随談第508回 勘三郎随想(その33)

41.「み」の章(つづき)

勘三郎は、最近、三人の若手俳優のトリオで上演された『大川端庚申塚』の一幕を見て、愕然としたという。「和尚吉三はお嬢とお坊が斬り合っているところへズバッと飛び込んでいって、待て、と留めるんでしょ。ところが留めないんだもの。ただ形。留める格好をするだけ。予定調和でやってるから、何の真実味もない。お客に拍手するなって言いたかった。おじさんたちが見たら怒るよ。批評家の人達ももっとびしびし書くべきですよ。あんなことをやってたんじゃあ、もう歌舞伎は滅びるよ。」

前にも書いたように、勘三郎は、かつて梅幸からこの「大川端庚申塚」のお嬢吉三を教わっている。それは「月も朧に白魚の篝火も霞む春の空」という、様式の極とも見られるようなセリフにも実はリアリズムを踏まえた演技があるのだということを、身をもって示すような行き方だった。勘三郎はもちろんそのやり方に愛着をもっている。だが、『三人吉三』全編を読み直し、串田の演出で演じたいまとなっては、通し上演としても現行のやり方で演じる気持はないという。

何故なら、ドラマとしての『三人吉三』を通しで演じるなら、お嬢吉三は女形の演じるべき役であって、自分がかつて梅幸から教わったお嬢吉三を演じるとすれば、むしろ「大川端」の場だけの方がふさわしい。勘三郎は気づいていたのだ。梅幸に教わった「伝統的」な演出は、大正・昭和の歌舞伎の正統的な演じ方としての意義をもつが、それは十五世羽左衛門や六代目菊五郎が加役として演じた「伝統」が作ったものであって、串田の言う「社会からはじき出されたちっぽけな悪党」として演じるには必ずしもふさわしくない。

「生理」という言葉を、談話を取材している間に、勘三郎は何度か使ったが、その一度が、串田の演出で演じた和尚吉三についてだった。通しとして『三人吉三』のドラマを演じるなら、すでに自分のなかに出来ているのは和尚を演じる「生理」であって、お嬢を演じる生理は自分の中にはない、という意味である。

それで思うのは、もともと、安政七年の初演のときお嬢吉三を演じたのは、真女形の八代目岩井半四郎だったということである。半四郎は、日常の暮らしから女形に徹していたといい、その自宅の居間を訪れた者が、まるでお嬢様の部屋のようだったという証言を残している。大正・昭和前期の歌舞伎界の頂点に立った大立者の五代目中村歌右衛門は、はじめ半四郎のところに入門する話があったが、女みたいなので断ったという逸話が伝わっているが、この歌右衛門こそ、のちに近代歌舞伎の大御所となった人であることを考え合わせると、この話は、前近代の歌舞伎と近代以降の歌舞伎の裂け目を覗く狭間のような感じもする。

八世半四郎の演じたお嬢吉三がどういうものだったか、いまとなっては想像のほかでしかないが、串田演出による『三人吉三』を経験したことを通じて、勘三郎が、お嬢吉三は女形がやる方がふさわしいということを、「生理」として体感したのは事実だろう。このあたりは、当の串田の想像を超えた、歌舞伎役者勘三郎ならではの感性のなせる業であるのかもしれない。だが少なくとも言えるのは、串田の試みたことが、勘三郎にそれだけのことを感じさせ、考えさせるだけの深みにまで達していた、ということである。

