国立劇場がさよなら公演を終了し、閉場式を終えた。その開場から閉場迄を見た劇場を目の当たりにしたのは、また観客としての関りの深さを思いながらその終焉を見送るのは、これが初めてである。仕事柄いろいろなものの本などによって得た知識からすると、ひとつの劇場の「生涯」というものは、実はさほど長いものではないようだ。国立劇場の57年という「生涯」は、それからすると必ずしも短いわけではない。だが終わってみると思いのほかに感慨が沸いてくるのは、歌舞伎座とはまた違った様々な記憶の故であろう。漠然と思っていたよりはるかに多くの、また豊かな記憶を、この劇場に負っていたことを実感しないわけには行かない。
実は歌舞伎公演に限っても、全公演を残らず見たわけではない。当初の何回かを、見たり見なかったりしているのは、こちらの歌舞伎への向かい方が定まっていなかったからで、それは同じ時期の歌舞伎座についても同じことである。何故あれを見ておかなかったのか、と考え出せば切りがないことになる。歌舞伎への思いが定まっていなかったというのは、取りも直さず、自分の生き方への考えが定まっていなかったというのと同義である以上、これは悔やんでみても仕様のないことと思い諦めるしかないのである。実際に見たことだけがすべてなのだ。
思い出の舞台の人ひとつを書き出してみたいと思う気持ちも、こうしていても沸々としてくるが、残念ながら、今それをしている余裕がない。しかしそう書きながら、頭の中に、また瞼の裏に、生ける画像として甦ってこようとしているあの舞台この舞台のほとんどが、劇場で言えば開場後何年かの間、当初何年かの間に見た、出演の役者たちで言えば、ふた世代三世代前の諸優たちによるそれであるのは、「記憶」と「思い出」の微妙な違いによるものである以上致し方あるまい。例えば・・・と切り出すと切りがなくなるから、やめておこう。
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池央耿氏が亡くなった。文春文庫がそれまでの間口を広げて海外サスペンス・シリーズを始めた時に、当初の何点かの翻訳者の一人として面識を得たのがはじまりだから、こちらもざっと半世紀に近いお付き合いということになる。かく言う私も当時は翻訳で収入の何パーセント分かを得て糊口をしのいでいたからだったが、池氏はそのころすでに錚々たる翻訳家として名が通っていた。以後毎年、年に一度、当時このシリーズに関わった面々で夏至の頃に飲み会を開くのを恒例にしてきたが、一人減り二人減りするうちに、ついこの6月の会では出席者4人ということになったばかりだった。遠距離在住のため不参という人を加えてもプラス二名である。同年の生まれだが、大相撲と歌舞伎の知識が殊更の結びの神となったのだったが、歌舞伎の観劇歴はあちらの方が古く、実は『東横歌舞伎の時代』を書いた動機も氏の催促の形を取った助言がきっかけだった。
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犬塚弘氏の死で、テレビでは各界の同世代という人達が思い出と時代との関連を語っているが、それを言うなら、私としては、朝ドラで始まった笠置シヅ子の方が、彼女の全盛期がこちらの目覚めの時期と重なってなかなか懐かしい。(もっともまだ、ドラマはその時代まで進んでいないが。)「エノケン笠置の」という序言葉の付いた『お染久松』なる映画を見たのが小学校三年の正月。たまたま額の裏から出てきた古新聞の広告欄に、この映画の広告と並んで載っている東劇の広告に「十七代目勘三郎襲名興行」とあるのを見つけたが、そっちの方はまだ当時の私の耳目には入ってこなかった。だがこの『エノケン笠置のお染久松』は、後に歌舞伎や文楽の『新版歌祭文・野崎村』を見る時にどんなに役に立ったことか。実は映画では、舞台の『野崎村』より前の場面のストーリーの方が多く語られていたのだ。最も記憶鮮明なのは、仲を裂かれて里へ帰る久松(もちろんエノケンの役である)へお染(もちろん笠置の役である)が思いを訴えるシーンにショパンの「別れの曲」が流れる。「野崎村」でお光が頭巾を取って尼になった姿を見せると、何とクリクリの坊主頭で、当時の大流行歌「こんな女に誰がした」が流れる、といった具合。(お光を演じた高杉妙子なる女優が菊田一夫夫人であったことを知ったのははるか後のことだったが)。坊屋三郎・山茶花究・益田キートンのあきれたボーイズが油屋の番頭の役で出のもよく覚えている。(あいたし小助の件りを実際の舞台で見たのは、国立劇場の通し上演で富十郎がやったときだった!)
「東京ブギウギ」の大ヒットで、「買い物ブギ」だのいろいろな「ブギウギ曲」が作られたなかに、青バットの大下赤バットの川上というプロ野球人気に乗じた「ホームラン・ブギ」というのもよく覚えている。(『エノケンのホームラン王』という映画は、当時の総出演だった。三原監督率いる一リーグ時代最後の年の巨人軍で、偶然だが同年制作の黒澤明監督の『野良犬』と共に、当時の後楽園球場の様子がさまざまなショットによっての残されている。
と、話がそれた。それからかなりの時を経たある時、帝劇(これは再建後の現在の帝劇である)のロビーのベンチに、引退して年を経て老女となった笠置シヅ子と偶然にも坐り合わせたことがあった。もちろん混み合っていたればこその幸運だが、連れの紳士との会話が漏れ聞こえてきた。「辰之助がいいわね」といった意味のことをもう少しニュアンスのある言い方で言っていたのだけが記憶に残っている。もちろん、先代の辰之助、後の三代目松緑のことで、当時東宝にいた初代白鸚一家が帝劇で歌舞伎をすると松緑(もちろん先々代、即ち二代目松緑だ)たちが応援出演をする、そんな折のことであったに違いない。瞬間に、ア、笠置シヅ子だ、と判ったが、現役時代の華々しさは消えて落ち付いた老女の風情だった。
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今回はこれ切りとします。