随談第534回 今月の舞台から

>丸ひと月、更新なしになってしまった。書くべきことがなかったのではなく、割くべき時間が甚だ欠乏していたためである。その間に、プロ野球はクライマックス・シリーズも日本シリーズも終わって、ストーブ:リーグ(などという言葉が、冷暖房完備が当り前になって久しい今でも通用するのかどうか)が始まってしまった。今更出そびれた幽霊でもあるまいから、いずれ何かの折に何かの話題に引っ掛けて出すことにして、先ずは今月各劇場の評判記としよう。< 歌舞伎座は、何と言っても染五郎の弁慶如何に、ということだろう。ひと言でいうなら、立派な弁慶だった。立派、というのは、見たさまの貫目とか、貫録とかいう意味でのそれではない。全身全霊、能得る限りのものを出し尽くしての成果であったという意味で立派だった。何としても成し遂げようという意志と気力、正攻法で真っ向から取り組んだ芸の姿の正しさ、ひいてはそれが、義経を守り抜こうとする弁慶の心に通じることになったところに、この弁慶の生命がある。性根がどうのということより先に、それがあった。そこが立派だったという表現につながる。この順序が逆ではないところが肝要である。だからこそ、歌舞伎の芸として、丈の高い、姿の正しい弁慶になったのだ。富樫の幸四郎と義経の吉右衛門の間に立って、貧弱弁慶とは思わせなかったのだ。 仁から言うなら、染五郎は『勧進帳』なら義経役者である、弁慶が出来なくたって役者として恥ではない、いくら高麗屋の家に生まれたからと言って無理をすることはないのだ、と思い、いろいろなところで言いもした。今だって、そう思っている。これで成功したからと言って、染五郎は、今後も、ああ、ぼくにも弁慶が出来るんだ、というように考えて、あまりしょっちゅう、弁慶をしない方がいいと思う。今後、平素の公演で、海老蔵だ松緑だ菊之助だといった面々と『勧進帳』をするときは義経かせいぜい富樫までにしておいて、弁慶は、何か特別の時に、いまこそ伝家の宝刀を抜くとき、という時だけにした方がいいと思う。今度のこの弁慶を、これだけの弁慶を演じ切ったというこの感動を大切にするためにもだ。それでこそ、高麗屋の弁慶になる。 今年、歌舞伎座で『勧進帳』はこれで三回出たことになる。それぞれ、理由があってしたことだから、「またかの関」などとは言うまい。むしろ、そうまでして敢えて出した特別の『勧進帳』、特別の弁慶なのだと、考えた方がいいと思う。 ところでそれはそれとして、吉右衛門の義経にはほとほと感服した。これこそ、お見それ申上げました、というものである。何と、歌右衛門に教わったのだそうな。そう言われれば、なるほど、と思う義経である。セリフの音使いと、ほんのわずかな身のこなし、とくに肩の線ひとつで、見事に義経になっている。30数年ぶりと聞いて思い出した。昭和52年9月、亡き團十郎、亡き辰之助と三人で三役、日替わりで出したことがあったが、あれ以来ということか。(それ見て御覧、よく教え、よく学んだ芸は、30年経っても、いや30年経ったからこそ、こんなに立派に出来るのだ。30前の吉右衛門の義経は、おそらく今度ほど見事なものではなかった筈だ。) 今月の歌舞伎座でもうひとつ心に残ったのは菊五郎の権太である。特にいつもと、どこがどう、違うわけではない。敢えて言うなら、気力充実の具合である。菊五郎は今年、既に書いたが、3月の菊吉での『身替座禅』が良かった。『勧進帳』がよかった。5月團菊祭で海老蔵の長兵衛以下、回りがすっかり若くなった配役での水野に、何とも言えぬ感銘を覚えた。それから、半年ご無沙汰してのこの権太である。こういう言い方をしてもし失礼だったら許してもらいたいが、團十郎を失ったことが、菊五郎の心境に何か大きなものを及ぼしているような気が、私はしてならない。團十郎の死後まもなく、菊五郎としては珍しくテレビに登場して、ごく寡言に、故人への思いを語る姿が印象的だった。語ることの少なさが、却って思いの深さ、語るべきことの多さを語っているかに思われた。尤もそれと、実際の舞台を関連づけて考えるのは、私の独善に過ぎないかも知れない。しかし、よし独善にせよ、このところの菊五郎の舞台に、深く感じさせられるものがあるのは、如何ともしがたいことである。 