随談第497回 勘三郎随想(その26)

28.「く」の章

再び、勘三郎随想をつづけよう。

「兼ねる」役者という言葉がある。故事来歴を言い出すと話がつい解説書めくことになるが、十七代、十八代、二代の勘三郎について考えようとすれば、避けて通るわけにもいかない。

今日では、かつてのような、別格的な名優の代名詞という意味での「兼ねる役者」という概念はもうない。しかし役柄を自在に越境し、さまざまな役を多彩に演じる俳優は存在する。十八代目勘三郎が、そうした現代的な意味での「兼ねる」役者の代表的なひとりだったことは間違いない。多様さの点で匹敵するのは他には猿翁と菊五郎、それに坂田藤十郎を数えるぐらいだろう。しかし猿翁や菊五郎、藤十郎と勘三郎ではその「兼ねる」在り様はそれぞれ異なっていた。これから勘三郎の芸の多面性を見てゆくことにするとして、歌舞伎俳優としての勘三郎の芸の「本籍」は「若衆方」にあると私は考えている。勘三郎は女方もするし、その本領は和事味のある二枚目役にあるが、その二つの水脈の源流は若衆方にある。これまで勘三郎が演じてきた若衆方の役の中から、その芸を語る上でもっとも本質的な役を選ぶなら、『菅原伝授手習鑑』佐太村の桜丸、『鈴ケ森』の白井権八、『白浪五人男』の弁天小僧の三役ということになるだろう。

が、その前にもうちょっと、寄り道をしておきたい。

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「若衆方」とは、おそらくその淵源を、今日の歌舞伎の原点である「野郎歌舞伎」よりも古く、「女歌舞伎」と併行しやがて禁止された「若衆歌舞伎」にまでさかのぼることができるに違いない。そもそも前髪とは元服前の男子のシンボルで、それを剃り落として成人男子、つまり野郎になる。女方や若衆方の役者の前髪を法令によって剃り落とさせたところに、権力というものの意地の悪さを感じさせる。言い換えればそれだけ、女方と若衆方は歌舞伎の根幹に関わる役柄であって、歌舞伎の地下水を最も深いところから吸い上げている役といえる。

現在でも、若衆方は女方の俳優が兼ねることが多い。私などの世代の観客にとって、若衆方の最もすぐれた俳優といえば真っ先に思い浮かぶのは七代目梅幸であって、戦後歌舞伎の立女形として梅幸と車の両輪であった六代目歌右衛門が、ごく限られた例外以外は立役を演じない真(ま)女形(おんながた)であったのと、好対照をなしていた。『妹背山婦女庭訓』吉野川の久我之助、『本朝廿四孝』十種香の勝頼といった役がすぐに思い出される。その延長線上には、『仮名手本忠臣蔵』の塩冶判官や『勧進帳』の義経など、気品ある二枚目役の傑作がごく自然に連なっていた。かつての若衆歌舞伎につながる要素をうんぬんするよりも、その品格の高さと気韻は、近代歌舞伎の到達した精華というべきものだった。

梅幸の若衆方や二枚目が近代歌舞伎の陽の面を代表するものだったとすれば、十七代目勘三郎がときに演じて見せたその種の役々には、もう一倍古風な、古い時代の歌舞伎の匂いが立ちこめていた。その中でも、十七代目が七十四歳という高齢で演じた『鬼一法眼三略巻』菊畑の虎蔵を、私は忘れられない。

この虎蔵という役は、じつは源ノ牛若丸だから少年である。平家方の鬼一法眼の屋敷に身をやつして奉公しているという設定で、前髪の若衆姿で登場する。しかもその衣裳が、紫地に袖と裾が白の雁木模様という着付けに、水(みず)浅葱(あさぎ)(ライトブルー)と金で斜めの段になっている襟がついており、肌脱ぎになると、同じ柄の襟のついた赤い襦袢という大胆なデザインである。歌舞伎の衣裳としても、かなり派手な方に属する。この衣裳を着てすんなり似合うようになるだけでも大変なことに違いない。

