随談第590回 如月だより

まずは歌舞伎座のお噂から。

暗闇の押し問答の場面から開幕した正月に引き換え、江戸歌舞伎三九〇年と謳った今月は、猿若祭やら幼い坊やの初舞台やらと、場内は、賑わっている。まさか今年の歌舞伎座は春節、いやさ旧正月で春を迎えようというのでもあるまいが、見る前は、前日辺りからテレビ各局で持て囃したり、正直なところやや鼻白む感じもないでもなかった『二人桃太郎』に引き続いて、折から節分というので豆撒きでやんやの騒ぎ、ついこちらも、いつのまにやらおめでた気分になっているのだから、これが歌舞伎というものの何とも不思議なところと認めないわけには行かない。

豆撒きといえば、今度は菊五郎が「追儺」を行ないます、と挨拶をしたのでヘエと思ったが、以前、富十郎が座頭格として開口一番「昭和15年の立春を祝いまして豆撒きを行ないます」と挨拶したのを思い出す。つまり平成15年を言い間違えたのだから、もはや13年前の昔となるわけだ。富十郎らしいそそっかしさも懐かしいが、ついでに懐旧談に耽るなら、新桃太郎の祖父、つまり十八代目勘三郎が初舞台で桃太郎をしたのが昭和34年4月、すなわち現天皇皇后のご成婚の、まさにその月であったのだから、数えれば58年前、江戸歌舞伎390年の6分の1乃至7分の1は、それからこっちの話ということになるわけだ。

歌舞伎の歴史もさほど長くはないのである。

それにしても、勘太郎の三代目というのはいいが、長三郎という名前は知らなかった。何だかあまり可愛らしい坊やの名前という気がしない。無理して古い名前を引っ張り出さなくとも、もっと可愛らしい活気のある名前を初代として名乗らせる手もあったのではないか? 中村七三郎という、江戸和事の元祖とされるいい名前があるが、これは七之助の坊やの時に取っておくか? 

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『大商蛭子島』の開幕前に勘三郎のところの石橋さんが、この芝居、みんな何だかよくわからないって言ってるんですよ、と笑っていたが、その割には、皆、まずまず無難につとめていたように見える。たしかに、松緑のやっている手習いの師匠が実は源頼朝公、などというのは、一番目を抜きにして二番目の場面だけで見顕しをやって見せるのだから大変には違いない。かつて復活初演のときに祖父の二代目がした役だからというのが縁となっての配役だろうが、何とかし遂せたのは松緑もそれだけ幅が出来てきたからで、以前の松緑だったらお手上げだったろう。

この脚本は、国立劇場ができる前、歌舞伎審議会というのが出来て、学識者と舞台の実際家が手を携えて、天明歌舞伎の復活上演という机上の論を現実の舞台に上せるという仕事を実現した、ある意味で戦後歌舞伎の一つの記念碑といえる。こうした機運が、その5年後に開場した国立劇場の復活上演へと結実したのだともいえる。昭和30~40年代というのは、いま思えば、一種の啓蒙開化の時代だったのだ。昭和29年末に開場した東横ホールの第一回公演にいきなり、上方歌舞伎研究会という名で、碩学といわれるほどの学識者が関わって『心中万年草』を復活上演したりしているのも、一連の機運の中から生まれたことだったろう。歌舞伎鑑賞教室で解説役の若手俳優が、歌舞伎はエンターテインメントです、と高校生に向かって迷うことなく言い切る時代になった昨今からすると、時運の転変をつくづく思わないわけには行かない。

(ところでこの『心中万年草』だが、演じたのは岩井半四郎と市川松蔦、といっても、判る人はどのぐらいいるだろう? 半四郎は仁科明子のお父さん、松蔦は現門之助の父の先代門之助である。この時点での、若手花形の先頭にいた人たちだった。)

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『四千両』という芝居は、いかにも黙阿弥らしくありながら、黙阿弥の異色作ともいえる。「牢内」が有名で、もちろん私も面白いと思うが、序幕の「四谷見附」が黙阿弥的リアリズムとして『入谷畦道』の「蕎麦屋」と並んで双璧だと思う。ここの菊五郎の富蔵が流石である。もうこれだけの富蔵は、いま既にこの人だけ、今後もう出ないだろう。

