随談第546回 私家版・BC級映画名鑑-名画になりそこねた名画たち-第2回 映画の中のプロ野球その2「川上哲治物語背番号16・不滅の熱球」(日活・滝澤英輔監督・昭和32年1月1日封切)

(その1)

この前『一刀斎は背番号6』のことを書いたが、あの映画が封切られた昭和34年5月といえば、前年の日本シリーズで西鉄は巨人と対戦、3連敗から熱狂したファンが「神様仏様稲尾様」と叫ぶ中稲尾が連投して奇跡の逆転優勝、西鉄が三連覇を達成した翌シーズンということになる。

プロ野球が大相撲と共にプロスポーツの人気を二分した頃で(大相撲はちょうど栃若時代の最後の一年を迎えようとしていた時期に当る)、長嶋茂雄、杉浦忠を擁した立教の五連覇とか、その3年後の早慶六連戦とか、六大学野球もまだ高い人気を維持していたが、トータルに見れば既にプロ野球の優位は明らかだった。駒沢球場を本拠地にしていた東映フライヤーズが、駒沢が東京オリンピックの会場として使われることになったために明け渡し、大学野球のメッカだった神宮球場でプロ野球の公式戦が行われるようになるというので、神聖な神宮球場でプロの試合をするとはと議論が起ったのはその二年後のことである。(球場建設工事当時、当時の選手たちもモッコを担いで作った学生野球のための球場であるということが言われていた。フェンスに広告を入れることの是非も、真面目な議論の対象になった。当時の神宮球場のフェンスはグリーン一色の無地だった。方々の球場で私立大学の広告を見かける昨今からは夢のようである。)玉突き式にはみ出すことになった東都大学リーグのために、球場と隣接していた相撲場を廃止してその跡地に第二球場が出来たり(終戦後、進駐軍に旧両国国技館を接収された大相撲が、一時期、その神宮相撲場で本場所を開催したのを小学校1年生だった私は見に行っている。屋根のない、晴天興行だった)、大毎オリオンズが三ノ輪に東京スタジアムを作ったりした。昭和30年代半ばのあのころが、時代の大きな潮目だったことが分る。

テレビがまだ普及途上にあったそうした昭和30年代初頭、現役の選手や力士が自伝的な映画に出演して自らを演じるという映画が幾つも作られている。『川上哲治物語・背番号16』『若乃花物語・土俵の鬼』は、打撃の神様と言われた川上は前年、生涯2000本安打という日本野球初の偉業を達成、若乃花は横綱を目前にした30年秋場所中、幼い長男を煮立ったちゃんこの大鍋を全身にかぶるという不慮の事故で失う悲劇に会いながら土俵に立ち続け、憑かれたように連戦連勝、優勝を目前に病に倒れ「土俵の鬼」と異名を取るという、共に偉業を契機に制作された。こうした映画が当時果していた役割は、いまならドキュメンタリー番組として作るなり、感動のドラマとして作るなり、いずれにしてもテレビが担ったであろう。『土俵の鬼』が31年12月26日、『背番号16』が明けて32年元日に封切られたが、当時の各社の慣行として、正月映画の第一週は年末に封切り、元日または2日に第二週の作品を封切るのが恒例だった。(この当時、正月と七月のお盆の時期にドル箱スターやオールスターの作品を各社が競って並べるのが慣例だった。)

『土俵の鬼』は森永健次郎監督、『背番号16』は滝澤英輔監督だが、この二作は双生児のように似通った作りで、修行時代をそれぞれ青山恭二、牧真介という若手スターにさせ、後半生は本人が出演して自らを演じるという形をとっている。川上は新珠三千代、若乃花は北原三枝というスター女優が女房の役をつとめているのも目を引かれる。実は同じ日活でこれより先の31年5月、戦前派の古豪で大関に二度昇進して二度陥落、平幕に落ちてなお40歳にして敢闘賞を受賞した老雄名寄岩の『名寄岩物語・涙の敢闘賞』(小杉勇監督、新国劇の舞台でも上演したが、脚本は舞台映画どちらも、小説に転じる以前の池波正太郎である)が先蹤としてあるのだが、この後も、当時アイドル的な人気のあった(つまり、いまの遠藤的存在だった)新鋭力士房錦の『土俵物語・褐色の弾丸』(肌が浅黒く立会い一気の突進が武器だったのでこの異名があった)が本人が主演して作られている。

