随談第542回 あれこれ

連句では春夏秋冬の句に、季語のない無季の句を織り交ぜて数人から成る座で連ねてゆくが、今回はさしずめその無季、つまり「雑(ぞう)」の句に当る。「ざつ」と読まずに「ぞう」と読むところに妙味がある。料理でも「雑煮」とか「雑炊」とか、なかなか乙な命名だが、そういえばアンケートで、支持政党なし、などといって政権与党を上回る最大多数だったりするのも「雑」の部類かも知れない。

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三津五郎の場合のような「今」が切り裂かれるような死もあれば、その死によって、茫漠とした中から鮮やかな「過去」を蘇らせるような「生」もある。

新聞の訃報欄で、あゝ、この人まだ生きてたんだ、という名前を見つけるのは、面白いと言っては失礼だが、その人の活躍していた、時代だの、その世界のことだの、つまり小なりといえどもひとつの歴史が蘇ってくるのが、何とも言えずやっぱり、面白い。

1月の末、ほんの10行余りの小さな記事だったが、吉野トヨ子さんの死亡記事が載った。こう言って、あゝ、とすぐに分かる人は、いまもう、どのぐらいいるだろう? ヘルシンキのオリンピックの女子円盤投げで4位に入賞した人である。何だ、メダリストじゃないのか、と思うかもしれないが、この4位入賞というのは、そこらの今どきの金メダルよりはるかに値打ちがあったことは間違いない。

昨秋、例の『マッサン』の中で歌われる、夕空晴れて秋風吹きという『故郷の空』の歌のことを書いた折にも触れたことがあったが、ヘルシンキの大会というのは、戦中戦後、返上したり出場を認められなかったりで、ナチスドイツ時代のベルリン大会以来16年ぶりに日本が参加した大会だが、小学生だった私にとっては初めて知るオリンピックであり、それから12年後の東京大会などよりはるかに懐かしい。ラジオのザーザーいう雑音の向こうから実況放送するアナウンサーの声が聞えてくるという頼りなさだが、そのザーザーいうのは海の波の音だとまことしやかに言われていた。たしかに、ザーッザーッと、ある周期をもって聞こえるのが波濤のように聞えた。その波濤を越えて地球の裏側から届いてくるアナウンサーの声は、既にそれだけである種の感動を与えるものだった。

この大会の日本選手の戦績は、いかにも、戦後まだ7年というこの時点では、まあ仕方がないか、と小学生でも思うようなものだった。〇〇選手は日本新記録を出しましたが惜しくも予選失格、などというのはいい方で、多くは緊張のあまり普段の成績すら出せなかったのではあるまいか。全種目で日本の金メダルは一個、陸上競技ではメダリストはなし、この吉野選手の4位入賞というのが最高の成績だったのである。もう一人、沢田文吉選手という棒高跳びの選手が6位だったかに入賞したのがすべてで、二人とも戦前派のベテランだったので、やっぱり精神力がアプレゲールの選手とは違う、などという声も聞こえた。たしかに、この二人は自分の持てる力を、孤立無援の異国の空でちゃんと発揮したのだった。(楽しんできます、などというイマドキの若い選手のコメントを聞くと、これこそまさに隔世の感と思わざるを得ない。)94歳という没年齢からするとヘルシンキ大会の1952年の時は31歳だったことになるが、小学生の私にはもっとおばさんに見えた。若い頃は短距離の選手だったことは今度の死亡記事で知った。

まったくの偶然だが、それから数日後、イギリス映画『炎のランナー』がBSで放送された。いうまでもなく1924年のパリ大会の時の二人のイギリス代表の陸上選手の話だが、その中で、スタートの時に選手各人が、シャベルともなんともつかない金属製の器具で土を掘ってスタートの足の位置を決める場面がある。小学生の時に見たニュース映画で、100㍍の選手がシャベルで土を掘っていたのを思い出したが、記憶では砂場遊びをするときのような普通のシャベルだったような気がする。いずれにしても、いまのようなスターティング・ブロックなどというもはなかったわけで、トラックもただの土だし、一度今の選手にこういうやり方で競技をさせてみたらどういう記録が出るか、きっと面白いだろう。新記録だの何だのと言ったって、かつてと今とでは、条件が基本的なところでまるで違うのだ。

