随談第480回 勘三郎随想(その14)

7.「と」の章

父の十七代目勘三郎のことを、もう少し話したい。そもそも、「勘三郎二代論」というのが、私が十八代目を語りたいと思うサブテーマでもある。

父十七代目があっての十八代目であると同時に、十八代目があっての十七代目でもあると前にも言ったが、もしほ時代の十七代目のことを、気障でいやみな役者だったと言っていた安藤鶴夫が、すばらしい役者が誕生したと書いたのがちょうど十八代目の初舞台のころ、という時間と前後関係の符合は、安藤鶴夫ひとりの証言を頼りにするまでもなく、当時を語るさまざまなひとたちの言からも立証できそうだ。ほぼ万人の見るところ、十七代目襲名を境に、それまでの翳りが見る見る拭い去られた勘三郎が、いよいよ第一級の大俳優として「勘三郎ぶり」を発揮し出したのが、十八代目誕生から初舞台の前後と見てよい。その意味からいうなら、「名優」十七代目勘三郎は、十八代目が生んだのだということになる。私が十七代目の舞台を実際に見るようになったのも、まさしくそのころだった。

そのころの、歌舞伎座の筋書巻頭に載る顔写真に見る勘三郎を、私はいまでも思い浮かべることができる。実にいい顔だった、というのは、それは見事なまでに、そのころの十七代目の役者ぶりを雄弁に語る写真だったという意味であって、大立者らしい、いわゆる立派な顔というのとは、ちょいと違う。

眉宇に不敵な翳があって、目に表情が生動している。それが同時に、かすかな笑いを含んでいるようにも見えるのが、悪戯っ子のようでもあれば、覇気満々、機知縦横、颯爽の気に満ち溢れているようでもある。普通ならさほどおもしろいものではないパンフレットの顔写真の中で、あれほど、いろいろなものを読み取りたくなる表情をしている顔を、いまだに私は他に知らない。あの写真は、いつごろから使われ出したのだろう? あの写真こそ、いま私が語ろうとしているこの時期の勘三郎の「顔」なのだ。

その顔から、当時の十七代目のどの役が思い浮かぶか? ベストワン、という意味でなら、まだ他にも候補はあるかも知れないが、その人を語るのにもっともふさわしい代表作、という意味でなら、十七代目の場合にも、私はやはり髪結新三をあげる。

ただし私が見た十七代目の新三は、もうすでに何度も演じてからのもので、その意味では安定の域に達していたのであったのかも知れない。一九六五年五月、「六代目菊五郎十七回忌追善」という肩書のついた興行だった。このときは、「菊吉」以後の戦後歌舞伎の先頭に立ってきたビッグ6(シックス)ともいうべき六人のうち、当時東宝に在籍していた八代目幸四郎(白鸚)を除いた十一代目團十郎、六代目歌右衛門、七代目梅幸、二代目松緑、それに十七代目勘三郎の五人が、「舞踊五段返し」として六代目菊五郎ゆかりの曲を一曲ずつ踊るのが呼び物だった。その一曲として『保名』を踊る團十郎が、何か不満があったかして初日から休演していたのが、急遽月半ばから出演するということがあり、しかも後から見れば、この『保名』を本興行での最後の舞台として間もなく入院、秋には癌のため死去するという波乱があったりして、なおさら忘れがたい思い出となっているのだが、因みに十七代目はこの五段返しの中では、『良寛と子守』を踊ったのだった。坪内逍遥の作になる新舞踊で、良寛にからむ子守娘が勘九郎である。「この子は本当に良寛の話に聞き入っている」と、長老批評家の濱村米蔵が、舌を巻いた、といった感じで劇評に書いていたのを覚えている。勘九郎、満十歳のはずだ。

ところでこのとき十七代目が演じた『髪結新三』は、昼の部に松緑が『魚屋宗五郎』を出したのと裏表のような形で夜の部に出た。六代目菊五郎の黙阿弥の世話物の傑作二編を、その衣鉢を継ぐと目された勘三郎・松緑のふたりがそれぞれ演じるというのが、眼目となっていた。松緑は松緑で、宗五郎は六代目から受け継いだ遺産の中でももっとも自負するところであったろう。勘三郎松緑、それぞれ期するところあったであろうことは、想像に難くない。(松緑は、舞踊五段返しでは『浮かれ坊主』を踊っている。ついでだが、この『魚宗』で、宗五郎の家に酒を届けに来る酒屋の小僧の役が、三年前に初舞台と同時に襲名した坂東八十助、つまり現三津五郎だった。)

