11.「る」の章
ところで明治四十二年生まれの十七代目が、三代目中村米吉を名乗って市村座で初舞台を踏んだのは大正五年、七歳のときだった。このときのことは、自伝でも述べているし、ラジオに出演してみずから話しているのを聞いた記憶もあるから、いろいろなところで語られているに違いない。私が聞いたのは、功成り名遂げてからのゆとりが言わせた笑い話としてだったが、その初舞台披露の口上の席で体験した思いは、幼い米吉少年にとっては文字通り終生忘れがたいものであったに相違ない。はっきりいえば、それは、七歳のいたいけな少年の心に、染みとなって残るものだった。
初舞台披露の口上は、長兄初代中村吉右衛門が幡髄長兵衛をつとめる『花川戸噂の俎板(まないた)』の狂言半ばに行なわれた。今日でもよく見かける、狂言半ば、つまり劇中にいったん芝居を中断して、出演中の主立った役者たちが扮装のまま、素に返って祝いのスピーチ、つまり口上を言う。終わればまた元に戻って芝居が進められる。まさに虚と実の皮膜の間に、祝い事が行なわれる、考えてみればこれほど歌舞伎という演劇の本質を露呈しているものはないともいえる。
さてその狂言半ばの初舞台披露で、口上を言ってくれたのは兄の吉右衛門だった。
「口上を申し上げます」
と吉右衛門が言って、
「ここに控えおりまする私の、倅、ではない、弟の・・・」
と続けると、ここでお客がどっと笑う。なぜ笑うんだろうと、毎日毎日考えても、幼い私にはその理由がわかりませんでした。吉右衛門兄さんは、兄弟とはいっても二十二も年上で私のおっ母さんとおないどしでしたから、文字どおり親子ほど離れていたわけです。
<自伝・やっぱり役者>
ゆるぎのない大立者になった十七代目の語る幼い日の思い出だが、七歳の子供が受けた心の傷が思いやられる文章である。吉右衛門にしてみれば、ちょっぴり複雑な家庭内の事情を背負って生まれた幼い弟を見物に引き合わせるのに、役者らしい愛嬌に包んでみせたわけだろうが、つまりのちの十七代目勘三郎の米吉少年は、父である三世中村歌六が老年になってから外に作った子供だったのである。
歌六は、本妻とのあいだに、初代中村吉右衛門、三代目中村時蔵という立派な後継者をもっていた。米吉は、歌六が六十一歳でつくった孫のような子である。戸籍は父の歌六の籍に入ったが、実際の暮らしは、十歳のときに歌六が死んでしばらくして引き取られるまで、兄たちと一緒の暮らしではなかった。いわゆる「めかけの子」としての哀しみを、十七代目は自伝でしみじみと語っている。父の歌六は想像されるように、米吉を猫ッ可愛がりに可愛がったが、それとこれとはまた別の話だったろう。
三世歌六は、のちに赫々たる覇者となった十七代目が五十回忌の追善興行を歌舞伎座で催したとき、『伊賀越道中双六』沼津を出して亡父の当たり役だった雲助の平作を演じ、大正八年に死んだ歌六を見覚えていた古い劇通から、あまりにもそっくりなのに驚嘆の声があがったといわれる。古い写真に残るその面影を見ても、明治元年に二十歳だったという人の、時代のへだたりから来る相違や、團菊に楯突いたという人らしい不羈な風貌のむこうに、十七代目や、さらには十八代目にもまぎれもなく伝わっている、波野の家のひとの面差しを読み取ることができる。
愛嬌たくさんの芸達者で、晩年は好々爺然として終わったというが、壮年期までは覇気満々、圭角が多いためにみずから不遇を招いたともいわれている。明治の歌舞伎界の王者だった九代目市川團十郎に楯突いたためという話が伝わっているが、しかしそれ以上に、芸風や芸に対する考え方が昔風で、近代歌舞伎の潮流に乗り切れなかったというのが、実情ではなかったかと思われる。『市川左團次芸談きき書』という本の中で三代目市川左團次が、「明治の中頃からこの三代目(歌六)が東京で大いに名をあげてね、東京でも大阪でも押しも押されもせぬ大立者になって、俗に大播磨。立役と女形、両方よかった。特に義太夫ものじゃあ、誰も敵わなかったって言いますね」と語っている。
