随談第502回 勘三郎随想(その29)

この回は、これまでも随所に挿入してきた勘三郎自身の談話の中から、これから先に述べて行くことと深く関わりを持つことを語っている部分を読んでいただくことから始めよう。

34.「え」の章  (談話・六代目菊五郎について)

―――六代目のおじいさんという人の芝居に対する考え方というのをいつも考えますね。この間の『俊寛』(二〇〇七年十一月、新橋演舞場)で、ぼく、最後に俊寛を島に残して赦免の船が出て行くとき、艫綱を浜辺に置いていかなかったでしょ? あれも六代目だったらやらないだろうなっていう思いがあるんですよ。うちの親父も一回だけ試したことあるけど、すぐやめて元に戻しちゃった。綱を残しておいた方が、島に残った俊寛がそれに取りすがる哀れがあってお客さんを泣かせるにはその方が都合がいいんだけど、なんかわざとらしくていやだったの。「思い切っても凡夫心」はひとつに集約させた方がいい。ぼくはあれ、これからもずっと、出さないでやるような生理になりました。六代目は『俊寛』はやらなかったけど、あそこんとこ、六代目のおじいさんだったらどうしただろうっていうのは、ありますね。うちの親父には悪いんだけれど。

―――度肝を抜かれたのは、映像ですけども『三番叟』。そう、市村吉五郎さんがむかし撮った八ミリに残ってるの。すごいんですよ。これはねえ、オリンピックの選手ですね。肉体が。

―――それと松王。『車引』の。この松王の凄さ。梅王は七代目幸四郎。十五代目羽左衛門の桜丸。いまは、なんか、立派だとか、批評家の先生たちも書くじゃない。役者が大きいとか。とんでもない。ドラマなんですよ。だからこないだ、海老蔵とうちの勘太郎・七之助が私の襲名の序幕に三人でやったときに、頼むからそういう風にやってくれと言ったんです。

松王と梅王が詰め寄って、上からこう覗くんじゃなく、「互いに見交わす意趣遺恨」ていうところで、ここまでこう姿勢が低くなるんですよ。これはもう、映像に残ってますからね。「早く車を轟かせよ」って。もちろん昔の八ミリのフィルムだから、言葉はない。けど位置はわかる。そこで何が見えるかっていうと、三つ子なんですよ。三つ子。原作どおり三つ子の兄弟喧嘩なんだよ。それがいまは、松王だと貫録で見せなきゃとかいうでしょ。その役の貫録でなくて、役者の貫録とかなんとかって。でも、そりゃあ評論家の先生たちもいけないんだよ。役者をおだてるから。おじいさんたちの時ってのは、そんな、役者の貫録とかというよりも、役の貫録。役。役でやったんだね。

―――もしあの映像がなければね、私だってこんなに強く言えないですよ。でも、そうでないんだもん。わかるでしょ? いまはそうじゃないんだよ。松王はどっしりしてるからいいとか。そう言われるとそうですかって思ってしまうけど、映像を見たら、そうじゃない。違うっていうのが他にもいっぱいあったはずだから、見てみたいし、そういうのをやっていかなくちゃいけないと思うんだ。

―――世話物にしてもね、たとえば『浜松屋』。いま誰がやっても、(時代の口調でセリフを張って)「あるじ幸兵衛ただいまそれへ参りまする」っていうと三味線つき直して浜松屋幸兵衛がすっと出てくる。ありゃおかしいと。五代目菊五郎がそう言ってるんですよ。そういうのを見落としてるね。だってそうでしょう。五代目なんかリアルな男なんだから、(世話の口調で、もっとリアルに)「あるじ幸兵衛、ただいまそれへ、まいりまする」ってのが世話だよと。このごろの幸兵衛のやり方、あれは時代物ですよ。そういうことにねえ、みんな気づかない。気づかなきゃいけないってことを六代目に気づかされた。