七十四歳翁の演じる虎蔵を私が忘れがたいのは、演技そのものよりも、こうした扮装で登場する十七代目の、なんとも異様でありながら、それにもかかわらず、不思議な均衡を保っているその若衆ぶりだった。晩年の十七代目は、前に言った昭和三十年代当時のような、精悍さを秘めた小気味のいい小冠者の風とは違って、全体に太って老いも隠せなくなっていたが、その十七代目の扮した虎蔵でなにより印象的なのは、白塗りに前髪の鬘をのせた顔がバランスを失するまでに大きく見えたことである。はじめて歌舞伎を見る人がこれを見たなら、壮大なグロテスクを感じたに違いない。

しかし、この虎蔵は面白かった。グロテスクといえばグロテスクだが、色奴姿の吉右衛門や赤姫姿の時蔵といったわが子のような若手(三十余年前の彼らである)とからんで芝居をしているうちに、はじめ感じた不均衡がいつの間にか不均衡でなくなり、そこから、歌舞伎の若衆という役柄の本質のようなものが浮び上がってくる。なるほど、若衆方というのはこういうものなのだと納得されてくる。それは、梅幸の演じる虎蔵よりも、もう一段、古風な感触に満ちていた。梅幸が洗い落とした古い歌舞伎の、若衆方という役柄の持つ危うい感覚が、ここには持ち伝えられているかのようだった。

正直に言って、この虎蔵を、はじめて歌舞伎を見る観客にすんなり受け容れてもらうのは、難しいかもしれない。しかしもしかしたら、その超現実ぶりに心惹かれる少数派もいるかも知れない。面白いのは、こういう場合、十七代目のこの古怪なまでの若衆方の面白さを支持するのが、必ずしも、年齢や、歌舞伎をどれだけ古くから見ているかには関わらないことである。写楽の絵の面白さを言い出したのが、決して、古くからの浮世絵の愛好者たちではなかったように。歌舞伎の面白さも、いつも年寄りから順に知っているわけではない。シュールだ、などといって十七代目の虎蔵を面白がった若者だっていないとも限らない。

そこまで考えた上でいうのだが、じつは十七代目勘三郎は、まだ中村もしほといった若いころは、じつは女方だったのだ。しかも真女形ではなく、若衆方を兼ねるタイプの女方だった。中年以降、半ばみずから求めて立役に領域を広げ、戦後歌舞伎という同時代の代表的立役の中でもひときわ広い芸域を持つ、兼ねる役者になったが、その真骨頂は、同じ二枚目でも、たとえば『仮名手本忠臣蔵』なら、色にふけったために身を滅ぼしてしまう早野勘平のような、和事味のかかった柔らか味と色気をはらんだ役にあった。

つまり十七代目勘三郎は、まだやっていない役を数えた方が早いくらい役柄の領域を広げ、ギネスブックに登録されるほど数多くの役を演じ、そのそれぞれにさまざまな傑作や佳作を作ったが、若衆方という芸の「本籍」はついに変わることはなかったのだ。七十四歳でつとめた「菊畑」の虎蔵が、いかにグロテスクに見えようとも、演じ込んでいく内に、若衆という役柄のエッセンスが浮かび上がってくる。それが十七代目という役者の「仁」だったからである。

29.「や」の章

さて、十八代目の若衆方について語るために随分と長い助走が続いたが、『忠臣蔵』で若衆方の役といえば、大星力弥である。十八代目も、当然のように若き日には力弥をつとめている。昭和五十二年十一月は、東京方の俳優は歌舞伎座に、関西の俳優は大阪の中座に結集し、東西で同時に『仮名手本忠臣蔵』を上演するという、昭和の『忠臣蔵』上演史でも記録的な意味を持つ上演だったが、このとき、二十二歳だった勘三郎は「四段目」の塩冶判官切腹の場の力弥をつとめたのだった。

