随談第501回 勘三郎随想(その28)

33.「こ」の章

平成七年の八月という、この時点での弁天小僧は、勘三郎としては五演目に当たっていたが、歌舞伎座でははじめてだった。納涼歌舞伎という、いわば責任芝居の座頭格として通し狂言『青砥稿(あおとぞうし)花(はなの)紅彩画(にしきえ)』として主役の弁天小僧を演じ、大詰の幕を切って一日の観劇を締めくくる青砥左衛門を演じる。役者冥利に尽きる役である。私はひそかに、このときの体験が、十八代目勘三郎のその後を決める何ものかになったに違いないと信じている。

弁天小僧といえば、ふつう、髷も島田に由比ケ浜、とセリフにあるように島田髷に結い振袖姿の武家の令嬢に化けて、万引きとみせてゆすりに来る「浜松屋」の場が有名だが、通し狂言として出す場合には、信田(しだ)ノ小太郎という大名の若殿に成りすまして登場し、許婚の千寿姫を誘拐する「鎌倉初瀬寺の場」と「御輿(みこし)ケ嶽の場」から始まる。つまり時代物の前髪の若衆姿で登場、一転して婦女誘拐の不良少年弁天小僧菊之助へと正体を現わすところが、前段での見どころになる。十八代目勘三郎という役者を支えている芸の本質、芸の姿という観点から見るなら、弁天小僧もまた、若衆役の一変形として見た方がふさわしい。さてこの「御輿ケ嶽の場」で、それまで信田ノ小太郎になりすましていた弁天小僧が、千寿姫の前で正体を現わすところで勘三郎が、父祖伝来ともいうべき変幻自在の妙を見せたときの場内の熱狂は、いまや彼が二千に近い歌舞伎座を埋め尽くす観客を自分の意のままに操っているような錯覚を、覚えさせるものだった。

もともと、勘三郎の扮する信田ノ小太郎は、序幕の初瀬寺に登場する時から、ちょいと気取ったすまし顔で、何か面白いことが起こりそうな予感を観客に与えている。といって、ここは信田の若殿様になりすましているのだから、狂言の底を割るという、じつは悪党であるということなど、おくびにも出しはしない。しかしただ神妙に若殿になっているだけでは、絢爛たる初瀬寺の山門の前をさまざまな人物が出入りする、絵のような美しい序曲を眺めるだけで終わってしまう。勘三郎の場合、気取ったすまし顔が信田ノ小太郎の顔でありながら、同時に、その小太郎になりすまして(たぶん肚の中では面白がり、せせら笑って)いる弁天小僧の顔であり、さらに同時に、そういう弁天を演じている勘三郎自身の顔でもある。役になり切るといっても、この狂言の場合、「花紅彩画(はなのにしきえ)」という外題が語っている通り、錦絵をつぎつぎと繰るが如くに展開するように作られている芝居であって、現代的な心理主義的な解釈など入り込む隙はない。新劇人が手をつけようとしても、手のつけようがないに違いない。役になり切るとは、だからこういう芝居の場合、その役と仁とがぴたりと重なり合うことである。

演じている役と、それを演じる役者とが、二重写しのように重なって見えていないと、歌舞伎としての充分な面白さにならない。その二重性がぴたりと焦点が合っていないと違和感が生じ、あじけない舞台になる。演じる役の役柄と、演じる役者の仁とが重なり合うとき、役も役者も最も輝きを増す。小太郎と思っていた男の顔の下から弁天小僧の顔が浮かび、さらにその下から勘三郎の顔がにじみ出る。千寿姫を連れて花道を入るときの勘三郎の輝きと、場内の熱狂は、まさしく、歌舞伎でなければ味わえない種類の醍醐味だった。そのとき勘三郎は、まぎれもなく、歌舞伎座を埋め尽くした二千の観衆を手の中に握っていた。

しかしここはまだ序曲であって、大輪の花が本当に咲き開くのは「浜松屋」になってからである。相棒の南郷力丸を供の若党にして大身の武家のお嬢様になりすました弁天小僧が、男と正体を見破られて肌脱ぎになって啖呵を切る。「知らざあ言って聞かせやしょう」にはじまる有名なセリフだが、ここでのやり方に、勘三郎にはひとつの主張がある。

