随談第500回 勘三郎随想(その27)

32.「ふ」の章

大分間が開いてしまったが、またまた勘三郎随想を続けることにしよう。

たとえば平成七年、一九九五年という年は、いま話を続けている十八代目の芸の在り様を見る上で、じつに興味深い年だった。いまにして思えば、勘三郎三十九歳のこの年は、その役者人生の転機に差し掛かろうという季節であったことが見えてくる。

若衆方というところに勘三郎の芸の故郷を見て、そこから多様多彩に自分の世界を広げてゆくさまを見ていこうとするとき、この年に演じた役々から、いまこの文脈に沿って興味をひく役を拾い出してみると次のようになる。

この年、一月には歌舞伎座の『助六』で白酒売を演じ、新橋演舞場に掛け持ちして新派の『鶴八鶴次郎』で鶴次郎をやっている。三月には『菅原伝授手習鑑』で桜丸、四月の名古屋の御園座では三島由紀夫の『鰯売恋曳網』の猿源氏と『本朝廿四孝』の勝頼に『白浪五人男』の弁天小僧と青砥左衛門で、このうち猿源氏は六月に、弁天小僧と青砥は八月にこの年六年目を迎える納涼歌舞伎でも演じている。この月は『五人男』のほかに、僚友の三津五郎が初役で演じる『熊谷陣屋』で義経をつき合っている。九月の歌舞伎座では『菊畑』で虎蔵、團十郎の『若き日の信長』で木下藤吉郎を、いまも目に残る闊達で巧妙な若き日の藤吉郎像を描き出している。十月の歌舞伎座では『先代萩』の頼兼に『娘道成寺』を踊った後、月末に第四回の勘九郎の会で『合邦』の玉手御前を演じ、十一月の南座では『鏡獅子』の他に『鎌倉三代記』の三浦之助に『仮名手本忠臣蔵』九段目の力弥、十二月の歌舞伎座では『野崎村』のお光といった具合である。

この中で、若衆方に属する役としては、桜丸、勝頼、弁天小僧、虎蔵、三浦之助、力弥ということになるが、『助六』の白酒売など和事系の役も当然その延長にあるし、そのほかの役々も、勘三郎の芸の水脈を辿る上では、ごく近いところにあるものだといえる。たとえば『鰯売』の猿源氏は、新作歌舞伎ではあっても勘三郎の身体にある和事味があってこその佳作なのであって、和事が身体にない俳優が演じたのでは、作者が元禄かぶきの趣味を活かそうとした古典味は表わせず、ただの喜劇になってしまうに違いない。いうまでもなく、その和事味とは、若衆方とすぐ隣り合い、重なり合うものである。『熊谷陣屋』の義経にしても、ある種の冷徹な感覚も隠し味としては必要だが、特別な解釈をほどこすのでない限り、歌舞伎の義経という一定の役柄としてつとめるのが通例であり、和事の感覚を持つか持たないかで大きく左右される。つまり、六年前から始まっていた八月の納涼歌舞伎の主軸として、歌舞伎ブームと呼ばれる好況を招いた功績が物を言って、すでに歌舞伎座をはじめとする本興行の第一線に躍り出たこの時期、勘三郎に与えられた役どころがこれらであったということになる。

たとえば白酒売は、歌舞伎座の初春興行での大顔合わせの『助六』の中で与えられた役であり、またその重責に見事に応えるよきものだった。同じ和事でも、上方の和事とはニュアンスが違う。和事らしい柔らか味や色気の中にもさっぱりとした歯切れのよさがあって、それはやがて、『源平布引滝』の実盛のような、生締物と呼ばれる義太夫狂言の颯爽たる二枚目の役や、『源氏店』の与三郎などの江戸の世話狂言の色男たちの粋な色気へとつながってゆく。このときの助六は團十郎だったが、役の上では助六の兄である白酒売として、團十郎と共に華やかな陶酔感に引き込んでゆく推進力となっていた。つまり、歌舞伎の第一線俳優として充分な実力を示したのである。

そうした多彩さの中でも、若衆方の役の数の多さが目立つのは、この時点での勘三郎の役どころとして自然な成り行きであったかも知れない。三浦之助などは、国立劇場で毎夏つづけていた「杉の子会」という勉強会で十七歳のときに演じた役だった。『鞍馬獅子』を猿之助と踊った翌月である。

これらの、この年に演じた若衆役の典型といえる役々の中では、三浦之助以上に、桜丸がすぐれたものだった。このときは『菅原』を昼夜通しで上演したので、「加茂堤」「車引」から演じたが、とりわけ「賀の祝」の桜丸の、古風な歌舞伎味が傑出していた。二〇世紀もあと数年で終わろうとしているこの時代に、それはむしろ奇蹟に属することであったといえる。勘三郎よりひと足ふた足先んじて売り出した先輩世代まで含めても、若衆役でこれほどの古風な感触をもつ役者は、他に考えられない。それこそが、父十七代目を経て、見たこともない祖父である三代目歌六へとつながる、役者の血を考えたくなるものだった。勘三郎自身としては、祖先というなら、歌六よりも、母方の祖父である六代目菊五郎の方を強く意識もし追慕してもいたろうが、ここでは、そのことは少し異なる文脈で語るべき事柄である。むしろ、勘三郎自身は意識していないことであるかも知れない。新しくて、同時に古風な役者という、勘三郎に抱いている私のイメージが形づくられたのは、このときの桜丸が契機であったともいえる。

