37.「さ」の章 (談話・役について)
―――勘三郎さんの中心になる役というと、やはり梅幸さんに教わったような役になりますか?
―――まあそれは、いままではね。前髪や二枚目の役が多かったっていうのは、若いからってこともあったでしょうし。でも、これから先どうなっていくか。この間やった『先代萩』の仁木なんかも大好きになっちゃったしね。串田さんの演出の『三人吉三』で和尚吉三をやったけど、普通ならぼくの役はお嬢ですよ。お坊ねえ。あれはまたむずかしいね。串田さんの『四谷怪談』では直助もやった。そのことについては、この先輩の話から避けて通れないね。というのは、紀尾井町(=二世尾上松緑)にね、『車引』の梅王と『対面』の五郎を習ったんですよ。ああいうものを、がーっと、本当に教えてくれましたんで。そういうものが根本にあるから、和尚や直助ができるんだと思うんです。
―――それについてだけど、うちの親父にね、一ヶ月口聞いてもらえなかった事件があるんですよ。何かというと、国立劇場で、わたしが梅王やらしてもらったことがあったの。団十郎さんが松王ですよ、桜丸が菊五郎さんか、大変なメンバーだよ。まだ若いころだしさ。相手はひとまわり以上違うんだもの。ところが、ぼくがそれをありがたがらなかったのね。なぜかというと桜丸がやりたかったのよ。常識からいきゃあそうでしょ? それで桜丸やりたいって言ったら、「生意気なこと言うんじゃねえ!」って怒られたの、うちの親父に。そりゃそうだよ、そんな若いうちにさ、桜丸の方が合ってるなんて、自分で先に決めちゃ駄目なんだってことをね、教わったね。
―――それで紀尾井町に習ったんだけど、今になったらあの時やらしてもらっておいてよかったと思う。もう、ぼくは梅王やらないかもしれないし。それより、あれをやってんのとやってないんじゃ、役者としての幅が違うんですよ。仁木なんかできなかったよ。あのときに梅王をやってなくちゃ。骨法っていうんですか。だって三津五郎に、ぼく、梅王教えたんですから。信じられないでしょ? ちがうよ、お前、あれ違うよって。そんなことだって、あの時おじさんに習ってなきゃ出来ないですよ。そういう意味で、役を最初に自分で決めちゃいけないんだよ。
―――ぼく、いまだに『車引』の桜丸やってないんです。松王に梅王ですよ、ぼくやってんの。常識と反対ですよ。まあこれからやるかもしれないけれどもね。そういうところが、あさはかだったね。なんであの時、あんなこと言ったんだろう。そりゃ、やらせていただくと決まってからはやりましたけどね。
38.「き」の章
勘三郎が『東海道四谷怪談』のお岩をはじめて手掛けたのは、大阪中座の公演が恒例になって二年目に当たる昭和六十三年七月の中座のことだが、その五年前の昭和五十八年六月、歌舞伎座で佐藤与茂七を演じている。勘三郎にとってはじめての『四谷怪談』である。
歌舞伎ファンなら周知のことだが、『四谷怪談』でお岩をつとめる役者は、佐藤与茂七と小仏小平を併せて三役をつとめるのが、文政年間に初演した三代目菊五郎以来の通例になっており、勘三郎ものちにお岩を演じるようになってからはずっと、この三役をつとめているが、この昭和五十八年のときは、お岩が真女形の坂東玉三郎であったために、与茂七まで兼ねるのは無理なので、このとき二十八歳の勘九郎が与茂七をつとめたのだった。そうしてこの与茂七が素晴らしかったのである。
与茂七もまた、父十七代目の傑作だった。和事を踏まえた二枚目という芸質が、じつは塩冶浪人でありながら敵情探索のために小間物屋に身をやつしているという、『仮名手本忠臣蔵』と裏表の趣向で作られたこの芝居のこの役に、見事にはまるのだ。与茂七という役の演技の良し悪しだけでなく、「忠臣蔵」と「四谷怪談」とふたつの世界をつなぐ鎹(かすがい)のような位置にいるこの役の二重性を、あざやかに炙り出す。単色でない、色合いがまるで紫陽花のように変化する十七代目独特の芸の色が、他の追随を許さなかった。