いわゆる「型」というような、やり方としては、十八代目がよく写しているから、することにかわりはない。だから違いといっては、部分部分の演技の印象ということにならざるを得ないのだが、とりわけ、それは目遣いにあらわれる。十八代目も、こうした芝居での目の遣い方がうまかったが、十七代目のそれとは微妙に違う。技巧の差でも、写し方が不十分なのでもなく、おのずから質の違いとなってあらわれる。目の色でいうなら漆と墨、血液でいうなら濃と淡、気質でいうなら粘液質と多血質、複雑と明快、どう言っても切りがないが、こうした細部の違いは、見終わっての印象というトータルな人間像としての新三という男のイメージとなって、十七代目の新三と十八代目の新三とでは、別様なチャームをもった存在として、見た限りの者の脳裏に定着することになる。そうしてやはり、この違いの依って来たるところを考えてみれば、親子といえども個性の違い、その生きた時代の違いと同時に、十七代目という役者を成り立たせていた背景について、またしても考えないわけにはいかなくなってくるのだ。

そこで、あの、昭和三十年代当時のプログラム巻頭の写真である。不敵さの下に見え隠れする翳。一言にして、その魅力の意味を読み取っていうなら、それだろう。小冠者、という言葉を、私はその写真の十七代目の風貌から思い浮かべていた。年齢からいえば、当時すでに五十歳の前後に達していた筈だ。たまたま自分の母親が、十七代目と同じ明治四十二年の酉年生まれであることを私は知っていたから、十七代目が実際にはそれほど若いわけではないこともわかっていた。しかし、ほぼ同年配の八世松本幸四郎の重厚さなどに比べても、「小冠者」というその眉宇から直感したイメージは、わたしの十七代目観の根底を形づくっている。

そうは言っても、その頃、十七代目勘三郎はすでに赫々たる大家であったから、目に見るかぎりのその舞台姿は堂々たる貫録である。それにもかかわらず、その奥に、私は「小冠者」としての十七代目の在り様を感じ取っていたのだ。大家としての外面の奥に見て取れる、永遠に歳を取らぬかとすら思える悪戯小僧の面影といおうか。いま思えば、そのとき私は、未熟な観客なりの目で、そこに十七代目という役者の本質を感じ取っていたことになる。かすかな笑いを含んでいる、とパンフレットの十七代目の顔写真のことを言ったのを思い出していただきたい。悪戯っ子の目、といってしまったのではストレートすぎて本当は面白くないが、油断のならぬ小娘も巨(こ)袋坂(ぶくろざか)に身の破れ、と弁天小僧のセリフにある、ただ者ならず、と見る者の関心をひかずにはおかない、颯爽感である。

このときの『髪結新三』では、忠七役は十四代目守田勘弥、お熊はまだ当時は七代目大谷友右衛門だった中村雀右衛門だったが、この配役もまた、十七代目の新三に配するにこれ以上のものは思い当たらない、絶妙の配役であったといまでも思う。白子屋の財政が傾いたため、五百両という持参金つきの入婿を取るという話を母親から聞かされたお熊が、忠七に駆け落ちを迫っているところへ、道具箱を提げた新三がやってきて門口で様子を伺う。もうそれだけで、幾重もの波乱を予感させてぞくぞくする。

筋の上では、この段階では、忠七はまだ奉公第一、ご恩を受けた主筋へ迷惑はかけられぬと忠義一途の口を利いているのだが、勘弥を見ていると、そういう言葉の表よりも、肚の中がおのずから表にあらわれて、お熊とうじゃじゃけているような印象として、記憶のなかに定着している。その後だれの忠七を見ても、こういう、忠七という男の本音というか、本質というか、優柔不断がお店者(たなもの)のユニフォームである縞物の着物を着ているような、つまり役の本質が衣裳をまとっているような忠七というものを、ついぞ見たことがない。新三に駆け落ちを唆されてその気になる。永年、白ねずみのようにお店大事で働いてきたけれど、ここで一番肚を決めて「いたずら者になりましょうわえ」という、そのあたりの何とも言えぬ軽み。言うなら、人生の岐路に立っている筈なのだが、うじゃうじゃ感はこの男から抜けることがない、とでも言おうか。

勘弥の二枚目役というと、『籠釣瓶』の栄之丞のヒモぶりが有名だが、忠七にせよ栄之丞にせよ、この種の役をこういう感覚で捕らえ、演じるのが、二枚目というものなのだということを、私は勘弥を見ることが出来たお陰で知ったのだといえる。その意味でこの人も、存在するだけでその役になれる、絶対の仁をもった「最後の役者」のひとりだったのだ。

こうして勘弥と雀右衛門がうじゃじゃけているところへ、勘三郎の新三がやってきて立ち聞きをするという、もうそれだけでぞくぞくする面白さというのは、どう言ったらいいだろう。勘三郎の眉宇に漂う、なんとも言えない不敵な翳が、この新三という男の併せ持つ幾重もの人物の存在を映し出している。

表に見せているのは、愛嬌と愛想を売って得意先を廻って歩く、廻りの髪結である。しかしその愛嬌の下に、この男がなにやら野太いものを秘めていることは、その身体から発散する体臭のように、あきらかに読み取れる。自分の才覚ひとつを頼りに体を張って渡世をしている者の発散する、一種のオーラともいえる。(この項つづく)

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