もう少しさりげないことだが、幸四郎の『熊谷陣屋』で、魁春の相模にも、心打たれるものがあった。この人の実力をもっと認めるべき、と声高に叫ぶよりも、そっと、大切にして見守りたいと思わせるような良さである。『井伊大老』での芝雀のお静の方にも似たことが言えるが、しかしこちらは、いまこそ雀右衛門襲名を、と叫ぶべきだろう。 井伊大老』といえば、大老と若き日に共に学んだ仲でありながら、いまはテロリストとなって直弼を襲おうとして捕えられる水無瀬六臣という役がある。重要な役のひとつだが、今度は錦之助がやっていて、懸命の努力をしているが当然ながら無理があって充分とはいかない。もちろん錦之助の責任ではない。かつて白鸚が初演したときは中村芝鶴が演じて評判を取ったという役である。いわばかつてのクラスメイトで、はるかに秀才だった男が過激思想の運動家となって零落し、むしろ鈍才だった男がいまは宰相となっているといった、人生の皮肉が歴史の皮肉と重なり合う所に、この場面、この役の急所がある。そもそも年配から言っても、直弼と同年輩でなければ、理屈にも合わないし、劇としても効果が挙がらない。それがある時から妙な配役になった。まだ白鸚健在だった頃だが、いまの梅玉がまだ福助で当然ながらもっと若輩だった当時にこの役をさせられ(?)て、まるで総理大臣と過激派の大学生みたいだったが(総理の方も、イマドキの総理とはわけが違う)、それからどうもおかしなことになったように思う。ひところ東蔵が何度かしていたが、いかに巧者の東蔵といえども役違いは如何ともし難かった。誰が、とは言わないが、間違い続きの役選びの連鎖は何とかすべきだ。 どうかな、と案じたが案外によかったのが『鈴ケ森』。菊之助の権八ははまり役だからあのぐらいよくて当り前だが、松緑の長兵衛が、年配からくる貫目不足は余儀ないこととして、マッチョな男っぽさ、兄貴ぶりが役に適っているのが取柄である。「兄貴」が「叔父貴」ぐらいになればしめたものだが、いずれそうなれそうだということを示したのが今回ということだろう。 考えてみれば、『源氏物語』の頭中将が、すでにあの頃かあらよかったわけだが、あの役は、祖父二世松緑は十一代目團十郎の光源氏に、父辰之助は十二代目團十郎に、それぞれつとめた三代相伝の役なわけで、この男っぽさ、マッチョな兄貴ぶりというのも「家の芸」だということになる。冗談ではない、男伊達に通じるこの感覚こそ、歌舞伎の立役の根元にあるものなのだ。           * 明治座に場を移しての猿之助連続奮闘公演だが、『四天王楓江戸粧』もさることながら、『女團七』が面白かった。本興行としては三世時蔵以来というが、じつは田圃の太夫源之助以来の「伝統」としては、半世紀前の時蔵ですでに終わっているのであって、今度猿之助のしたことは、連綿たる伝統の継続の上に立とうとするのではなく(亡き九代目宗十郎がさまざま試みた悪婆物の数々はそれであったと考えてよいであろう)、一旦、伝統の連続性が切れたことを自覚したうえで、異星人のような新奇な目で作品を見、この手の狂言にまとわりついている、やれ小芝居種だ何だと言った、所詮はマイナー視しようとする通念から自由な感覚からこの作を読み直している。いうなら、猿翁が諸々の復活物を作ったのと同じスタンスで『女團七』を甦らせたのだ。それには、ここに竹三郎という存在がある。竹三郎の会に自ら望んで客演し、ノウハウをつぶさに学んだ。それを、奮闘公演の一演目として、「三代猿之助四十八選」の作と対等に並べて見せた、というわけだ。面白かった。團七縞の衣裳を着て、小体にきりきりしゃんと、小股の切れ上がった立ち姿が実にいい。あの立ち姿に、この役、この狂言の生命が凝縮している。 『四天王』その他については、来月発売の『演劇界』新年号を見ていただきたいと思うが、ひとつだけ、発売前にリークするのを許していただくなら、『四天王』に七織姫の役で客演している尾上右近が実に素晴らしい。大詰の大立回りで、着込みを着た男装での獅子奮迅ぶりから立ちのぼってくるオーラには目を瞠る。右近は、子供の頃は踊りに天才的な卓抜さを見せたり、中供になってからは『高野聖』の阿呆の役で木曽節を唄って唖然とさせたり、凡ならぬところはいろいろ見せては来たが、いよいよ大人の役者になってからはこれという役、これという機会に恵まれないままでいた。