随談第516回 今月の舞台から

新橋演舞場の花形歌舞伎『心謎解色糸』がなかなかよかった。大当り、とまでは敢えて言わずにおくが、将来への期待と見通しという観点からだったら、後日、その原点となったという意味で、大当りだったと言われるようになるかもしれない。少なくともこの狂言のこれまでの上演史の上で、今度の上演がひとつのエポックになる可能性は充分ある。

41年前の国立劇場上演版による白鸚・梅幸所演よりはるかに面白いことは間違いない。こういうものは、なまじエライ人たちがやるより、先入観に縛られていない若い連中でやった方がいいという、まさにその典型的な例といえる。70年代に起った南北ブームの中で『桜姫東文章』や『盟三五大切』が現代のレパートリーに甦った、というより、新たに参入した(と言った方が正しいだろう)が、その只中であわよくばこれも、と狙っ(たかどうかわからないが、けっきょく空振りに終わっ)た『心謎解色糸』が、それから四〇年、孫世代の手で新世代歌舞伎のレパートリーとして参入することになったなら、めでたしめでたしというものである。七〇年代と違うのは、『三五大切』にせよ『桜姫』にせよ、七〇年代という時代と関わるものを有していたが、平成の世の『心謎』にはそうしたメッセージ性は持っていない点だが、そこがまた、当世らしいと言えば言える。七〇年代には玉三郎の登場ということがあったが、現代の花形連には、時代と何らかの形で切り結べるキャラの持主は海老蔵ぐらいしか見当たらない。染五郎も、菊之助も、勘九郎も七之助も、皆、才能としては素晴らしいが、皆、オーソドックスな優等生の顔をしている。彼等の中ではやや異色な松緑も、今この文脈からするなら、該当しない。が、この話はいまは閑話休題としよう。

41年前と違うのは、白鸚にせよ梅幸にせよ、南北らしい、ということに対して、身構えたり、ちょっと引いたり、とにかくかなり神経質にな(らざるを得なくな)っていたが、そうしたコンプレックスから、当代の花形連は少なくとも自由らしく見えることである。七〇年代が遺したものでいまも続く最大のものは、「正統」という権威が崩壊し何でもアリという状態が瀰漫的に継続していることで(それで新劇は壊滅したが、歌舞伎には姿や実態は変わりつつもともかくも理念の上では「正統」は存在している。歌舞伎が腐っても鯛であり得ているのはそれ故である)、前代の大物たちの持っていなかったその自由さを、現代の花形たちは初めからそこにあったものの如くに、自由に、別に殊更な反逆も何もする必要もなく、享受出来ることである。前代の大物たちがあれほど苦労し、批評家たちから南北らしくないといった批判を散々された障碍を、現代の彼等はやすやすと乗り越えられる。

今度の一座には海老蔵も勘九郎も(猿之助も)入っていない。もし海老蔵がいたら、染五郎がお祭り佐七と半時九郎兵衛を二役兼ねるという配役はなかっただろう。そういう配役を空想するのも、それはそれでもちろん楽しいが、今度の一座でする以上、染五郎の九郎兵衛は本役ではないと言っても染五郎は困惑するだけだろう。むしろ、そんなことは承知の上で、自分の柄を考え、もう一役の佐七といかに演じ分けるかを工夫した上での染五郎の努力を、私は興味深く見た。(ついでに言うなら夜の部の『青砥稿』でも、日本駄右衛門は染五郎の仁ではあるまいが、たとえば「神輿ケ嶽」のだんまりで大きく見せる工夫と努力を、私は面白く見た。)それで思い出すのは、いまの仁左衛門が『お染の七役』の鬼門の喜兵衛を初めてした時、自分の役ではないと思ったが、勘彌のおじさんから恥をかくつもりでやれと言われてやったお蔭で、あゝいう強い役が出来るようになったと語っていたことである。もちろん仁左衛門と染五郎では個性はまた違うが、他山の石として聞いてもよいことではあるだろう。

松緑の本庄綱五郎と役を入替えたら、というのも、当然、誰しも考えるところだろうが、それはそれとして、私は松禄が、先月の釣天井の柴田勝重といい、実事系の役でじっくり実力を蓄えてきたのを興味深く見ているところなので、この綱五郎も(染五郎の九郎兵衛と補完し合うという意味も含めて)かなりの点を入れたくなっている。ただこの人の何とかすべきなのは、夜の南郷でもそうだが、七・五で切れるセリフの尻が全部同じ調子で同じ音程のところへ落ちてゆくことで、同じ調子が何度も繰り返されることになり、単調で妙味というものがないことだ。

菊之助の小糸ももちろんいいが、今の菊之助の力からすればこのぐらいよくて当たり前というべきだろう。41年前の祖父梅幸の敵討ちをしたようなものだ。

七之助がお房とお時の二役で、得難い素質を見せたのも、新世代歌舞伎の今後を考える上からも頼もしい。玉三郎と感触を違えながら、引き受ける役はほぼ同じところを引き受けてゆくことになるのだろうか。