つまり三世歌六は、名優と呼ばれてしかるべき実力の持主だった。だが忌憚なくいうなら、近代歌舞伎史をひもとくとき、その存在の扱われ方は決して大きいとはいえない。芸の実力と、もうひとつ、その芸を時代の趨勢と反りを合わせられるかどうかが、命運を決めるのだ。近代の歌舞伎を考えるとき、このことを抜きにしては見えるべきものが見えてこない。
歌六といえばよく引き合いに出される逸話がある。得意にしていた『奥州安達原』の安倍貞任を演じていて、花道で、敵にむかってキッと振り返り、「何やつの」と言った後、照明のランプに手を伸ばして、「ああ暗(くら)」といいながらランプの芯を出して明るくしてから、「仕わざなるや」とセリフをつづけたというひとつ話である。この逸話はふつう、歌六という役者が、いかにも昔風の、一風変わった気骨をそなえた人物であることを語る笑い話として語られるのだが、それと同時に、役の人物の心理や内面を分析する近代的な演劇であろうとする團十郎などの歌舞伎とは正反対の、客とともにひとつの空間のなかで、芝居の虚と実の間を自在に往来する、歌六の昔風の歌舞伎観をおのずから物語っているように、私には見える。
歌六の当たり役だった『沼津』の平作は、十八代目も受け継いですでに自分のものにしているが、十七代目の演じるそれは、役の愛嬌と気骨と、演じる役者の愛嬌と気骨が渾然と重なり合い、愛嬌で観客を無条件に喜ばせ、気骨で共感と感動を呼ぶという、勘三郎の芸のあり方をそのまま反映した、一代の芸としてもユニークな位置を占めるものだった。さっき引用した三代目左團次は、十七代目の『沼津』を見ないで亡くなっているが、「いまの勘三郎さんが、どことはいえないが何ンかのとき、びっくりするような歌六のにおいを見せるんだ」とも語っている。もしあの平作が、老劇評家の証言どおり歌六にそっくりだったとするなら、十七代目からさらには十八代目にまで疑いなく流れている、ひとなつっこい、なつかしさを感じさせるような、あたたかな愛嬌は、三世歌六に源泉があることは間違いない。
12.「を」の章
十七代目勘三郎の演じるこの平作について、忘れがたい場面がいくつかある。
ひとつは、幕開きの沼津の宿(しゅく)の、棒鼻といって、宿場のとっつきにある立場で、茶店の縁台に掛けて一服している重兵衛に、平作が頼んで荷物を持たせてもらうところ。もう日暮れも近いのにまだ一文も稼いでいないというのを憐れんで、では、と荷物を持たせてみると、足元はひょろひょろとおぼつかない上に、少し行くとすぐ荷物をおろして休んでしまう。おかしみの場面だから、誰が平作をやっても客席から笑いが湧くところだが、ここでの十七代目の愛嬌はまた格別だった。
旦那さん、あそこの店の泥鰌はまた格別でござりましてな、などと気を引くようなお愛想をいっては、おちょぼ口をして、オホホホホ、と笑う。このおちょぼ口のオホホホホが、十七代目ならではの愛嬌であると同時に、平作という老人の愛嬌と重なり合う。
一徹で、貧しくともその貧しさに負けない気概があり、だからこそ、決して物乞いをするのではなく、旅人の荷物持ちという労働をして、たとえわずかな額ではあってもその報酬を受け取って、生業(なりわい)を立てている。だが老齢の身には、重兵衛の荷物は重い。三歩歩いては肩の荷を下ろして息を入れる。もう荷物持ちの仕事はつとまらないことを悟られまいと、世辞を言ってはおちょぼ口でオホホホホと愛想笑いをする。