力弥は、実説の大石主税に当たる役だからまだ前髪の少年である。しかし歌舞伎では、この役は単なる元服前の少年というより、若衆方の感覚をブレンドした役として演じる役とされている。切腹の座についた塩冶判官が、由良之助の駆けつけてくるのを待ちかねるところで、向かい合ったふたりが、目と目を合わせ、判官の無言の問いかけに力弥がかぶりを振って応えるという場面で、上方式の演出では、この場の力弥は、「踏ん込(ご)み」といって赤い脚絆をつけたり、衣裳の襟足を女性のように抜いて着たり、若衆方の役であることを強調するやり方が、いまでも踏襲されている。男色の関係を暗示するのだともいわれるが、判官と力弥がそうした関係にあったというよりも、(原作の浄瑠璃にもそんなことは書かれていない)、殿様と小姓というものはそのように演じるのだという、ある種のコンヴェンションに属することだろう。かつて片岡秀太郎が力弥をつとめたのを見たときは、なるほど、若衆方というものの在り様を眼前に見る思いがしたものだ。

実説の忠臣蔵物の感覚に近くなっている東京式の力弥は、それに比べると、実説の大石主税の感覚に近づいているが、それでも、中振袖の袂から赤い襦袢が覗いたり、若衆の中性的な感覚は残っている。さて当時二十二歳の勘三郎のつとめる力弥は、こう述べてきた現代の歌舞伎の力弥として、ほとんど理想的なもののように思われた。理想的というのは、若衆という、歌舞伎のもっとも根源的な役柄の本質を踏まえながら、現代の観客の多くがもっている実説の大石主税のイメージにもつながる、凛とした末頼もしい少年ぶりをも満足させるものだったからである。

勘三郎の力弥は、観客の多くが期待する力弥=主税のイメージを満足させつつ、若衆という歌舞伎の水源から水脈を引いている役柄の感覚をも備えているところに、すぐれたものがあった。前者だけなら、他にも人はいるだろう。しかしそれだけでは、赤穂義士の物語の大石主税にはなっても、歌舞伎の義太夫狂言『仮名手本忠臣蔵』の大星力弥としては不十分といわざるを得ない。これはほとんど、天性というべきだろう。父もまた、そうした仁の持主であったことは既に言った。二代にわたる勘三郎父子の、これは身体にあるものであり、血の濃さを思わざるを得ない。

しかし同じ若衆方の役でも、力弥は、常識的には若いときにつとめる役であり、「菊畑」の虎蔵のように七十四歳の老優がつとめることはちょっと考えられない。『忠臣蔵』という周知のストーリイに基づいた劇であることも一因だろうが、それだけではなく、役そのものの性格が比較的平明だからである。白井権八の場合は、力弥より一倍、若衆という役柄が本来的に持つ感覚をコンヴェンションとして担っている。「色若衆」という言い方があって、それだけ、歌舞伎の味が濃い。「菊畑」の虎蔵もそうであるように、むしろ、実際に年齢の若い若手には演じこなすのがむずかしい。身体についた色気とか味といったものが優先し、生身の若さだけではどうにもならないからだ。

勘三郎が『鈴ケ森』の白井権八を初役で演じたのは、力弥の二年後、名古屋の御園座でだが、私はこのときは見ていない。はじめて見たのは、はるか後、平成五年と六年につづけさまに演じたときだった。勘三郎三十七歳から八歳、毎年八月歌舞伎座での「納涼歌舞伎」が恒例になって四、五年目になっていた。シアター・コクーンでの活動がこの直後に始まるというタイミングである。

『鈴ケ森』という芝居は、本来『浮世柄(うきよづか)比翼(ひよくの)稲妻(いなずま)』という鶴屋南北の作の一場面が、人気狂言として独立したものであり、通しで上演する場合には「鈴ケ森の場」という一幕となる。白井権八が登場する狂言は、現在の歌舞伎のレパートリイの中では他に『其(その)小唄夢(こうたゆめも)廓(よしわら)』があり、勘三郎はやはりこの時期にそちらもつとめているが、私がとりわけあっと思ったのは、平成六年四月に『御存(ごぞんじ)鈴ケ森』という外題で一幕物として演じたときだった。