―――六代目のおじいさんて人は調べるだけ調べた上でやったんでしょ。だから逆に、六代目と違うやり方が、これから考えられるってことね。たとえば『寺子屋』の幕切れの野辺送りなんてのは、あれを変えちゃったのは六代目でしょ。それまでは、大概の幕切れの紋切り型で、みんなが順繰りにセリフを言う割りゼリフで終わりだった。いまはだれがやっても、六代目がやったように「いろは送り」をやる。今度は逆に、「いろは送り」でなくやる人が出てきてもいいわけですよ。けど、そういうことを考えたってのは、やっぱり凄いなって思いますね。

―――それで六代目のおじいさんやうちの親父に、ちょっと反逆というか歯向かってしまったのは、こないだの『筆屋幸兵衛』の幕切れなんかね。いまは、幸兵衛が無事助け上げられて、群集がざわざわざわざわしているところへ警官が「しずまれーっ」て言うとしゅーっと幕が閉まる。あれはたぶん六代目のおじいさんが、割りゼリフでもって幕切れにする紋切り型のやり方でやるのがいやだったんだ。だって、もうみんな知ってるわけでしょ。『水天宮利生深川』って芝居は、筆屋幸兵衛の気の狂った可哀想なところを見せて、その後幕切れの決まりきった、どうでもいいようなところを、新しい演出で、「しずまれーっ」トンと巡査が杖ついて、すーっと幕を引いてしまう。こりゃあ新しいと思ってやったんですよね。

けど、ぼくが今度台本見てみたら、そうじゃないわけじゃないですか。ちゃんと、水天宮のいわれから何からあって、正直者の頭に神宿る、今日はめでたく、みたいな式で終っている。これ、こんどは逆に古いやり方に直したっていい。そういう演出もあっていいんですよね。そういうことを気づかせてくれたのが、六代目でありうちの親父なんだな。

―――うちの親父にしても六代目にしても、先輩から教わったとおりにやるんだけども、いつも疑問をね、「ハテナ」を持ってた役者だと思うんです。これでいいのかなあ、と。これでいいのか。イヤ違うぞ。こっちから見てみよう、役を。でもまだ足りないから、下から見てみようとかね。それで失敗することもあるんですよ。でも、それをやったんだろうな。うん、これはやっぱり大切なことだとぼくは思います。ここの手はここへ上げるんだよ、って言いながらね、これでいいのかなって、考えてるんだろうな。だからいつでも動いている。ひとつのところに留まっていることがない。いつも動いている役者なんだね。

―――六代目のおじいさんなんて、真剣に見てると、毎日違いますからね。だから生徒は、毎日違うことやるから、自分が見たのを、ひとりひとり、これがほんとだ、いやこっちがほんとだと思っちゃって、大変なことになった。六代目はこうやった、イヤ違うよ、そうじゃないって。でもそんなこと言ったって、じつはいろんなやり方があった。その辺がすごくおもしろーい人ですね。そのなかで、いろいろこれからも勉強しなければ。

―――このあいだ歌舞伎座で『筆屋幸兵衛』と『寺子屋』の松王丸をやることになったとき、ある人がこういうのがあるよって見せてくれたんだけど。昔の本に、六代目のおじいさんが、同じ月に幸兵衛と松王丸を出したことがあるんだって。だからどうって言えばそれまでなんだけど、けど、なんか嬉しいよね。おじいさんとたまたま同じことをやってたっていう、たったそれだけのことなんだけども。

35.「て」の章

すこし話をもどそう。勘三郎の芸の故郷を若衆方というところに置いて、その延長線に見えてくるのは、和事味を帯びた二枚目の役々である。そこでこれから、勘三郎のそうした役についての話をするのだが、その前に、ちょうど勘三郎が若手花形としての、いわばセカンド・フロントから、第一線へと驥足を伸ばし始めようとしていた頃の歌舞伎界の状況を、ざっと眺めておいた方がよさそうだ。なぜなら、勘三郎の芸の成長の軌跡は、そうした歌舞伎全体の動向と、切っても切れない巡り合わせにあるからである。

勘三郎のいまを考える上で、その役者人生で大きな転回点となるのは、平成二年(一九九〇年)に始まる、毎年八月の歌舞伎座での「納涼歌舞伎」の公演だろう。いまなお二十年余続いている納涼歌舞伎は、その間すこしずつ変化を見せながらも、その中心に常に勘三郎があった。同時にまた、納涼歌舞伎の持つ意味は、勘三郎ひとりの問題に留まるものではない。納涼歌舞伎自体が、現在の歌舞伎の転回点でもあったからである。