誰の平作でも、この老人の人となりを演じ表すことに変わりはないが、このオホホホホは十七代目勘三郎が独特であり、ほんのちょっぴりわざとらしく、しかしそれが故に人の心を引く。この年寄りの哀しみと、雲助はしていても気概を失わない、達観した老人ならではの明るさと、人なつっこい愛嬌とが、次々と襲ってきて見る者をとらえてしまう。
いま、ほんのちょっぴりわざとらしいと言ったが、オホホホホにかかる、その一瞬の間に、十七代目勘三郎の愛嬌と芸がある。ある種のずるさ、といってもいいが、これに似たものと言っては、藤山寛美が得意とする阿呆の役をするときに、敢えて一瞬、間をとって、決め手となる言葉をくりかえしてみせるということをやったのが思い浮かぶ。観客の「気を取る」ことのうまさである。
こうした、客の気を取る芸を、あざといと言って嫌う人もいる。たしかに、ひとつ間違えば、それは客への媚とつながっている。しかし芸とは、芝居とは、演じる者と見る者との交感の中にあると考えれば、急所急所でこうして客を巻き込んで芝居をすることは、芸というもの、芝居というものの本質に根ざした行為とも考えられる。十七代目は、一面では役になり切ることを大事にする俳優だった。だが同時に、客の気を取ることに長け、またそれを好む役者でもあった。矛盾といえば矛盾だが、その両面を抜きにして、十七代目勘三郎という役者も、その芸も考えることはできない。
それで思い出すのは、『俊寛』で、赦免の船が到着してまず下り立った瀬尾が声を掛けると成経と康頼が出てきて「これに候」と這いつくばる。と、ほんの一呼吸、間をおいて、「俊寛もこれに候」とよろぼい出る、その「間」の絶妙さだった。こう文字に書けば、誰が俊寛をやったってここの手順は同じことなのだが、十七代目のみにあって、他の誰にも、十八代目といえどもなかったのは、この、ほんのひと呼吸遅れて「俊寛もこれに候」と声をかけておいてよろぼい出る、十七代目の間の巧さだった。その、わずかな一瞬の「間」で、この後に待っている俊寛の運命が予感となって観客の胸に突き刺さる。いや、この後のストーリーなど、よほどの初心の観客でなければみんな知っているのだ。今更そこで「ハッ」となどしなくとも、俊寛のこの後の悲劇はみんな知った上で見ている(筈だ)。それにもかかわらず、何度見ても、いつ見ても、十七代目の「ここ」の間の巧さには、してやられたのだった。
もしかするとそれは「だまされた」のかもしれない。そもそも原作の浄瑠璃では瀬尾と丹左衛門は一緒に船から下りてきて、声を掛けると三人がわれ先にと使の前に進み出るのだから、歌舞伎のいまのやり方は、ひとつには丹左衛門の役をよくするために後から登場させるのと、もうひとつには、俊寛を際立たせるためなのだから、十七代目のこの「出」の巧さというのは、ある意味で、観客の「気を取る」巧さと、ひとつにつながっているものに違いない。劇場という空間の中で「演じる」という「芸」とは、必ずそうした「魔術」と表裏一体のものであって、観客はそれに「だまされる」ことによって快感を得るのだという一面を取り去ることはできない。十七代目の芸とは、そういう「芸」というものの本来的な魔力と魅力を、見る者に感じさせるところに根差していたのだと思う。
(十七代目の俊寛は、泣き過ぎるという批判があった。クーデターの首謀者でありながらあんなに女々しいのは同情しがたいと、変痴気論めいた批評をするものもあった。たしかに、あんなに涙(と鼻水)でぐしゃぐしゃになってしまう俊寛もなかったろう。しかしそれにもかかわらず、あれほど「泣かされて」しまう俊寛もなかったのも事実である。)