浜松屋という大店の呉服商の店先で、男と見破られた弁天小僧は平然と店の番頭たちを前に、帯を解いて赤い襦袢姿で大欠伸をしたり、片肌を脱いで大振袖の下から、背中から二の腕へかけた桜の彫り物を見せたりしながら、やがて大あぐらをかき煙草盆を貸せと言う。そうして悠然と煙管をもてあそびながら、呆れる番頭たちを相手にやりとりをする。

「さては女と思ったは、騙(かた)りであったか」

「知れたことよ。金がほしさに騙りに来たのだ」

全部を引用すると長くなるが、こうしたやりとりの中にも、番頭の応答のたびに手代たちが、三度にわたってヤアヤアヤアと呆れ声の合いの手を入れるのにも口伝があるなど、五代・六代の二代にわたる菊五郎が工夫した、細緻な手順や約束事がついている。そこをそう感じさせないで一見さりげなくさらさらと運ぶところに、主役脇役それぞれにプロフェッショナルの役者としての腕があるわけだが、弁天小僧と番頭たちのやりとりは、やがて、

「それじゃあまだわっち等(ら)を、お前方は知らねえのか」

「おお、どこの馬の骨か、知るものか」

という応酬があってから、「知らざあ言って聞かせやしょう」にはじまる、厄払いといって作者の黙阿弥ならではの綺羅を尽くした七五調の名調子を聞かせることになる。内容は生い立ちから現在に至る盗人としての履歴を得々として語るのだが、オペラならアリアに相当するといってもいい。さて勘三郎の主張とは、この厄払いにかかる呼吸にある。

普通は、どこの馬の骨か知るものか、と番頭のセリフがあった後、ひと呼吸あってから、やや改まる形で「知らざあ言って聞かせやしょう」となる。さあ、ここが聞かせどころ、ということを、観客も弁天を演じる役者も充分に意識している。現代の代表的な弁天役者のひとりである菊五郎のやり方を思い浮かべてもいい。

だが勘三郎はここで、それとは違った行き方を見せた。どこの馬の骨か知るものか、という番頭にかぶせるように「ナニ知らねえ?」と応じ、そのままの息で「知らざあ言って聞かせやしょう」と詠いはじめる。厄払いはたっぷりと聞かせるが、テンポは速い。この息の詰み方は、さらに十年後、十八代目襲名の折の名古屋御園座での「浜松屋」を見て、私は驚嘆した。それはほとんど、疾風迅雷という趣きだった。詰んだ息で、一気呵成という感じで芝居が運ぶと、何度見たか知れない見慣れた芝居が、見る見る躍動感で溢れてゆく。勘三郎ならではの魅力が横溢する。

これはもう、単にやり方の違いというより、厄払いという様式に関する「思想」の違いといっていい。つまり勘三郎のやり方だと、厄払いといえども相手とのやり取りの中にあるもので、そこだけを殊更に切り離してやるものではない。様式といっても「写実」と切り離して存在するものではないことになる。この考えの背景には、おそらく、かつて六代目菊五郎が、十五代目羽左衛門の弁天小僧を、あれでは「時代世話」であって「世話」ではないと評したという問題につながる考え方がある。羽左衛門は、「知らざあ言って聞かせやしょおー」と最後まで調子を張って言ったが、あれは、「知らざあ言って」までは「時代」に張って言うが、「聞かせやしょう」は軽く落として「世話」で言うのだと亡父六代目菊五郎に教わったという話を、梅幸が語るのを聞いたことがある。「時代」に、というのは様式的に、「世話」で、というのは、日常的な感覚で、という意味にいまさしあたりは受けとめてもらっていい。

どちらが正しいのか、という問いには、にわかには答えようがないが、梅幸が実際に両方の言い方をしてみせるのを聞きながら、ずいぶんと印象が変るのに驚いた記憶は忘れがたい。様式に関する思想の違い、とさっき言ったが、さらにいえば、これは、歌舞伎というものに対する考え方の違いが背景にある。ひとつ想像がつくのは、この場合、羽左衛門の様式本位の行き方よりも、様式の中の写実性を主張する菊五郎の見解の方が、弁天小僧の初演者である父の五代目菊五郎の行き方に准じるものに違いないということである。つまり、菊五郎の方が、古くて新しいのだ。