桜丸は、登場するとき既に死を決意している。正面奥の暖簾口から悄然として出て、そのまま舞台中央に坐ると、もうそのまま動くことはない。すべては、自分の犯したあやまちを詫びて腹を切ることへの万感の思いと、春の夕暮れに若くして死んでゆく若者の愁いを、見る者の心に届けるだけにかかっている。桜丸は牛飼い舎人(とねり)という身で、自分の仕える斉(とき)世(よ)親王と菅丞相(かんしょうじょう)の令嬢の刈屋姫の恋の取り持ちをし、それが政敵に口実を与えて丞相失脚の因となった。桜丸は八重という女房のある妻帯者だが、それにもかかわらず前髪をつけた若衆の役として造形するところに、歌舞伎の「思想」と「美学」がある。八重も、人妻であるのに娘のように眉を描き振袖を着る。ふたりとも、恋のために生き、恋のために死んでゆく役だからである。

役柄という類型は、現代人の考える類型のような、無機的でも空疎でもなく、たくまざる人間洞察を秘めている。それはときに、近代人の分析的思考の及ばない深みにまで到達する。勘三郎の桜丸は、暖簾を分けて姿を現わし、右手にもった刀を杖に佇み庭先の桜木に目をやる、その春愁の憂いを古風なたたずまいにくるんでいる風情が見事だった。風情というと曖昧なようだが、その風情にくるまれて、桜丸という若者の全貌が浮かび上がってくる。それは、どう犀利に分析のメスを揮おうと、表し切れるものではない。

戦前からの歌舞伎を知悉し、克明なノートをつけていた老巧の劇評家志野葉太郎さんは、このときの勘三郎の桜丸について、六代目式に内向するやり方になるのではないかという心配は杞憂に終わって、和らか味のある言い回しに詩情があふれ、沈潜した中にも美しさが匂い立つよき桜丸だったと評している。

後に述べることとも関連してここでちょっと説明が必要なのは、志野さんが、「六代目式に内向するのではないかと心配」したという一事である。この六代目というのは、もちろん勘三郎の母方の祖父である菊五郎のことだが、大正から昭和戦前の歌舞伎をリードした六代目菊五郎は、同時に、一方における歌舞伎革命の旗手でもあった。とりわけ、人形浄瑠璃の作の歌舞伎版である丸本歌舞伎の役について、近代人の感覚や考え方に沿った新解釈を新しい型として巧みに工夫した新演出が、今日の歌舞伎に規範として確立している例も少なくない。新演出とはいわないまでも、近代的な心理主義を盛り込んだ演技で、時代の共感を得た例もまた少なくない。

しかしそれは同時に、一面からすれば、ときに古典主義的な美学と矛盾をすることにもつながる。若き日には劇評家として歌舞伎に通暁していた正宗白鳥は、こうした菊五郎の行き方を歌舞伎の現代語訳であると評した。志野さんがこのときの勘三郎の桜丸について言ったのは、祖父を崇拝する勘三郎が祖父に盲信的に追随せず、この芝居この役にふさわしい古典主義的な行き方を選択し、それによって成果を挙げたことに対する賞賛だった。

もっとも、六代目菊五郎の近代的新解釈に関するこの問題は、じつは、ふつう考えられるほど、簡単に割り切れる問題ではないように私には思える。少なくとも、様式的な演技の方が古典的で、写実の方が近代的と割り切れるほど、ことは単純ではない。白鳥等のいう古典主義とは、じつはしばしば、上演が繰り返され、演じ重ねられる間に生まれた、その後のコンヴェンションとも複雑に絡み合っているからだ。古いと思った演じ方の方が、じつは後になってから出来たものであったり、つけ加えられたり変更されたりした結果であったりする。新解釈が、時として古典復古の試みであったりすることもある。少なくとも菊五郎にとっては、世人の言うところの六代目の新解釈とは、基本的には、様式や約束事の根元を問うことと、ひとつのものであったように、私には思える。そうしてこのことは、のちに勘三郎が行なう新奇ともいえるさまざまな試みとも、深く関わってくる問題でもある。

ところで、この桜丸にもまして、この年の勘三郎で最も鮮やかな印象を残しているのは、八月の納涼歌舞伎で通し狂言として演じた『白浪五人男』の弁天小僧である。それは、この時期に勘三郎がその存在を歌舞伎界に、また歌舞伎ファンの間に派手やかに示した、一大アピールだった。

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