ともあれ今すぐにも、『宮島のだんまり』と『八犬伝』の犬坂毛野を右近にさせてみたい。(それにしても、七織姫に右近の出演を求めたのは猿之助自身なのだろうか。そうだとすれば、プロデューサーとしての猿之助の眼力と見識というものは、端倪すべからざるものと言わねばなるまい。)           * 国立劇場の『先代萩』については、新聞に書いたことで要点はほぼ尽きている。「対決」が面白かったのが、予期せぬ拾い物であった。梅玉の勝元がいいのと(あの梅玉独特の物言いも、いまや「梅玉調」として認められてしかるべきではなかろうか)、橋之助の仁木が、その明快な役者ぶりの良さが生きるのが、主たる理由であろう。           * もう一つ、先月から引き続いての十七世・十八世、二代の勘三郎の追善が新橋演舞場で行なわれている。思えば、八重子・久里子両人によって、新派は歌舞伎といよいよ固く結ばれていることが、この追善興行によって改めて思われる。所も懐かしの新橋演舞場である。現在の建物が出来た頃もなお、新派の毎月の公演はここで行われていたのだ。(だからと言って、今更もう、無理に演舞場にこだわらない方がいい。それにしても、三越劇場でもときに空席の気になる当今の新派が、今度は見事に新橋演舞場を一杯にしているのを、どう考えればいいのだろう?) 期待と危惧の入り混じった『京舞』だったが、さすがに当代八重子も役者である。見事なものだった。思えば、十七世が念願を果たそうとして病いに倒れ、代りに初役で見事に演じたという因縁の『京舞』である。これぞ追善の名にふさわしい。久里子の片山愛子は、おそらく当の四世八千代さん以上にその人らしいのではあるまいか。波乃久里子一代の当り役といって差支えない。勘九郎の博通も、円山公園の場の三高生の制服制帽姿がサマになっていたのは偉い。(これは来花柳武始が七〇歳で見事に三高生になったという先達がある以上、こうでなくては落第なのだ。) それにしても、こういうものをさせると新派の役者たちというのは、改めて大したものだと思わないわけに行かない。松本佐多の伊藤みどりをはじめとする女優達はみごとに祇園の、京都の女になっているし、「手打ち」の場その他何度か出る舞妓たちも、ちゃんと祇園の舞妓になっている。こういうことが可能なのは、新派以外にはあり得ない。祇園の取締役の柳田豊が、モーニング姿での立居振舞だけで、いかにもあの時代、あの世界の人物である。これらはみな、ただそれらしい扮装をし、衣裳を着ただけでは如何ともし難いことである。ここにはまさしく、プロの役者がいる。 本来一本立てでするように書かれた芝居だから、今度のように二本立てだと、少しカットしなければならないのが、やむを得ないことだが惜しい。青柳喜伊子のやっている第一幕の大正八年円山公園の茶店のおばさんが、第三幕の昭和三三年のたつみ橋に出てきたり、さりげない小場面の一々が、捨てがたいのだが。 勘九郎と七之助による『鶴八鶴次郎』もなかなかのものだった。二人とも、とりわけ七之助が、こういう芝居、こういう役をこれだけやれるとは、立派に大人の役者になったのだとつくづく思わせられる。さらさらと書いあるから何でもないようだが、鶴八と鶴次郎の他愛ない喧嘩を、未熟な役者が本当に他愛なくやってしまったら、芝居にも何もなりはしない。まさしくこれは、大人の芝居なのだ。それにしても、北条秀司にせよ川口松太郎にせよ、今度の二作品を見ただけでも、こういう作者がいて、こういう芝居があったのだと、つくづく思わないわけには行かない。          * 新国立の「二人芝居、vol.2」の『ご臨終』が、vol.1の『ブレス・オブ・ライフ』が思わせぶりばかりでつまらなかったので(但し舞台装置はよかった。ああいう書斎のある家に住みたいと思うようだった)、あまり期待しなかったのだが、なかなか悪くない。とくに凡でなく、且つ奇を衒わないノゾエ征爾の演出の、とりわけ音楽の使い方が絶妙であった。あの演出がなかったら、それほどに思わなかったかもしれない。

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