暮から中断していた勘三郎随想を再開します。あと数回で終了のつもりです。
43.「ゑ」の章 (その34から続く)
野田秀樹と勘三郎の場合も、作者野田という存在が、まず勘三郎の中にあったに違いない。当然、演出者野田と作者野田とは切っても切り離せない以上、それは、野田に歌舞伎を作らせ野田の演出でそれを演じる、ということとイコールになる。だが、最初に勘三郎が野田に与えたのは、極めて慎重な「作戦」だった。既存の歌舞伎の作品を野田秀樹の芝居として再生するという方法である。シアター・コクーンや平成中村座で串田和美に託したのは、名作、もしくは人気作として著名な歌舞伎の古典に、演出という近代劇の発想と方法で手を入れさせ、それによって現代の観客の感性にストレートにアピールする芝居として再生することだったが、野田に託したのは、はじめが『研(とぎ)辰(たつ)の討たれ』という、大正の末に作られた新作歌舞伎の作品であり、次に託したのが、黙阿弥の『鼠小僧』という、名は知られていても、実際には上演されることが稀な、上演しても成功させることが難しい作品だった。勘三郎の、作者野田への配慮と、事を起こすに当っての熟慮を窺うに足る選択といえる。
『研辰』は、大正の末に初演された新作物の佳作として、いまも通常の歌舞伎のレパートリーのなかに入っている作品である。勘三郎自身も既に何度も演じて手に入っている、いわば安定銘柄だった。作者の木村錦花は松竹の要職にあった幕内の人間としていわば玄人中の玄人であり、作者としても、たとえば昭和初年の数年にわたって、毎夏の人気シリーズとして『弥次喜多道中記』を連作して、家族連れで歌舞伎を楽しむという新しいファン拡大に貢献した手だれであり、また一方では『近世劇壇史』のような著書もある知識人でもあった。さらに言うなら、近代演劇の狼煙を上げたというので名高いあの二代目左團次と小山内薫の「自由劇場」にも、そのはじめから終わりまで関わっている。その時点での、申し分なくハイカラな近代人である。
ところでその『弥次喜多』が、当時宝塚少女歌劇で大ヒットした『モンパリ』をヒントに生まれたように、『研辰』の初演された大正十四年といえば、都会的な新感覚が風靡したモダニズムの時代であり、武士道だの仇討だのを批判し、軽妙に茶化してみせるというナンセンスは、当時の流行でもあって、歌舞伎ばかりでなく、そのころ新興の大衆娯楽として隆盛を迎えていた映画でも、仇討批判の作が無数に作られている。有名なバンツマ、阪東妻三郎の若き日の大ヒット作『雄呂血』などというのもそのワン・オブ・ゼムであって、その種のものを「傾向映画」と言った。つまり時代の「傾向」だったわけで、歌舞伎でも、いまでもちょくちょく出る、かの谷崎の『お国と五平』だって、菊池寛の『恩讐の彼方に』だって、仇討批判劇という「傾向」を借りた上に作られた、そのワン・オブ・ゼムだったわけで、要するに『研辰』は近代作家による近代俳優のための近代的新作物なのである。
つまり、ここで野田のなすべき仕事は、仇討芝居に託した社会批判や諷刺を、いまとなっては古色の漂う大正・昭和初年のモダニズムのハイカラ・ムードから、現代の寵児としての野田の芝居の世界に組み替え、再創造してみせることにあった。それなら、野田秀樹の世界そのものであって、野田自身が臆せず取り組みさえすれば、成功は疑いない。第一作を成功裡に収めたいとする、勘三郎の慎重な配慮が窺われる。