『力道山物語・怒涛の男』というのもあった。自ら髷を切って相撲界に絶縁し日本最初のプロレスラーになるまでという筋書きは、自ずから内幕もののような様相も帯びることになる。(こういう時、坂東好太郎とか澤村国太郎といった歌舞伎出身の時代劇俳優が立居振舞いや態度物腰など、親方の役などをつとめるのに格好の人材となった。)いわゆる栃若時代のさ中にあった大相撲の人気は、当時日活系の封切館では、本場所ごとに、『大相撲秋場所の熱戦』といったタイトルで、その場所のハイライトを(たしか1時間程度の上映時間だったろうか)映画と併映していたことでもわかるだろう。

さて、前置きが長くなったが、こうした時代ならではの野球映画の典型として『川上哲治物語・背番号16』を取り上げることにしよう。

(その2)

ところで『川上哲治物語・背番号16』だが、監督の滝澤英輔といえば、戦前、山中貞雄を中心とした脚本家集団鳴滝組の一人として知られ、前進座の『戦国群盗伝』など硬派の問題作をいろいろ撮った名監督列伝中のひとりだが、昭和29年に日活が映画制作を再開すると、島田正吾や辰巳柳太郎等新国劇の出演で、坂本龍馬暗殺者の謎を追った『六人の暗殺者』(これは私の中学時代、いっぱしの映画通を以て任じる友人がしきりに吹聴していたのを思い出す)や、新国劇の忠治役者辰巳柳太郎が十八番の極め付とは別の脚本でみじめな非英雄として描いた『国定忠治』など、東映などの戦後流の時代劇とは一線を画した戦前派らしい硬派の作品を撮っていた。後には裕次郎映画を撮ることになるが、その硬派ぶりはこの『川上哲治物語』にも生きていて、野球道の求道者としての川上の面影をケレン味なく伝えている。実はつい二月前の前年11月に封切られた松竹映画『あなた買います』は、その頃熾烈を極め社会問題ともなっていたプロ球界の新人獲得をめぐるスカウト合戦を描いたもので、野球場面も出ては来るが、むしろ現ナマの飛び交う裏面を描いた作品でいうならプロ野球界の負の要素を訴えた話題作だった。小林正樹監督が社会一般に注目される契機ともなった作品で。タイトルの「あなた買います」は今なら流行語大賞確実だったろう。『川上哲治物語』はそういう時世の中で作られたのであって、決してのどかな昔の作品だったわけではない。

正月映画だが雰囲気としては、その頃よく作られた教育映画の感覚に近いようでもある。川上の故郷の熊本、人吉などの風景もよく捕え、チャチな子供目当て(当時の用語でジャリ向け)という感じはない。川上自身の出演場面(セリフも多少ある)のほとんどは、戦後のラビットボール(つまりよく飛ぶボールである)使用の生み出したホームラン量産時代に「弾丸ライナー」を身上とする川上は乗り遅れ、長期の不振にあえぐ中で黙々とバットの素振りに打ち込む、それを妻役の新珠三千代がはらはらしながら見守る、というもので、やがて球界最初の二千本安打を達成の場面が大団円となる。(昭和23年に共に25本で青田と本塁打王を分け合ったのを最後に、翌年は藤村富美男が46本、翌々年は小鶴誠が51本と、飛躍的にホームランが量産される中、ホームランを打てない四番打者になってしまった川上をじれったい思いで見ていた記憶は、いまもまざまざと思い出すことが出来る。)