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スターティング・ブロックもそうだが、いま当り前のように「そこにある」器具だの道具だのが、うっかりすると、つい昔から当然のように使われていたように思い込むという例は、テレビドラマでもしばしば見かける。

今度の朝ドラの『マッサン』にしても、ああした「近過去」の時代を扱うときに、年配の者から見ればエーッと思うようなことが平然と行われているのに出くわす。前に『花子とアン』の時にも書いたが、一番気になるのが遠距離の電話で、大正だの昭和初年だのに、東京と九州、大阪と北海道の間で、それも卓上電話ですらすらと長電話をしているのなど、考証がどうのという以前に、ドラマとしての真実味、更には劇的効果という上から言っても、他人事ながら惜しいと気持になる。たしかに東京と大阪・京都間の電話は明治30年代には開通しているようだが、いまのように誰でもが気安く電話を掛けていたわけではない。

昭和初年、大阪と、北海道のそれも余市くんだりと、あんなに簡単に電話が通じたとは思われない。電話の交換手という職業は、戦後も昭和30年代、高度成長が始まる前までは、女性の仕事の中でも代表的なもののひとつで、遠距離どころか、市外でさえ、彼女たちの手を通さなければ電話を通じることは不可能だった。(正月明けの仕事始めの日の夕刊といえば、日本髪に和服姿の交換手諸嬢が交換台に坐って仕事始めをする写真を載せるのが恒例になっていたものだ。当時の電話交換手の女性を主人公にした朝ドラが作られて然るべきである。)

しばらく前の『マッサン』でサントリーならぬ亀井の大将の息子が死んだという知らせが大阪から直通とおぼしき電話で届く場面があったが、あれなどは、当時なら当然、電話でなく電報であったろう。子供の頃よく聞いたラジオドラマでは、夜、寝ているところへ、配達夫がドンドンと扉を叩いて「電報、電報」とか「○○さん、電報ですよ」と叫ぶような場面が、ただならぬ知らせをもたらす劇的効果としてよくあったものだ。「ウナ電」と呼ばれた至急便は夜間でも配達してくれたからだが、夜更けに電報配達夫の声に起されてドキリとしたり、胸騒ぎを覚える劇的効果というものは電話などの比ではない。電話にしても、交換手が介在するもどかしさが劇的効果を一倍増すのだ。電話機も、卓上電話などでなく、壁掛け式の方が戦後もしばらくまでなら普通だったことは前に書いた。

こうしたことは、脚本家でも演出家でも、小津だの黒澤だのに限らず当時の映画をちょっと気を付けて見ればすぐにわかりそうなものだが、知らぬが仏よろしく平気でやっているのは解せない。戦前に新幹線やジェット機で北海道と関西を行き来したらおかしいのと同じことである筈だ。

徳川将軍が夜な夜な千代田の城から抜け出して居酒屋へ出没するようなドラマなら別だが、なかなか細部にも凝ったドラマ作りをしているように見受けるだけに引っ掛かるわけだ。(戦時中の戦況を伝えるニュースをラジオで聞く場面で、放送博物館から借り出したとおぼしきクラシックなラジオが出てくるのは、時代色を出すために凝ったつもりだろうが、当時にあってはそれが現役のラジオだったのだから、骨董品みたいに古びているのはおかしいわけだが、まあこれはご愛嬌の内か。若い娘が、ヤッター、などと叫んで喜ぶのも、そもそもそんな日本語は当時なかったのだが、まあご愛嬌の内と目をつむろう。)