(それにしても、いまこの文脈からは外れることになるが、歌六の安野屋重兵衛を見ながら私はほとほと感服した。することなすこと、常間常間でことごとく寸法正しく、すぱりすぱりとツボに入ってゆく。この種の役の仕事としてほぼ理想的といってよい。こういう役でのこういう本寸法の芸というのは、勘彌以来だろう。)

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『青砥稿』もなかなかよかった。新世代版五人男、みなそれぞれによかったが、何といっても菊之助の弁天というのは天性この人に嵌めて作られたようなものだ(と感じさせるところが、絶対の強味というべきである。)極楽寺山門の立ち回りの飛燕のごとき具合など、私がこれまで見た限り、誰のよりも素敵に素晴らしい。三年前、自ら企画した東北地震被災者救援の舞踊会で踊った『浮かれ坊主』を思い出す。白く塗った素足の筋肉がまるで陸上競技の選手のようだった。

後は(いまのままでも充分、一級品ではあるが)、後ろにいる駄右衛門や浜松屋等の存在を意識しながらの南郷とのやりとりなどで、時代と世話、硬軟取り混ぜてた運びの面白さを見せてくれるようになったら、泉下の黙阿弥翁も目を細めるに違いない。

今度の、久しぶりの、そうして新世代に面々にとっては初めての全段通しで、ひとつ言うとすれば、胡蝶の香合とか、信田小太郎と千寿姫の関係とか、それにからむ赤星十三郎との関係とか、浜松屋が小山家の臣であったといった因果の糸を、客席の万人にもっとわかりやすく、明確に見せるべきだというである。繰り返すうちに、段々、いつの間にか刈り込まれ(以前は十三郎の伯父さんというのが出てきたはずだ)、前菜扱いみたいになってきたような気がする。前段の時代、後段の世話と、二つの世界が大詰で渾然となって大団円を迎えるというのが、作者黙阿弥のこしらえた構想なのではあるまいか。

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今月の文楽がなかなか面白い。三部制で十一時開演の夜九時終演という盛り沢山で少々草臥れるが、それだけのことはあるから見て損はない。第一部の『近頃河原の建引』、第二部の『染模様妹背門松』と、大坂の町人世界のさまざまな人情の模様がねっとりと語られて、これこそ文楽ならではという思いで、堪能した。歌舞伎では到底、こうは行かない。大作のいわゆる名作よりも、こういうものにこそ、文楽の真骨頂が発揮される。

『河原建引』の猿回しの件など、歌舞伎だと、猿回しの猿のおかしみも、ほろりとさせる味付け以上にはならないが、文楽だと、本物のお俊伝兵衛も人形、猿のお俊伝兵衛も人形だから、人間と猿の二組のお俊伝兵衛が重なり合って見えてくる。作者の卓抜な趣向、卓抜な人間観が浮かび上がってくる。かつて、あの若太夫の語りで見た時の圧倒的な感動を、ちょっぴりだが偲ぶことが出来た。(それにしても、当代寛治が、風貌風格、先代にそっくりになってきたのに驚く。)

何と言っても堪能したのは『妹背門松』で咲太夫の語った「油店の段」である。今が盛りの咲太夫がたっぷりと語って、文楽でなければ味わえない面白さを心ゆくまで愉しんだ。文楽を聴いてこういう満足感というのは、いつ以来だったろう? 「蔵前の段」も、文字久がお染の親の太郎兵衛をじっくりと語る。人の世の情理を尽くし、お染がそれをじっと受け止めつつそれでも心中に至る具合が、語られる世界は古めかしい町人倫理でありながら、それを超えてもっと普遍的な、大人の良識と若者の情熱の相関関係へと、聴く者の思念を昇華させることになる。こうして初めて、菅専助作の一見古めかしい浄瑠璃が、広く高い普遍性を獲得することになる・・・などと、つい青臭いような理屈を捏ねてしまったが、そういう気にさせてくれるだけのものだったといえる。

ずい分前に見た歌舞伎の『ちょいのせ』はこの作の「質店」と「蔵前」を、番頭の善六をチャリ敵にして喜劇化したものだが、文楽でのこの醍醐味とはまったく異質のものだが、それはそれで、別種の面白さがある捨てがたいものだ。二代目鴈治郎も十三代目仁左衛門も亡き今、誰もやらなければ消滅してしまう絶滅危惧狂言のひとつである。私は実は、当代の、つまり十五代目仁左衛門に、このチャリ敵の善六をやってもらえまいものかと期待しているのだが。あの仁左衛門が善六をやって、女性ファンたちが、上辺では「いやあね」と苦笑しながら、実は腹の中で「仁左衛門さん、カワイー」と喜ぶ様子が目に見えるような気がするのだ。仁左衛門としても、いつもいつも格好いい役ばかりでなく、善六などをやってアッと言わせてみるのも、また役者冥利に尽きるのではないだろうか?

第三部の『廿四孝』は蓑助と文雀が八重垣姫と濡衣を遣う眼福を愉しむものだろう。

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