そうしてそれが、十七代目一代のものではなく、まぎれもなく十八代目の勘三郎にも受け継がれていることを実証して見せたのが、このときだった。序幕の「浅草観音堂」で敵方の伊藤喜兵衛に咎められた同志の奥田庄三郎を救うところの、武士と町人を使い分ける鮮やかさ、「地獄宿」に女を買いに行ってじつはわが女房のお袖と知るところの和事風の味、「隠亡堀」のだんまりで水門を開けて登場するときの身のこなしの、切れ味がありながらやわらかみのある和事味などなど、改めて、中村屋二代の血の伝える役者の体質を痛感しないわけにはいかないものだった。これこそが歌舞伎なのだ、と万人に納得させてしまう、ある雰囲気。それが、わずかの身のこなし、セリフまわしからも溢れてくる。到底、並みの二十八歳の若手俳優が、当然のように身につけられるものではない。
天分もあるだろう。しかし同時に、それは子が親を敬愛し、真似ぼうとしなければ、身に添うものではないだろう。その上での、役者の血。学ぶ、という言葉が、真似ぶ、という言葉に由来するという語源説を、このときほど素直に信じられると思ったことはない。同時に、『連獅子』の子獅子以来の、若さ清新さというイメージばかりで見ていた「勘九郎」に、ある種の老成した巧さを感じ取った最初でもあった。
巧さとは、単に技能が巧いというだけのことではない。巧さそのものの楽しさで見る者を魅了し、喜ばせる。それこそは、父十七代目に誰しもが覚えた楽しさであり、同時に畏れでもあった。同時代の大立者たちの中で、十七代目勘三郎ほど、観客を楽しませた役者もないが、何かおそろしいものを潜ませていた役者もなかったというのが、私の十七代目観である。そのおそろしさとは何かということを考えると、誰よりも役者としての血の古さを思わせるものを、その芸質に感じさせたからである。歌舞伎界で実際に一番古い血筋をもっているのが誰か、私は知らない。だが私が勘三郎に感じ取ったのは、その芸質の中にひそんでいる、ある種の歌舞伎の魔性のようなもの、と言えばいいだろうか。底知れぬ深い沼の水を覗くときの畏れ、といってもいい。
そして、ほどなく勘三郎はお岩を演じる。初役でつとめたのは昭和六十三年七月、大阪の中座でのことだったが、私はこれは見ていない。私がはじめて見たのは四年後の平成四年六月、歌舞伎座での再演のときだった。もちろんお岩だけでなく、すでに中座のときから、与茂七、小仏小平と三役を兼ねている。
このお岩が素晴らしいものだった。ある意味で、勘三郎が真に大人の役者として、干支でひと回りも年齢に開きのある先輩諸優に伍する者として見られるようになったのは、このあたりからではなかったろうか。現に、このときの伊右衛門は現在の幸四郎であり、直助権兵衛は現・十五代目仁左衛門であり、宅悦は現・市川左團次である。それらの、ひと回り以上も年齢の違う諸優に伍して、勘三郎は演技だけでなく演者の格としても、まったく遜色がなかった。むしろ、誰よりも古風であり、大人の芸であった。
思わずはっとするほどに、私がそれを感じたのは、不義を仕掛けるよう、伊右衛門に脅しとともに言い含められた宅悦が言い寄ってくるのを、無礼者何をしやる、と言って身仕舞いを正し、武家の妻であることを相手に示すところだった。背筋を伸ばし、手にした団扇でさも汚らわしいものをはたくように、ぴしりぴしりと宅悦を牽制して寄せ付けない。このときの権高な身仕舞いの形容が、武士の妻という、すでに空洞になってしまった権威にすがる女の哀れと二重写しになって見える。到底、三十代の若い女形に求められない味がそこにあった。このあとお岩は、鉄漿(おはぐろ)をつけ髪を梳く。私のこれまで見たどの女形役者のお岩よりも、勘三郎のお岩は、これらのくだりで女臭い。女形の俳優よりも女臭い。これこそ、加役として演じる女形の役なればこその味であり、面白さである。