もちろん、通常の慣行となった演出による『三人吉三』を見ていても、そうしたことは感じ取れないわけでは必ずしもない。劇場の椅子からの私の率直な意見をいうなら、黙阿弥の脚本の中に眠っていたさまざまな意味や仕掛けを赤裸々に提示して見せた串田演出のラディカリズムの功績を認める一方で、在来の演出のコンヴェンショナルであるが故の頽廃の美学も捨てがたい。そもそも、いまさら現代の女形俳優がお嬢を演じたところで、幕末明治の八代目半四郎のように演じることは、まず不可能であろう。コクーンでお嬢を演じた福助が、福助一代と言ってもいいほどの好演だったのは確かだが、いまにして思えば、あのお嬢は、福助にとって栄光と危険が裏表になった分水嶺であったかもしれない。その後の福助のさ迷いこんだ、迷路のような苦闘の道を思うとき、ときに痛々しいような思いで福助を見ている自分に気が付くことがある。が、いまはこれ以上、福助のことに触れるのは慎もう。話を『三人吉三』に戻すなら、むしろ新旧ふたつのバージョンが両立することがそれだけ歌舞伎を豊かにすることにも通じると思うのだが、演技者として実際に和尚吉三を生きてしまった「生理」が、勘三郎にそう言わせたのであろうことは、充分に想像がつく。

それにしても考えさせられるのは、自分の「仁」から考えて桜丸をこそと思っていた若き日に、無理矢理にも「松緑のおじさん」から梅王丸を教わって荒事の骨法を叩き込まれたことが、いま和尚吉三を演じることを可能にしているのだという勘三郎の言である。和尚吉三はもちろん荒事の役ではないが、骨太の強い感触の役、というほどの意味と考えればわかりやすい。一方串田は、勘三郎の和尚吉三について、大詰前の「駒込吉祥院の場」の終局、兄妹相姦という畜生道に堕ちた妹のおとせと弟の十三郎を、お嬢吉三とお坊吉三の身替りにする場面での勘三郎の演技の凄さを、もう何かを演じているという次元ではなかったと述べた後につづけて、こう書く。「歌舞伎の型というものを何十年も追及してきた役者が、その身についた型から、スーッと解放される時のすごみのようなものを、僕は(演出者という)立場を忘れて見ていた。」

この串田の言の美しさは、否定するわけにいかないと私は思う。

 
42.「し」の章  (談話・串田、野田との仕事について1)

―――まあこれは、あれこれ言うよりも、やってることを見ていただくことなんでね。ですけれども、たとえば自分がね、まあいつか死ぬと。死ぬときにね、いろいろ考えると思うんですよ。もちろん歌舞伎役者として生まれてきたんだから、おじさんたちに教わったこととか、自分の解釈で、当っているか当っていないかは別として、盛綱なら盛綱をこうしたい、とかいうようなことが一方にある。また一方、それじゃなくてね、創るっていうこと。俺がはじめて創るんだ、っていうこと。それがこっちだと思うんだね。

―――だからたとえば、賞をいただいたとしましょうか。『鏡獅子』で賞をいただいたときがありますよね。ありがとうございます、勉強さしていただいて、というコメントが本当に言えますけど、たとえばこっちの『研辰』でもらったときはね、やったぜ、ですよ。だから全然違う。スポーツマンが優勝したとかなんとかってシャンパンかける、あの感じ。あっちの、『鏡獅子』で賞をいただいてシャンパンかけたりしたら、あいつ気が狂ったか、何だ、あんなものぐらいでって言われちゃう。あっちはもっともっと、死ぬまで勉強っていう世界。本当の意味でね。あっちがなければ、こっちもないですよ。だけども、こっちのこれは、お前、考えつかなかっただろうよって言えますよね。

―――ね、やっぱりやるべきだよ、生きてるんだから。せっかく、昭和三十年に生まれて、死ぬのは平成だか、その次の何かになるかわからないけど、とにかく何十年生きた中でね、これやったの俺だけだよ、俺が一番最初にやったんだよっていうことは、子供たちにも自慢できるかな、っていうこと。あっちは自慢はできないよ、すごい先輩がいっぱいいるから。けど、こっちのばかりは、ニューヨークで英語で『法界坊』やったら、ざまあ見ろ、やれるもんならやってみろっていう風なね。うん、それが生きてるっていうことじゃないかなって思うんだよね。