権八は、文政年間に鶴屋南北の狂言を数多く初演した女形の五代目半四郎が演じて以来の役ということになっている。紅絹(もみ)の脚絆をつけるのは、「菊畑」の虎蔵や上方式の『忠臣蔵』の力弥と同じく色若衆の衣裳のいわばお約束だが、品川の海の近い夜の潮騒に「浜辺のようじゃな」と耳を傾ける仕草や、「雉も鳴かずば撃たれまいに、益ねえ殺生いたしてござる」と言いながら砂を拾って手をはたく仕草とか、そのほか角々のセリフ回しにも約束事がいろいろあって、若衆方の演技のエッセンスで成り立っている役だといえる。こうした、口伝のたくさんあるやかましい役を、勘三郎は、むしろそうした約束事のひとつひとつを、心を籠めて演じるのを楽しむかのように見えた。角々をきっぱりと演じながら、和事らしいふっくらとした柔らか味があって、芸盛りの年齢を迎え、力弥のころとは比較にならない、役者としての尾鰭をつけていることがよくわかった。

つい前年に国立劇場で通し狂言の一幕として演じたときは、鶸(ひわ)色(いろ)、つまり黄味がかった薄緑色の衣裳を着たが、歌舞伎座で一幕物の『御存鈴ケ森』として演じたこのときは、黒の衣裳を着た。鶸色の衣裳の方が柔らかな色気があり、岩井半四郎の型ということになっており、女方がつとめるときは鶸色を着ることが多い。一方黒の衣裳は、夜の場面だから背景一面に黒幕を張り詰めてあるので、背景と衣裳と、黒の中から権八の白い顔が浮き上がって見えるのが、また違った美しさがある。立役の場合は、おのずから黒を着ることが多いが、勘九郎はその両方を試みたのだった。短い間に続けてつとめることを配慮したためでもあろうが、両方を試みることができるのは、「兼ねる」役者なればこそともいえる。

権八は、父の十七代目も傑作だった。私が見たのは、先に話題に出た昭和五十一年四月、猿若祭三百五十年記念の興行で、六十七歳で演じたときだったが、このときも、七十四歳の折の「菊畑」ほどではないにせよ、まるで動く大首絵を見るような権八だった。グロすれすれといってもよい。熟し切って、針で突けば果汁が滴り出す熟柿のように、どろりと濁ったような味感は、若手のつとめる権八には求めても求められない境地のものだった。

もちろん、このとき三十八歳の勘三郎に、六十七歳の父のような、熟柿のとろみのような老熟の味などありよう筈はない。しかし役相応の年齢の若手には及びもつかない、芸盛りの年齢ならではの熟成感と充実感は、いまこのときを共にしている喜びを見る者に感じさせるものだった。思えばこの頃が、十八代目襲名へとつながる成熟の季節のはじまりであったかもしれない。益ねえ殺生いたしてござる、と言いながら、砂をもてあそんだ手をはたきつつ前に歩み出るときの、和事の味わいはいまも忘れがたい。勘三郎に大人の役者を感じさせた、ひとつの大きなポイントだった。

それにしても、筋としてはほんの局面、ドラマとしての首尾も完結していないこのひとコマが、芝居として成立してしまうのは、歌舞伎という演劇のある特性を物語るものだろう。なぜ成立するのかといえば、歌舞伎を組み立てている役柄のエッセンスが、権八と長兵衛のふたりの人物それぞれに充満しているからで、それを見せるだけで、「歌舞伎という名の演劇」は成立し得るのだ。若衆と実事の立者。典型と典型。典型の中にこそ、歌舞伎の生命が潜んでいるからともいえる。

それから二十年の時が経って、平成二十四年二月の新橋演舞場で、勘三郎はひさびさの権八を吉右衛門の長兵衛を相手につとめた。勘太郎が勘九郎を襲名するという興行の、特別の一幕のような趣きだったが、業病から薄紙を剥ぐように回復してゆくさなか、白く塗った顔にかえって玲瓏な趣きが現われて、古色がさすがに増していた。勘三郎復活を告げるかのような手応えがあった。かつての十七代目と白鸚の顔合せを見るよう、との声も聞こえた。つまりそれは、昭和五一年の猿若祭で演じられた、あの記憶がそう言わせるのだった。幕が閉まった後、吉右衛門の側から握手を求めたという風聞も伝えられた。久しく二人の共演は途絶えており、待たれていた顔合わせだった。だがそれが、二人にとっての最後の顔合わせであり、勘三郎にとって最後の『鈴ヶ森』となった。