似たようなことを、私は前に、同じ黙阿弥の『三人吉三』で、梅幸と現菊五郎のお嬢吉三の演じ方の違いに感じたことがある。序幕の「大川端百本杭」の場で、夜鷹のおとせから百両の金包みを奪って川に蹴落とすと、右足を棒杭に乗せて「月も朧に白魚の篝火(かがり)も霞む春の空」にはじまる有名な厄払いのセリフを謳いあげるところで、現代のお嬢役者である菊五郎は、右足を棒杭にかけてはっきりとひと呼吸おいてから声のトーンも変えてセリフにかかるが、最晩年に久しぶりでお嬢吉三をつとめたときの梅幸は、棒杭に足をかけそのままの流れの中で「月も朧に白魚の」と厄払いのセリフを言いはじめた。ここでも、先ほどの弁天小僧の場合と共通するものを思わざるを得ない。

そのとき私が思ったのは、おそらく、こうした違いの背景には、歌舞伎を取り巻く時勢の変化というものも関係しているに違いないということだった。時代の中の歌舞伎のあり方と言い直してもいい。ひと口にいえば、日本人の生活の様態が激変したこの半世紀が、現実の生活の中から歌舞伎の、とりわけ世話物と共有していた部分の多くを断ち切ることになったことの反映といっていい。デフォルメに独特の誇張のある化粧や衣裳・鬘、厄払いやツラネのような七五調の詠うようなセリフ、舞いの手や儀式の作法を思わせるような身仕舞いや仕草といった、エトランゼが「歌舞伎的」と捉えるたぐいの様式性は、しかし実は、それまでの日本人の生活の中にあるものと、どこかでつながるものを失っていなかった。和服を着、畳の上で立ち居をすれば、その立居振る舞いには、世話狂言で見るような仕草や生活と、おのずから通底するものが実感される。歌舞伎の様式は、デフォルメはなされていても、日本人一般の生活の様式と、紛れもなくつながっていた筈である。

だが日本人の生活様式が、ある限界点を越えて根本的な位相から変わり、そのつながりを失ったとき、歌舞伎の様式を見る目は、ひとつの新奇なデザインを見る目に変る。歌舞伎の様式は、ア・プリオリにそこにあるひとつのデザインとして承認される。当代の菊五郎のお嬢吉三がはっきりとひとつの様式として「月も朧に白魚の」と謳い上げるとき、それを支持する観客の歌舞伎感を、菊五郎はすぐれた演技者としての直感で探り当てている筈である。梅幸は梅幸で、戦後というひとつの時代の観客の歌舞伎観を、同じように探り当てていた筈だ。

その「梅幸のおじさん」から教わったお嬢吉三のやり方というのを、勘三郎が私の目の前でやって見せてくれたことがある。座談の中でのほんの一筆書きのようなことだったが、おとせを突き落としてから片足を杭にのせて厄払いのセリフにかかるまでを、勘三郎はつと立ち上がると、ひとつの息の中でやってみせた。御園座での十八代目襲名披露の弁天小僧を見ながら、私はそのときの光景をダブらせていた。

これを、歴史は繰り返すといったのでは、あまりにも紋切り型の言い方に過ぎるだろう。十五代目羽左衛門と六代目菊五郎の違いという、古くから歌舞伎の中に内在していたふたつの歌舞伎観とも関わりながら、戦後(という言い方がすでにひとつの歴史上の用語と化しつつある)六十年を超える時間の中での歌舞伎を取り巻く社会の変容とも関わりつつ、いま私たちは当代の菊五郎の弁天小僧を見、勘三郎の弁天小僧を見ている。ふたりの芸風や歌舞伎観を反映しながら、同時にそこには、私たちの生きる現代の社会の在り様を映している歌舞伎がある。

勘三郎の弁天小僧は、いうまでもなく、ただ六代目菊五郎以前の歌舞伎に本卦帰りをしたのではない。勘三郎は、祖父六代目菊五郎がそうしていた、というだけではなく、もう一度、様式の根源にあるはずの、あったはずの、現実感、生命感を甦らせる試みをしているように、私には見える。そこに勘三郎の感性が探り当てた現代性がある、と私は考える。そうしてこのことは、のちに語ることになる、串田和美と提携して演じた『三人吉三』や『四谷怪談』で和尚吉三や直助権兵衛をつとめたこととも、関わりを持ってくる。

当代菊五郎の弁天小僧と勘三郎の弁天小僧と。保守と反保守はめまぐるしく入れ替わり、いまとなってはどちらが保守でどちらが反保守なのか、容易に見分けがつかない。そこには、社会の中での歌舞伎が、あるいは、現代の日本人の歌舞伎に対する姿勢が、乱反射しながら反映しているからだ。

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