たとえば歌舞伎座なり、建て替え中その控え櫓の役を担った新橋演舞場なりが、一年十二カ月を毎月歌舞伎の興行で開けるのがいまでは当然のようになっているが、その当然が常態となったのは、じつはこの納涼歌舞伎が始まってからのことである。八月に歌舞伎座が歌舞伎をかけたのはこのときがほぼ四十年ぶりのことで、その四十年の間には、いわゆる歌手芝居の草分けで、そのころ絶大な国民的人気のあった浪曲師出身の歌手三波春男の公演が二十年という長きにわたって続くということがあったり、その他にも六月と十二月にはかなり長い期間、萬屋錦之介や大川橋蔵といった、歌舞伎界から映画界という他ジャンルへ進出して大を成したスター俳優の公演が続いた時期もあった。歌舞伎と新派の相乗りのような狂言が並ぶ月もしばしばあった。年九カ月が常態、最悪の場合には、年に7ヵ月か八ヵ月しか歌舞伎の公演がないことが、むしろ常態ですらあったのだ。徐々に挽回しつつあったとはいえ、昭和三十年代以降、この元号が終わるころまで、そうした状況が続いていたのである。

平成と改まった二年目の夏、当時まだ若手花形といわれていた中村勘九郎に坂東八十助、それに中村児太郎と橋之助兄弟などを中心にした公演がはじまると、たちまち、歌舞伎ブームということがマスコミを通じて言われだした。橋之助以外は皆、前名なのが、既に「納涼歌舞伎以後」がひとつの歴史になり遂せてしまったことを象徴するかのようだが、ひとり勘三郎だけでなく、納涼歌舞伎はこれらの人々それぞれにとって、今日の地歩を築く上で決定的な足がかりとなったのだった。

それはまた、ちょうど昭和から平成と元号が変る前後に、戦後歌舞伎を支えてきた大立者たちが相次いで物故する事態が続いて、昭和歌舞伎の終焉ということが、これもマスコミを通じてしきりに言われていた頃でもあった。そのひとりである勘三郎の父十七代目が亡くなったのも、昭和の終焉の前年の昭和六十三年であり、その死の月に初役で演じていた『髪結新三』の成功が、勘三郎にとってのメルクマールとなったことはすでに言った。待っていたように、という言い方には語弊があるが、時代の変わり目を誰しもが意識していたこの時期、新しいエースとして、衆目の目が当時の勘九郎に向いたのは、ごく自然のことであったろう。

一方また、勘三郎は既にその少し前から、大阪の中座での公演を年に一度は必ずのように持ち、それを足場に関西での地歩を築きはじめてもいた。この中座での公演は昭和六十二年から平成七年まで九年間続くが、それだけの期間公演を定着させたことも、やがて訪れる上方歌舞伎ルネサンスとマスコミが呼んだ関西復興の地固めとなったことを思えば、勘三郎が三十歳代のこの当時行なった活動は、社会の中での歌舞伎という観点から眺めるなら、東西でほぼ相似形を描いていたことがわかる。

しかし一方、話を勘三郎の芸の本源を探ろうとしている当面の主題に戻すなら、ちょうどこの時期が、若衆方を芸の本籍とする修業時代を抜け出して、役柄の領域を広げながら、兼ねる役者への大道を歩み始めた、勘三郎にとっての新しい季節でもあったことに気がつく。東西の歌舞伎が、それぞれに「戦後」という長く続いた状況から抜け出そうとする時期と、自身が修業時代を抜け出そうとする時期とが重なり合う。一般の社会もまた、昭和が終り、平成と名を改めた時代が始まろうとしていた。昭和天皇の死も、バブルの崩壊や戦後五十五年体制の解消といった政界経済界の出来事も、東西二大陣営対立構造の消滅といった世界的な規模の変化も、すべて時期を同じくした出来事だったのも、何やら暗示的に思われたりもする。