第二作の『鼠小僧』は、黙阿弥の名作といわれながら、その実、実際に上演しても成功させることはむずかしい、すでに賞味期限が切れたも同然の作である。現にそれより数年前、国立劇場が復活上演をして、どう見ても成功だったとは言いかねる結果に終っている。しかし鼠小僧という近世の庶民社会が生んだ伝説的な存在は、いまなお、現代の社会にも充分有効性を持っている。黙阿弥の作をそのまま、国立劇場がやったような方法で復活上演しても成功率は低いが、黙阿弥の作に借りて野田に新たに作らせるなら、現代にアピールする鼠小僧の芝居を創造することは充分に可能だろう。勘三郎の思考がこの通りの筋道を辿ったかどうかは別として、私なりにその意図を読みほぐせば、こういうことになる。いうまでもなく、鼠小僧の「義賊」というモチーフを梃子にすることによって、野田は新しい鼠小僧の芝居を作って見せたのだったが、そこに「野田版」という文字を添えて、黙阿弥の野田的再創造というスタンスを明示することも忘れなかった。ここにも、勘三郎の頭脳プレイがある。
歌舞伎から外に出て、野田と組んで芝居をするのなら、何もむずかしいことではない。だが勘三郎の求めたのは、歌舞伎座で歌舞伎として野田の作品を演じることだった。この発想のなかには、歌舞伎とは何かという問いが、強烈に問いかけられている。歌舞伎とは、何をもって歌舞伎と呼ぶのか? 何をどうすれば歌舞伎であり、何をどうすれば歌舞伎でなくなるのか?
歌舞伎座にこだわったのは、「歌舞伎の大本営みたいなイメージ」と串田がいうように、まさに歌舞伎のシンボルとしての殿堂だからだが、そのシンボルとは、勘三郎にとっては単なる抽象的な意味でのシンボルではない。たとえば初役で『仮名手本忠臣蔵』の塩冶判官をつとめたとき、かつて判官の役を何度も演じ、教えてもくれた「梅幸のおじさん」が、その判官の役で、いま自分が立っている同じ舞台の同じ場所で、いま自分のしているのと同じことをしていたのだと思うと感極まって涙がこぼれてきた、というような、何十年経とうと失われることのない記憶と、そこに籠められた実在感に裏打ちされた、それは「歌舞伎の殿堂」なのだ。
その歌舞伎座で、野田と組んで新作の歌舞伎をする。そんなことをしていいのだろうか? 犯罪者のような気持に襲われたと野田が言い、その犯罪の共犯者のような気持と勘三郎が言うとき、その言を疑ったり、揶揄したりするのは、よほどの遠距離から遠望する者にしか不可能だろう。
一方、その歌舞伎座で、歌舞伎役者がやればそれはすでに歌舞伎なのだと言いながら、勘三郎は、野田の作品『カノン』を串田の演出で上演するための具体的な準備に取り掛かりながら、これは歌舞伎にならないといって破棄している。歌舞伎とは何か、ふつう想像しがちな域を遥かに超えて、緻密に、勘三郎が考えて抜いていたことがわかる。
44.「ひ」の章 (談話。串田、野田との仕事について2)
―――串田さんは、ぼくは演出家として頼んでますから、彼が何か意見を出してきたときには彼に従います。ただ、これは従えないなっていうようなのが来たときは頼みません、はじめから。だから、いつも笑うんですけど、あなたに絶対『鏡獅子』は触らせませんと。するとかれは「ソーオ」って言うんだけど、ハハ。『仮名手本忠臣蔵』も普通のまんまやりたい。串田さんでやったらやれるよ。けど、それはいいですよ、まだ。
―――これは彼に頼んだ方がいい、という判断ですか。それが『法界坊』であり
『夏祭』であったと。
―――そうそうそう。たとえばね、もっと言うと、あれも串田さんでやってみたいんですよ。どういう風に変わるか。『筆屋幸兵衛』。ちょっと興味がある。やるかもしれません、いつか。
―――そういう場合、普通バージョンと串田バージョンと、ふたつ出来たわけだ
けど。たとえば『夏祭』なんかは?