「芝居の嘘」と「間違い」は違う、とは十三代目仁左衛門の言葉だが、『マッサン』で出征前夜、一同で『蛍の光』を原語の「オールド・ラング・ザイン」を歌う場面があったが、あれは「芝居の嘘」であって、いくら仮名書きの歌詞を見せられたって工員や町の人たちがすぐ歌えるわけがない、などと言い出すのは理屈というものだろう。しかし昭和の初期に大阪から北海道へダイヤルひとつで電話がかかるのはそれとは違う。

ついでに細かいことを言うと、カレンダーに「ドウカウィスキー」という社名が左書きに書いてあったが、あれも当時なら右書きにすべきである。くさしてばかりでは気の毒だからひとつ褒めると、障子の桟が縦長の短冊形で、雪見のガラスが嵌まっていたのはよかった。東京あたりでもあれが当時一番普通に見る障子の桟で、わが家の茶の間もそうだったが、近頃とんと見かけなくなった。

もう一つ、これは別の問題だが、『マッサン』に限らないことだが、配役の表記に、ドラマの中で役名が出てこないような比較的小さな役に、木村花子とか吉田太郎とか、何の説明もなく役名が書いてあることが多いが、あれではその役名の人物がどの役で、何という俳優がやっているのか、(たまたまその俳優を知っていなければ)わかりようがない。「床屋」とか「特高刑事」とか「賄いの小母さん」とか書いてくれればすぐにわかる筈だが、どういうものだろう?

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途中まで書きかけて中断している間に、三津五郎の訃報が入ったり、「今月の舞台から」を先に書かねばならなかったりで、後回しにしている内に大分旧聞になってしまったが、吉野トヨ子さんの訃報から大分日が経ってから、荒井恵子さんの死亡記事が目に止まった。よく読むと既に5年ほど前に亡くなっていたようだが、たぶんNHKの放送開始100年の特集番組か何かのためだろう、出演依頼の連絡を取ろうとしたことから判明したのであるらしい。すでに歌手活動をしていなかったからという。しかし戦後の昭和20年代、国中がNHKのラジオ放送を聞いていた時代、この人の歌声を耳にしなかった日本人はいなかった筈だ。若い世代の間では大人気でも、ある年代以上にはさっぱり、などということがあり得なかった時代である。

NHKの「のど自慢」という番組自体が、いまとはまるで違って一種の社会的な存在だった時代、年に一度の全国大会で優勝してプロ歌手になったというだけで、その知名度は、現代の観念で考えては計り知れないだろう。ともあれ荒井恵子さんはその第一号だった人で、大分のちになってから、同じコースを辿って有名スターになったのが、コント55号の二郎さんということになる。

坂上二郎氏もクラシック部門の合格者だったが、荒井さんも同じく、歌手としても癖のない(なさすぎる?)音楽の先生みたいなあくまでオーソドックスな歌唱のソプラノで、「ラジオ歌謡」といって、NHKが健全な歌謡曲を国民に広めようという趣旨で毎週一曲の割りで発表していた番組などが、一番の活動拠点であったと思う。記事の見出しに「童謡『森の水車』の荒井恵子さん」とあったが、正確に言えば、だから『森の水車』はラジオ歌謡というれっきとした大人のための歌謡であって、童謡とは違う。(あるいは「日曜娯楽版」という当時評判の人気番組の中で月替わりで新作していた中の一曲だったかもしれないが、ともあれ童謡ではない。)

「童謡」というのは戦時中の川田正子などを始まりに当時ひとつのジャンルとなっていて、小学生ぐらいの年齢の少女歌手が「童謡歌手」と呼ばれていた。いまも活躍している由紀さおりはその生残りで、当時彼女はまだ小学校に入る前だったはずである。一方に美空ひばりのような少女の「流行歌手」がいて、同年代からもう少し幼い世代へかけて「童謡歌手」と呼ばれた少女たちがいたわけだが、荒井恵子さんはそのどちらとも違い、世代ももう少し上の、しかし昭和20年代という時代を紛れもなく象徴する存在だったのである。

