともいえるが、先輩役者のつとめる長兵衛の時とは別種のおもしろさがそこにあったことが、私には興味深かったのだ。

弥太五郎源七に敵愾心を燃やして突っかかってゆく新三さながらに、先輩の役者のつとめる源七や長兵衛に立ち向かってこれまでを築いてきた勘三郎も、ふと気がついてみると、このとき弥太五郎をつき合ってくれた富十郎をのぞいては、源七役者も長兵衛役者もいなくなっている。もちろん勘三郎は、これからも新三を演じつづけるだろうが、その新三は、むしろそうした周囲の状況の変化によって、微妙に変わっていかざるを得なくなるに違いない。弥太五郎源七も家主長兵衛も、三津五郎をはじめ自分と同年配か下の者がつとめることが多くなってゆくだろう。もちろん、勘三郎自身も齢を取る。そのときに、新三の若さと自身の若さを重ね合わせ、先を行く者へ突っ掛かってゆくときにもっとも輝いたこれまでの行き方も、おのずから変わらざるを得ないだろう。

その意味で、襲名のときに齢五十にして演じた新三は、勘三郎自身の今後の有り様を暗示するものともいえる。五十歳という区切りのよい年齢で襲名(初舞台のときから勘九郎だった勘三郎にとっては、生涯ただ一回の襲名である)をするのは、外側からの事情から来る巡り会わせに過ぎないとしても、ひとつのエポックとしての感慨は、勘三郎自身にも、またその舞台を見続けてきた私にもある。一種の共犯意識、と前にいったが、翻っていえば、それは初舞台まもなくからその舞台を見つづけてきた者として、いまこのときを共有しているという思いの痛切さでもある。

・・・と、ここまで読み返してきて、覚えず、胸が詰まらずにはいられない。五年前に書いたこの文章は、当然のこととして、これからも永く勘三郎の新三を見続けるであろうことをまるで疑わずにいる。当然のことであったはずのことが、わずか五年後には当然でなくなっている。

このとき弥太五郎源七をつき合ってくれた富十郎ばかりか、新三を演じた当の勘三郎自身が既にない今、思い返してみると、昨年五月、平成中村座での最後の『髪結新三』は、これからは三津五郎をはじめ自分と同年配か下の者がつとめることが多くなってゆくだろうと書いた、まさしくそういう配役だった。忠七だけは梅玉がつき合ってくれたのだったが、それ以外は、勘九郎の勝奴は当然として、橋之助が家主長兵衛、弥十郎が弥太五郎源七という顔ぶれだった。それぞれに、なかなか悪くない長兵衛であり、弥太五郎源七だったが・・・。勘三郎の新三が、今後どう変わってゆくか、それを見とどけてゆく楽しみを、われわれは突如、奪われてしまったことになる。

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