30.「ま」の章  (談話・梅幸のおじさんのこと)

―――梅幸のおじさんはねえ。これはぼく一番多いですから、習ったものが。判官、義経、桜丸、権八、勝頼、お三輪、お光・・・・、もう切りがないですよ。あのころにやった役のほとんどはおじさんに教わりました。ぼくのお師匠さんですからねえ。娘方、二枚目、ほとんどですね。

―――まあ、おじさんの判官は天下一品ですよ。これはもう凄いです。義経も好きだったけれども。それで面白いと思ったのは、こないだの正月、浅草公会堂で子供たちのやった芝居の初日。仁左衛門、玉三郎、勘三郎、その前には雀右衛門のおじさんも来てくれて、みんなで見たんですよ。それで思い出したんだけど、歴史はくりかえすじゃないけれど、ぼくが初役の勘平、初役の判官をやったときの舞台稽古は、見ているのが歌右衛門、松緑、梅幸、勘三郎ですからね。

そのときね、歌右衛門のおじさんが、ぼくの判官があんまり気に食わないの。うちの親父も気に食わないの。やっぱり梅幸のおじさんの菊五郎劇団とは芸風が違うからさ。吉右衛門劇団の歌右衛門のおじさんやうちの親父は、もっと濃くやってくれっていうの。すると梅幸のおじさんがね、「いいんだよ!」って大きな声で言ってね。背広脱いでね。ベルトに刀差してね、ホッ、ヤーッて判官の切腹のしぐさやってくれたんですよ。またそれが、いい格好するんだよ。そしたらさすがの勘三郎、歌右衛門、黙ってましたよ。

―――だからこっちも、その天下一品のお師匠さんのとおりなんか出来っこないんだけど、必死でやりますわね。そのときは新橋演舞場でしたけど、それから後になって、ぼく涙が出たのは、こんどは歌舞伎座で判官をやらしてもらったときにね。喧嘩場で、師直に向かって後ろから刀を投げますでしょ、そのときおじさん酸っぱい顔するんです、こう。芸の良し悪しは真似できなくとも、それをする位置ね、大体そこだわ、っていうところで、おじさんの判官が立ってた位置に、いまぼくが同じ判官の役をやって立っているわけじゃない。歌舞伎座の。その場所、その位置で、いま俺がおじさんと同じ判官をやってるって思ったら、涙が止まんなくなっちゃってさ。幕がしまったら、なんかこう嬉しくてね。おじさんもう亡くなってましたからね、そのときは。あのおじさんと同じことを、いま俺がやってんだ、っていう気がしてね。

―――それ、やっぱり歌舞伎のいいとこじゃないかと思いますね。歌舞伎座の空間、お便所とかだって、みんな思い出がいっぱいつまってるんだ。ここで、ほらって、ね? あのときの思い、幸せだなあって思いましたね。ここだよね。ここでおじさんがやってたじゃないか、みたいな。

―――それからね、敦盛を教わりに行ったとき。これもおじさんのよかったけど。(突如梅幸の声色で)なにもないよォ。何もないよ。敦盛は教えること何もない、って言うんでこちらはかえってむずかしい。それから『勧進帳』の義経。なんだろうなあ、あの可愛らしさ。どうも『勧進帳』に縁がなくて、いつかまたやりたいと思ってるんだけど。それから十次郎も習いましたよ。下げ緒をこうね、こうやるだけで可愛いんですね。それから勝頼も。そういうね、見ていてぽーっとする芸っていうかな、あれをやりたいね。

―――権八をやったときは、幸せでしたよ。なにしろ長兵衛が松本白鸚ですから。梅幸のおじさんは、本当に師匠ですね。

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