いうまでもないが、勘三郎の女形は加役である。十代で『馬盥』の桔梗、二十歳過ぎで『野崎村』のお光という傑作を見せたりしたとはいっても、あるいは『鏡獅子』や『娘道成寺』といった舞踊の大曲で女形を見せているとはいっても、勘三郎の本領はすでに見てきたとおり若衆方から出て二枚目役にある。現に、与茂七という傑作を夙に見せている。加役、つまり立役を本領とする者が女形を勤めるとき、そこには男の影をヴェールとして纏っている分、幾分老けた女の複雑な味わいが現れる。それが、女臭さに通じるのだ。
前に父十七代目の踊った『鏡獅子』の弥生について言ったことを思い出してくれてもいい。清純な乙女というより、むしろ男を知った女のぼってりした味わいがあるということを言ったのだった。処女であるべき弥生にそれが現われたということ自体はほめられることではないが、それが、父十七代目の弥生の面白さであったことは否定できない。十八代目の踊る弥生にしても、白拍子花子にしても、父に比べれば清純な乙女だが、父から体質的に受け継いだある古風さが、現在これらの役をつとめる先輩・同輩の誰に比べても濃厚にあるのは否定できないだろう。「男知らぬ筈に書かれた娘でもみな男臭く、女臭い、女臭くない女というのが、歌舞伎の女形の範疇になかった」のだと折口信夫は言っているが、つまり六代目菊五郎が弥生で演じて見せた清純な乙女というものは、近代歌舞伎が生み出したものなのである。三世歌六から出て二代の勘三郎に色濃く流れている、反近代ともいえる古風な女形の感触は、加役で演じる女形の役の場合に、他に求められない魅力となって発揮されるのだ。
誰もが知るとおり、このあと勘三郎は、お岩をシアター・コクーンで演じることになる。一九九四年の第一回のコクーン歌舞伎の折は、もちろんお岩・与茂七・小平を、各地を巡演する襲名披露公演がまだ途上の二〇〇六年三月のコクーン歌舞伎では、南版と北版と二様の版を交互に演じ、第一回のときと基本的には同じ脚本によった南版ではお岩・与茂七・小平を、串田和美の演出を大々的に受け入れた北版ではお岩の他に直助権兵衛を初役で演じている。その間、八月の納涼歌舞伎や博多座では在来の演じ方でも演じていて、ここにも勘三郎のスタンスの取り方が見て取れるが、北版のような在来の演出に大胆な新機軸を試みた場合でも、勘三郎のお岩のこうした感覚は揺るぐことがない。むしろそれに対する全幅の信頼があって、串田の演出も可能であったともいえる。
ここで注目すべきなのは、本来の仁からいって持ち役である筈の与茂七を他にゆずって、直助権兵衛をつとめたことの方にある。演出の串田和美の求めに応じたからだが、これにも、勘三郎はすでにみずから先例を作っていた。『盟三五大切』でも、ふたつのバージョンを作って源五兵衛と三五郎という、だましだまされる対照的な役を、橋之助とダブルキャストで演じたのだ。在来の歌舞伎の常識からいけば、勘三郎の役どころは三五郎である筈で、また事実、すでに演じているが、そうした常識の根拠を問う形で、串田はダブルキャストを勧めたのだという。『三人吉三』でも、やはり串田の意見を容れて勘三郎は和尚吉三をつとめたのだった。本来の自分の役はお嬢吉三だと勘三郎はいう。お坊吉三も面白いのではないかと私は思っているが、いずれにしても、それは、在来の「仁」という考え方から割り出した考えであって、串田の案はその常識を敢えて問うてくつがえそうというところにある。そうしてここから、ふたつのことが読み取れる。