第一回の納涼歌舞伎の行われた平成二年は勘三郎三十五歳。既に、決して若すぎはしなかった。そこを砦として、勘三郎は、たとえば『魚屋宗五郎』や『義経千本桜』のいがみの権太や忠信、『引窓』の与兵衛、『先代萩』の八汐や細川勝元、『俊寛』の再演等々といった大役に取り組んで役の領域を拡張するだけでなく、『うかれ心中』『狐狸狐狸ばなし』などといった路線にも積極的に通り組んでゆく。そのすべてが成功であったわけではないとしても、自分の芸の上の欲望を達成するだけでなく、僚友の三津五郎とともに、自分たちの責任芝居として納涼歌舞伎を隆盛に導いていこうとする意欲と姿勢が、そこには明確に見えていた。納涼歌舞伎の成功は、むしろそちらの方が、要因として大きかったともいえる。

これを導火線として、歌舞伎ブームという言葉が、マスコミに踊り出す。勘三郎は、『今宵はKANKURO』といったテレビのトーク番組を持ち、各界の多彩なゲストを相手にじつに気さくに、現代の感覚で歌舞伎を語り、さまざまな話題に興じた。歌舞伎に縁遠い視聴者にとっては、「梨園」(この言葉は、当の歌舞伎界よりもむしろ、マスコミが歌舞伎界に熨斗をつけるときによく使う)というステータスから、自分たちの「目線」の届くところまで気軽に出てきた「若様ざむらい」であり、歌舞伎にとっては、さる人がそう呼んだように、他に真似手のない有能な「歌舞伎の伝道師」だった。世間の風も変わっていた。以前のような、世襲制度を因習的なマイナス側から見る論調は影を潜め、伝統という失われた価値観を、むしろあこがれとともに見直そうという機運へと変わりつつあった。たしかにこの時点で、勘三郎は運をつかみ、風に乗ったのである。

私が偉とするのは、こうした行動・活動がなにひとつ、勘三郎にとって無駄なものとなっていないという事実である。自分のしたことが無駄であるかどうかを決めるのは、当の本人がどれだけ、みずから求めてそれを行い、そこに意味を見出したかにかかっている。勘三郎は、ほとんど掛け値なしに、それをやってのけた。二〇世紀の最後の十年間の歌舞伎ブームは、こうして勘三郎を独楽の芯棒として回転をはじめたのだった。

36.「あ」の章  (談話・役について)

―――まだやっていない役で、何か? まあねえ、そりゃいろいろありますねえ。ありますけれどもね、でも『逆艪』なんてのはそういう芝居じゃないですからね。知盛はまだ一回しかやってないけれど、またやってみたいですね。知盛は、あの死ぬところはやっぱり悲しいですよ。またやってみたい役ですよね。

―――玉手も教わったけど、むずかしいからなあ。あれはもっと先だなあ、玉手は。どこがむずかしいって? いやあ、やっぱりあの、まあ全部むずかしいですよ。ハハハ。やってからどこが、ってことだね。

―――政岡も前からやりたかったんだけど、やらしてもらったから。そいうことで広がっていくんでしょうけど。道玄もいつかやるかな。おとうさんもやったから? まあ、それはもういいんですよ。

―――それより助六をね。玉さんにもすすめられてるんですよ。ただまあ、これもいつやるかになっちゃうからね。あんまり年取ってからやるわけにもいかないし。うちの親父がわたくしに、教え損ねたなと言って死んだ役だから。

ええ。やるときは水入りまでやります。中村座でやりたいって言ったら、玉さんが、歌舞伎座でやりましょうよって言うんですよ。ただね、歌舞伎座がなくなっちゃいますからね。これもまあ、運を天にまかせるっていうか、そんな感じにしときますよ。助六はね。

―――由良之助は、まあ、まだ先の方ですわ。まだまだ他のものありますから。ただ戸無瀬やっちゃうと、やってない役は大星ぐらいですねえ。あと定九郎か。平右衛門もやらしてもらってるし、千崎もやってる。おかるもやった。本蔵もいつかやりますよ。それから若狭やった。直義やってない。これは、やらないで終っちゃいましたね。いや、ぼくはずーっと力弥でしたから。「四段目」の力弥はほとんどぼくがやってますよ。力弥からぽーんと若狭だの判官へ行っちゃった。

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