川上が出演するのは戦後以降の場面だが、映画としては、不甲斐ない父親のために家が没落して進学を一旦はあきらめた小学生時代から、野球の才能を見込まれて熊本工業へ進み、巨人軍に投手として入団したが芽が出ず、打者に転向するという新人時代の前半の方が面白い。小学生時代は子役がつとめ、熊本工業の生徒から巨人の新人になる若き日の哲治青年を牧真介が演じ、生真面目で固い感じが若き日の川上らしい感じをよく出している。(川島雄三監督の傑作として知られる『須崎パラダイス赤信号』でも印象に残る好俳優だった。)

熊工時代からの親友の名捕手吉原を若き日の宍戸錠(まだ豊頬手術など施していないいかにも純粋な青年らしかった頃の、何とも懐かしい細面の顔で出てくる)、哲治少年の野球の才能を見出した小学校の恩師を葉山良二(リーゼントスタイルの二枚目でメロドラマで鳴らした俳優だが、ここではなかなか良き先生ぶりを見せる)、藤本定義監督が二本柳寛(ソフトをかぶったダンディぶりがそれらしい)、熊本工業の監督を植村謙二郎、両親を河野秋武と高野由美等々、やや地味だが適役を揃えている。河野秋武といえば、黒澤明の『わが青春に悔なし』とか今井正の『また逢う日まで』といった作品で体制派のいかにも嫌な奴をリアリスティックに演じて知られた性格俳優だが(元は山崎進蔵という芸名で前進座の出身である)、父親として子煩悩、一家の主人として名家を没落させてしまった駄目親父を演じて、映画に陰影をつけている。(川上の実父というのは本当にああいう人だったのだろうか。)高野由美は民芸の新劇女優だが、かつて六代目菊五郎の作った俳優学校の出身である。

しかし何と言っても印象的なのは、何度も写される往年の後楽園球場のたたずまいである。グラウンドも狭く、いろいろ難点はあったものの、日本のプロ野球の球場としてあれほど雰囲気のあった球場はなかった。その後楽園球場のスコアボードの一番8与那嶺、二番9坂崎、三番7宮本、四番3川上、五番5岩本、六番2藤尾、七番4内藤という、二千本安打達成の時の巨人のラインアップが何度も画面に映し出される。(八番の遊撃手の名前は写されないが多分広岡だろうか。)5番打者でサードの岩本は広岡より一年先に早稲田から入った岩本尭だが、この人は本来外野手として入団したがサードにコンバートされたもので、巨人の三塁手というのは長嶋が入団するまで、1リーグ時代の山川喜作、戦前派の慶應の名内野手だが肩の故障で最晩年に短期間、復活した宇野光雄、ハワイ出身の柏枝、宮本、それからこの岩本など、なかなか定まらないポジションだったのだ。数年前までの第二次黄金期の千葉、青田、宇野、南村といった名前は既になく、一方この映画が封切られた時、長嶋茂雄はまだ立教大学の3年生だった。二年後に巨人の4番打者の地位を長嶋に譲る前の、まだ川上が球界最大のスターであった最後の日々に作られた作品ということになる。この時点での「背番号16」は日本野球界最大のシンボルであり、名前も、川上哲治は「カワカミテツハル」ではなく「カワカミテツジ」だった。(現に、映画の中でもナレーションがはっきりと「テツジ」と言っている。)巨人軍の監督になった途端に「カワカミテツジ」が「カワカミテツハル」になって、俄かに遠く離れた人になってしまった違和感は、後にハリウッドスターのドナルド・リーガンが、大統領になった途端にドナルド・レーガンになってしまったときの変な感じと共通しつつ、遥かに大きい。

ラストシーンの二千本安打達成の折の画像はその時のニュース映画のものと思われるが、スタンドで観戦中の中沢不二雄パ・リーグ会長、力道山、一万田尚人日銀総裁等のショットが写る。

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