―――もう普通バージョンはやりたくないですね。『法界坊』もやりたくない。『法界坊』は普通のはつまんないよね。あれをやって、何を見るのかと思う。そう思いません? 見るものないですよ、あれ。ただ役者の愛嬌だけでしょ?
『夏祭』はねえ、もう一回、歌舞伎座でどうかなあ。『四谷怪談』は普通のもやります。『夏祭』は、暗闇の快感を覚えちゃったからねえ。普通のは、あんなところで舅殺しをやるのはねえ。嘘くさいですよね、なんか。どうです? しかも「長町裏」でチョンでしょ、いつも。あれ、やっぱり最後までやると面白いですよ。でも、普通のあのやり方で最後までやっても駄目なんですよ。だってバカみたいなもんですよ。あれはほんとに串田さんの傑作だと思うよ。楽しませるわ。よく考えてる。あの街を小さくしたり、暗いところからバーンと移るところね。串田でかした、と思うなあ。あそこまでやっちゃったら、もう普通のはやりにくいってことですわね。
でも、そんなこと言ってても、またやるかもしれません。そのときにまたお話したいですね。どういう風になるかね。うちの親父もやってたしね。
―――『三人吉三』もね、普通のつまんないですよ。普通の人が見たら、あのやり方だと駄目だと思うよ。だってさあ、役者の貫録がどうのこうのいう話ばっかりになるし、「大川端」だけ出したりするようになるでしょ? ああいうことするからね。やっぱりドラマとして見ると、串田さんのあれ、よく出来た『三人吉三』だと思うんですよね。
まあ、お嬢はね。でも、お嬢だけやってもねえ。いや通しだったら、ぼくはやりたくないです、逆に。なぜかって、女形がやった方がおもしろいですよ、お嬢は。だから玉さんにすすめたんだから。やったらいいって。アレは『弁天小僧』とは違うから。もっというと、『弁天小僧』はやりたくないですから、串田さんでは。やったらだめですよ。やったら失敗しますよ。
―――『封印切』なんかは、串田さんでやっても面白いかなと思ってるんです。ただ、『近松心中物語』みたいなのをもうやられてるからね。その色がついちゃうのがいやなんでね。それだったら充分ですからね、あれで。ただ、最後の裸馬に乗っていくところ。堀川弘通監督の映画よかったですからね。あんなのもやりたいなあ。
―――串田さんだったらあそこまでやらないと。
―――そりゃ、やらないと駄目駄目。
―――普通のやり方だと最後までできませんからね。『三人吉三』でも普通のやり方だと、三人が巴になって死ぬところまでできないってことはありますね。
―――そうなんですよ。こんど『夏祭』をベルリンへ持っていくんですけど、五月に。「道具屋」の場を出そうかっていってるんですよ。それをまた凱旋公演でやれたらね、どうなるか。
―――野田、串田の違い? あのね、野田秀樹はね、大人ですね。逆に見えるでしょ。串田さんの方が子供。野田は世の中のことをわかってますね。やっぱり作家なんだね。だから、ここはやめといたほうがいい、ここは、っていうのが、とっても、わかってる。やはりね。串田さんは、なんか生まれっぱなしみたいな、駄々っ子みたいなところがある。そこがまたあの人のおもしろいとこ。年上の人にこんなこといっちゃ失礼なんだけど。だけど両方とも少年みたいなとこあるわなあ。その中での、どっちかっていやあっていうことよ。両方とも、演劇少年だね。
―――勘三郎さんの方から、二人を仕分けるというか、野田さんのときはこう、串田さんならこういということはありますか?
―――大きな違いは、野田秀樹は書けますからね。串田さんは書けないですから、その違いがありますね。だから野田さんとも・・・野田さんなんて言っちゃった。野田とも今年また新作をやるんですけども、作品に対して意見を言って、参加しながら、作っていく。こっちは、掘り起こす。既にあるものをどうやろうかっていうことですね。来年ちょっと面白いことを二人でやるんですけどね。