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桂米朝が死んで既に多くのことが言われているが、ひとつ思うのは、この人からが昭和生まれの噺家だということである。(東京の落語家で同年輩というと先代の金原亭馬生ということになる。)もうひとつ、この人は上方落語の再生・復興という命題を背負っていたから、演者であると同時に常に批評家というか、客観的に見ている現代風「離見の見」とでもいうべきものを内在させていて、それが独特の知的な味わいとなっていた。だから、というべきか、生粋の関西人の知人に言わせると、米朝の大阪弁は東京の人間にも親しめるように按配した大阪弁で、自分たちにはむしろ春団治などの方が本当の大阪の言葉だと思う、と聞かされたことがある。そうであるのかもしれない。

私がこの人の高座に接するようになったのは昭和40年代、当時盛んだったホール落語に「上方から仲間入りさせてもらいます」といった前フリをして語り出すのに、ちょいちょい出会うようになったのが始まりだったが、東京の大方の落語好きは大概そんなところだろう。まだ40代で髪もつやつやしていたから、芸は既に一級品だったが、現在皆が知っているあの味わいは、だんだん年齢が行くに従って滋味を深めて行く内に出来上がって行ったものだった。話のスケールの大きいことでは圓生と並ぶ人だったと思う。

大阪だの東京だのという距てを越えた名人であり、明治生まれの大家たちがいなくなった後、最も古典の格調と滋味を感じさせた人だったが、それと別に、上方ならではの話を聞かせてくれる楽しみがあったことは事実で、私の場合、一番貴重な体験だったのは、桂文楽十八番でのみ知っていた『景清』を米朝で聞いたことだった。まるで同じ話とは思われない。つまり文楽はエッセンスだけに切り詰めていたので、そもそも何故『景清』という題なのか、たまたま落語好きが機縁で親しくなったさるラテン語の大家という人から訊かれてウームと詰まってしまったことがあったが、その謎が解けたのも米朝の『景清』を聞いたお蔭だった。

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渋谷の東急プラザが閉鎖するというので話題となっているが、昭和40年の開場当時というのは、私にとっても渋谷は一番よく行く繁華街であった時期だったから、そうと聞けばそれなりの感慨もないではない。3階の紀伊国屋書店、8階の食堂街のお好み焼き屋やロシア料理店が当然のようにテレビでもネタになっているが、当時ロゴスキーに行くと、ルパシカのようなお仕着せを着て店内の清掃をしている年寄りがいたが、あの人は元陸軍少将なのだそうだと、さる先輩が教えてくれたりした。真偽のほどは元より知らないが、終戦から20年余、そういうことがあってもまだおかしくない時代だったのだ。

東横百貨店に西館が出来、東横ホールが作られて東横歌舞伎が始まったのが中学生のときだが、その西館の出来る前、デパートと隣りのビルの間にロープウェイが行き来していた時代があり、その更に前、がらんとした焼け跡の青山通りを母親に連れられて、ハチ公前から乗ったバスで通った記憶というのが、渋谷についての私の原風景ということになる。(青山にあった何とかいう病院へ行くためと称していたが、今思うと、ついでに渋谷で映画を見て帰るのが目的であったらしい。お蔭で私は未就学児であったころから洋画邦画を問わずお相伴し、いまだにその断片を網膜に焼き付けている。後になって古い映画を見ながら、ア、これだったのか、と感嘆久しくすることも何度かあった。)

しかし自前で出向くようになった渋谷の街も、やがて東横歌舞伎が終り、東横落語会が終り、その間に出来たNHKホールへ通うコンサート・ゴーアーとしての習慣もいつしか止み、ハチ公のところから斜めに渡った歓楽街(一度、あの通りで萬屋錦之介とすれ違ったことがあったっけ)にあった安いふぐ鍋屋が、次第にふぐより白菜ばかりになってしまって、ふぐを食べに行くこともなくなった。私にとっての渋谷の街は昭和の内に終ったといえる。近年は、渋谷というのは必要がなければなるべく足を向けない土地になってしまった。コクーンだパルコだ観世の能楽堂だ、縁が切れてしまったわけではないが、親近感というものは、当時とは比較にならない街と化して久しい。