ところで「四谷見附」と言えば現在の四ツ谷駅から上智大学のグラウンド当りだろうが、この場の背景に描かれた千代田城の遠景は、いまなら半蔵門の国立劇場辺りから見た景色のように見える。「牢内は、だんだんマスゲームじみて見えたのが気になった時期もあったが、久しぶりに見るとやはり面白い。しかしこの芝居、序幕の御金蔵破りの後、一転熊谷土手で改悛の情を見せたかと思うと、伝馬町での(牢仲間から見ての)模範囚ぶりと、いいとこ取りにつまんで見せるので、場ごとに随分飛躍があるのが難とされるが、しかし富蔵の転変ぶりなど、却ってこうして見た方が結構現実にいそうな人物像として貫かれているようにも思える。つまり盗賊としても、護送犯としても囚人としても、どこへ行ってもそれなりに「ひとかどの」男なのだ。

熊谷土手というのは、この『四千両』のほかに、『沓掛時次郎』でも『不知火検校』でも大事な場面として使われるが、江戸からの、あるいは江戸への距離が、遠くもなく近くもなく絶妙な位置にあるからだろう。(この場での彦三郎の八州同心が何ともいい。)

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襲名披露で熊谷をやり盛綱をやり、大阪では石切の梶原をした新・芝翫が、もう「新」の字が取れた今月は『絵本太功記』の光秀をやる。立て続けに丸本時代物の大役と取り組む意欲は見上げたものだが、それはそれとして、鴈治郎の十次郎と孝太郎の初菊の絡み合いを手数の多い上方式でやって見せたのが、芸の良し悪しは別にして、なかなかの見ものだった。東京流だと何だか取り澄ましていてとかく退屈に流れるのだが、なるほど、義太夫の本場のやり方は違ったものだ、義太夫物とはこういうものかと納得させられる。思わぬ収穫であった。

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ひところ玉三郎と勘三郎で当てた『梅ごよみ』を染五郎の丹次郎、菊之助の仇吉、勘九郎の米八という新メンバーでの初目見得。仁よし柄よし、もう一段、磨きをかければ新名物になり得るだろう。歌六の千葉藤兵衛の貫目の程の良さなど、つくづくいい役者になったものだ。夜の部の追出しにこれほど恰好な二番目狂言もない。それにしても、原作の為永春水の江戸言葉をこれほど有効に生かした塩梅といい、場面の切り取り方と言い、芝居の運びの快適さと言い、木村錦花という作者の万事を呑み込んだ手練というものは恐れ入る他はない。これこそ絶後というものだろう。

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それとも関連するが、新橋演舞場の喜劇名作公演の一番目『恋の免許皆伝』というのは一堺漁人、すなわち曾我廼家五郎作の『四海波』のことで、これがなかなか面白い。序幕では適齢期だった許嫁同士が、20年後の第二幕、40年後の第三幕と、老齢に至ってようやく結ばれるというストーリイは、まさしく、かの『ぢいさんばあさん』と同じであり、感動の質も変わることはない。違うのは、剣術指南の娘である女に、婿たる男は剣の腕前で勝らねばならないという枷を掛け、序幕で達人を以て自負する鼻をへし折られた男が、20年後、40年後、艱難辛苦の修業の末、またしてもあっさり負けてしまうという「喜劇」に仕立ててある点だけだ。今回の門前光三(という戯作者名である)による脚色がどの程度手を加えてあるのか、元の台本を知らない私には分からないが、明治43年が初演と聞けば、こういうものを長年月埋もれさせていた世の通念というもののおそろしさを思わないわけには行かない。人情の機微の押さえ方と、芝居とはいかなるものかを熟知した作劇と、それさえ揃っていれば後はいらないと、100年後の今なお立証しているかのようだ。(因みに明治43年は1910年、107年前である。)

二番目として渋谷天外・喜多村緑郎・河合雪之丞という顔合わせで『狐狸狐狸ばなし』が出るが、せっかく天外が伊之助をするなら、「江戸みやげ」でなく、元の大阪を舞台にした版にしたら如何なものであったろう? 実はこの芝居、面白いには違いないが、江戸土産というにはちと話がエグイのが気になりもする。そこが北条秀司と木村錦花の違うところ、『狐狸狐狸ばなし』と『梅ごよみ』の違う処ではあるまいか?

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