―――それからもうひとつ。野田秀樹って、現代(いま)の作家だよね。野田秀樹って俺の友達だけど、あれ才能あるよっていう、そういう二人で握手して始めた仕事だっていうことですね。彼の、あれちょっといい文だから見てください。今度の『研辰』の映画のパンフレットに彼が書いたの。すごくいいこと書いてるんです。自分でこわかったって。犯罪者のような心境だって。それ、すごくわかる。やっていいものか悪いのか。あっちはさあ、おこられないですよ。どれだけ掘り下げたかってわかってくれるでしょ? 歌舞伎が好きな人ならば。けど、こっちをやる初日は、もう吉と出るか凶と出るか。しないでじらしてされるがじらしい、ってやるんだもん、歌舞伎座の舞台で。犯罪者の共犯ですよ。でもそういう人が、同世代にいたってことがラッキーですよね。それから串田さんも。同世代にいた。どうせだったら生きてる間に、いま出来ることをやりたいじゃない。この間のあんな、(渡辺)えり子の『舌きり雀』。あれだって何十年かたったら馬鹿馬鹿しくて笑って見られる日が来る。やらないよりやった方がいいだろう、っていう、それなんですね。

―――両方やるっていうこと。まあ、つっ込んでいったらそういうことですね。こんなこと、あまり言ってないですからね、どこにも。外国人がよくやるでしょ、イエーイっていう世界。あれあっちでやったらみんなに総スカンだよ、そんなことやったら。でもこっち側だったら、それも許してもらえるんじゃないか。許されなかったら、それならいいよ、っていう風なことですね。だって俺たちだけでやったんだもん、しょうがないよ、これからだよっていうこと。それにね、若手の、菊之助だとかが、こういう動きを利用するんじゃないけど、こういうのもあるんだよっていう、いろんな動きになってきたことは、ある意味、いいことだと思います。ただ、子供たちにもよく言うんだけど、あっちを忘れちゃあ絶対駄目だよと。こっちだけに走っちゃ、歌舞伎はもうただ駄目になっちゃうよっていうことですね。

―――だからこれからも、そういう作品もあって、中幕にちゃんとした踊りがあって、古典があるっていうのを作っていきますよ。歌舞伎ってなんだい、いろんな歌舞伎があるんだなっていう風なことを、身をもってやっていきたいですねえ。だからこの前の襲名で『研辰』をやったときも、玉三郎さんに『鷺娘』を踊ってほしいって言ったの。『鷺娘』を見る人にも『研辰』を見せたいし。最初に菊五郎さんの『四の切』の狐があって、ちょっと重たかったけどね、でもああいうものがあって『鷺娘』があって『研辰』があるっていうと、オイ、歌舞伎ってなんだい、いろんなのがあるんだねっていう風にしたいのよ。歌舞伎ってやっぱりいいものですからね。わけのわかんないもんだなんて言われると悔しくてしょうがないのよ。『研辰』を見てわけわかんないなんていったら、日本人じゃないよって言えるじゃない。

―――歌舞伎を変えたいなんて死んでも思いません。罰が当たります、そんなことは。変えません。このままでいいです。けれどそこにひとつ、こういうのが出来るとね。黙らせたいんだよ、歌舞伎をつまんないなんて言ったり、わけわからないとか言う人種を。それならこういうのがありますよっていうのをやる。だってわけわかんないのが一杯あるんだから。それは勉強すりゃあいいんだから。でもそればっかり言ってるとね、歌舞伎って長いんだろって言われた時に、ううん、違うのもあるよって言って、鼠の上に乗って宙乗りするわけよ。それだけじゃあ駄目だから、ということね。それなんですよ。

―――だから狂言立てにもこだわるし、こないだの『ふるあめりかに袖はぬらさじ』も、玉さんがお礼を言ってくれた。あんたが出るように言ってくれたからみんな出たって。当り前だよって言ったの。あれをやるかやらないかということにも論議があった。けどね、いいじゃないですか。そんなもの歌舞伎にしちゃえばいいんだと。それで全員出た方がいいって言ったの。そういうことをするとお客さんは喜んでくれるんですよ。と、思うなあ。こういうことが、これから先もずーっと思い続けていきたいことかなあ。

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