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照ノ富士の強さが白鵬の優勝を蔽ってしまう形で春場所が終わった。何と言っても13日目の白鵬戦と千秋楽の豪栄道戦が白眉で、相撲の醍醐味を久々に味わった感がある。優勝した白鵬は金持喧嘩せずを決め込むかのようだが、あれだけの力相撲を取って完敗したというのは朝青龍と鎬を削っていた頃以来と言っていい。把瑠都と琴欧州が引退し、真っ向から白鵬に勝てるのは稀勢の里ぐらいなものだったが、世代の違う新勢力という意味で、照ノ富士に負けた一番のような脅威を感じることはなかっただろう。白鵬が連戦連勝を続けてきたのは、相撲の取り口のレベルが抜群に高いからで、力が抜群だったわけではないと私は見ている。かつての双葉山はどの相手よりも常に紙一重ずつまさっていたから誰にも負けなかったのだという話があるが、それと似たところもある。

照ノ富士は話題性の上で逸ノ城の陰に隠れていたが、あちらはまだ「怪物」という未知数の域から抜けていないが、こちらは既に立派な強豪力士として本道を歩み出していることを証明した。怪物というのは、人間以上でもあり人間未満でもある存在なわけで、高校球児に次々と「怪物クン」が現われるのは高校生という「大人未満」の存在だからで、プロ選手になってからもいつまでも怪物と呼ばれるような名選手・大選手はいない。

照ノ富士が豪栄道を極め倒した一番の強さは、豪栄道のショックが思い遣られるほどだが、実は初場所二日目に見に行った時もこの両者の対戦があって、今場所とほぼ同じ経過を辿って同じように極め倒したのだった。初場所の時は,底の知れぬ力を持った大物(つまり怪物)と思ったが、今場所を見ると、既に豪栄道を上回る力をもつ強豪という印象に変っている。大鵬は入幕した年の内に大関になり、二年目の秋には横綱になったが、記録がどうのという意味ではなく、その再現をやってのけかねない。

照ノ富士の「富士」は師匠の旭富士の「富士」だが、「照」は伊勢ヶ浜部屋ゆかりの横綱照国の「照」であろう。照国は戦中から戦後にかけての名横綱で、綺麗なアンコ形で桃色の音楽と呼ばれた相撲巧者だったから、照ノ富士はタイプから言うと対照的で、むしろ照国と同時代で、共に終戦直後の相撲界が最も困難だった時代を支えた、剛力無双で金剛力士の如しと言われた羽黒山の再来のような印象を受ける。

伊勢ケ浜部屋は大正時代の名関脇で名人といわれた清瀬川(戦後私の見始めた当時は協会の理事自らが検査長として土俵下に坐ったが、端然とした晩年の姿・風貌を実際に見覚えている)以来、数多くの相撲巧者を輩出してきた部屋で、その伝統は今の安美錦にまで続いているわけだが(安美錦はいかにも伊勢ケ浜の力士らしい)、他部屋から移籍してきた照ノ富士は、伊勢ケ浜の色に染まることによって単なる「怪物」から脱皮出来たのだともいえる。今場所中に聞こえてきた安美錦と兄弟弟子としてのエピソードにしても、部屋の空気をよく伝えている。負傷による途中休場がなければ、今場所は安美錦の技能賞は間違いなかったであろうから、伊勢ケ浜部屋で三賞を独占するところだったろうが、惜しいことをした。

以前はそれぞれの部屋によって取り口や力士たちの雰囲気まで、色合いが違っていものだが、それが鮮明でなくなったのも相撲の面白味を失わせている一因となっている中で、伊勢ケ浜部屋は部屋のカラーを明確に持っているように見えるのが好もしい

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