ひとつは、歌舞伎の脚本を普通の演劇の脚本と同じ態度で読もうとする串田の姿勢である。その場合、「仁」とか「役柄」といった、本来舞台という現実の中から生まれ、長い歳月の間に確立したと思われる歌舞伎としての慣習(コンヴェンション)を、根本から疑ってかかることになる。歌舞伎を特別なものとして見ない態度といってもいい。
もうひとつは、そうした串田の要求に対して、能うる限り受け容れようとする勘三郎の側の姿勢である。それは、歌舞伎の常識をどれだけ解体できるかという実験を自らに課しているかのようでもある。ただし、勘三郎がそうした串田の考え方に全面的に同調しているわけではないことは、『四谷怪談』ひとつにしても、在来普通の演出で演じることもやめたわけではないという一事を見ても明らかだが、一方こうして串田の意見を取り入れて直助権兵衛やの和尚吉三を演じることによって、少なくともこの二役についていえば、新しい領域を拡大する結果になったことも明らかだろう。
それまでにも、『怪談乳房榎』で故実川延若から受け継いだ三役早替りで演じる演出上の必要から、絵師の菱川重信・正直者の下男正助といういわば自家の薬籠の中にあった役に加え、蝮の三次という線の太い敵役を演じるというような経験があった。この場合はむしろ、三次を演じることに意欲を覚えたに違いない。事実、納涼歌舞伎の初期の時点で、「兼ねる」役者としての勘三郎を印象づけたひとつの契機は、三次を見事に演じることによって成功させた、このときの『乳房榎』であったことは間違いない。しかし見ようによっては、この種の世話狂言の小悪党の役は、父の十七代目が得意にしていた役どころであり、十八代目自身も、たとえば『髪結新三』の終幕ですっかりばくち打ちに変貌した新三などで経験ずみであったから、見るわれわれも、三次の巧さに満足しながらも、むしろ当然のことのように思っていたのだった。
この路線は、その後、たとえば『義経千本桜』のいがみの権太、『裏表先代萩』の小助を薬籠中のものとし、さらには、串田和美の演出バージョンによる『三人吉三』の和尚吉三を可能にしたともいえる。むしろいま思えば、十七代目のイメージをごく当然のように被せられながら、さも当たり前のようにそれを引き受けていた当時の「勘九郎」の若さを知って、いまさらながら改めて驚くのだ。もしかしたら、そのころすでにわれわれは「勘九郎」が兼ねる役者であることを、予知していたのであったのかも知れない。
こうして、演技者としての版図を見る見る拡大してゆくのと比例して、勘三郎の行動の範囲も飛躍的に拡大し、多彩になってゆく。南海の硫黄島の自然の中で『俊寛』を演じたり、新世紀の初日の出を背景に、九十九里浜で、成長した二人の息子と『三人連獅子』を踊ったりといった活動も目立つようになる。そうした活動を含め、シアター・コクーンにせよ平成中村座にせよ、一貫しているのは、歌舞伎を演じる場についての一種の実験意識であるだろう。もちろんこうした活動は、勘三郎ひとりが始めたわけではないし、「劇場論」ということが識者の間で論じられるのが一種の流行現象のようになっていたのが、背景にあるのも確かだろう。(「劇空間」という言葉が、プロ野球中継の番組名になったのもこの時期である。政治家の行動や犯罪の方法を「劇場型」とマスコミが呼んだりする現象も、一連の流れに乗ってのことだろう。)
そうした背景を考えるとき、シアター・コクーンや平成中村座ではじめた勘三郎の活動は、演者の側から仕掛けた劇場論であるように、私には見える。それは、襲名公演の一貫として行なわれた公文協による地方巡演を、出来る限り、各地に残る古い芝居小屋を使って行なったり、いっぽう、勘三郎の屋号「中村屋」の発祥の地とされる名古屋の中村での公演は、地元の高校の体育館に名古屋平成中村座を仮設して高校生を相手に行なうといった発想にもつながるわけだが、こうした活動を通じて見えてくるのは、歌舞伎とは何かという問いを、自身にも、また観客にも、問おうとする勘三郎の姿勢である。