随談第669回 遥かなる記憶の底で

猿翁追悼の文を1400字ほど朝刊の文化面に書いたが、もうちょっと私ごと風に書いておきたくなった。そもそも「二世猿翁」というネーミングは私にとっては100パーセント建前上の名前で、「彼」は三代目猿之助以外の何ものでもないし、記憶の中のその面影と言えば、団子(三代目である)時代の秀麗な若者の像がまず甦る。

実は、舞台より先に映画だった。高麗屋の兄弟と三人、彼らの名を一躍高からしめた『車引』は見ていない。そうした後先のもろもろを考え合わせると昭和32年だった筈だが、8月のお盆休みに合わせて松竹で『大忠臣蔵』というオールスターの大作映画を作ったことがある。当時の映画界は、正月とお盆にこうしたド派手な話題を惹く作品を各社(6社あった)で競作するのが恒例だった。(正月とお盆にしか休みがない中卒高卒の「勤労青年」が、当時は全人口のかなりのパーセンテージを占めていて、彼らを目当ての「正月映画」「お盆映画」が競作されるついでに、「ジャリ」と称された小・中学生をも「小人」料金でかき集めようというわけだった。高校生ともなると気の利いた連中は「洋画」(と、外国映画のことを言った)を見るようになって、いっぱしの口を利くようになるのが普通だったが、私はまだジャリたちと変わらず「邦画」、それも時代劇を見まくっていた)、この年はそれに先立って「シネマスコープ」と称するべらぼうに横長の大画面が開発され(つまり、急速に普及し始めたテレビへの対応策だったわけだが)た直後だったが、この『大忠臣蔵』は、ふつうのオールスターによる忠臣蔵映画ではなく、松竹専属の映画俳優は元より歌舞伎界からも大勢出演したばかりか、内容も、何と『仮名手本忠臣蔵』を基盤にして物語が展開してゆくという一風変わった趣向だった。だから当然、高田浩吉の勘平に高千穂ひづるのおかる、などいう配役があったりする。一力の場では、舞台の七段目を映画的な立体構造にしたセットが組まれ、大画面で見る「茶屋場」は、舞台ともまた趣が異なり確かに見ものだった。もっとも役名は大星、ではなくやはり大石内蔵助だがこれが猿之助、もちろん二代目、即ち初代猿翁である。おかるは当然高千穂ひづるだが、何と平右衛門役に近衛十四郎が出てくるという按排である。猿之助は映画の大石のイメージとしてはちと年配であることが気になったが、次の「山科閑居」になると、ここばかりは俄然歌舞伎の「九段目」さながらの大舞台、いや格調高い名場面となって、いまもよく覚えている。猿之助の大石に、何と初代水谷八重子がお石、それにわが団子が主税でこれが私にとっての「三代目猿之助」イメージの原点となったという次第。(ようやく話が本題にたどりついた!)爽やかにして利発聡明、映画テレビの「忠臣蔵」の大石主税としてほとんど理想的といってよかったろう。実際、あれにまさる主税役は、その後、映画テレビを通じて見ていない。(ついでに言うと加古川本蔵側は、後の八代目三津五郎、当時の六代目坂東蓑助が本蔵、この人は当時ちょいちょい東映の時代劇に出ていていまひとつ冴えなかったが、さすがにこの本蔵は立派だった。戸無瀬が山田五十鈴、小浪が実の娘の嵯峨三智子という、そのまま舞台に乗せられそうな配役だった。)

その後のことは(テレビで「鞍馬天狗」もやったっけ)現・白鸚の染五郎とライバル視されたりかなり知られているが(当時は、既にミュージカルに出演したり万事華やかで学校も早稲田だし、染五郎の方が積極的で、団子の方が端正な優等生と見られていた)、私はまだ歌舞伎を毎興行欠かさず見るというわけではなかったから、谷崎潤一郎が『瘋癲老人日記』に書いている『河庄』の治兵衛を新宿第一劇場でやったのなどは見ていないが、同じ新宿で祖父と共演した『恩讐の彼方に』はいま思い出しても懐かしい。これが団子時代最後の記憶で、襲名の翌々月、歌舞伎座で十七代目勘三郎と二代目松緑が『弥次喜多』を出したとき、中村扇雀とコンビで偽物の弥次喜多をしたのを、坂東鶴之助の護摩の灰と共によく覚えている。(この二人の後の名前は言うまでもあるまい。大変な顔ぶれでやっていたわけだ。)と、この辺までが二代目猿翁一代のいうなら「先史時代」。こんな調子で書き続けたら果てしもなくなるから、この辺で打ち切りとしよう。実は同じ12月生まれのちょうど一歳違い。(あちらの方がお兄ちゃん。)改めてこうして麓から眺めると、宙乗りだスーパー歌舞伎だと姦しく言うより先に、尽きない思い出のこもごもの方が貴重な気がしないでもない。

        ***

このほかにも、時の流れを感じさせしばし思いに耽った訃報を聞いた。
ヨネヤマママコ 88歳 我が家にテレビが来た頃の様々な情景が甦った。
遠山一 93歳。最後のダークダックスという見出しがついた。

猿翁追悼の文を1400字ほど朝刊の文化面に書いたが、もうちょっと私ごと風に書いておきたくなった。そもそも「二世猿翁」というネーミングは私にとっては100パーセント建前上の名前で、「彼」は三代目猿之助以外の何ものでもないし、記憶の中のその面影と言えば、団子(三代目である)時代の秀麗な若者の像がまず甦る。

実は、舞台より先に映画だった。高麗屋の兄弟と三人、彼らの名を一躍高からしめた『車引』は見ていない。そうした後先のもろもろを考え合わせると昭和32年だった筈だが、8月のお盆休みに合わせて松竹で『大忠臣蔵』というオールスターの大作映画を作ったことがある。当時の映画界は、正月とお盆にこうしたド派手な話題を惹く作品を各社(6社あった)で競作するのが恒例だった。(正月とお盆にしか休みがない中卒高卒の「勤労青年」が、当時は全人口のかなりのパーセンテージを占めていて、彼らを目当ての「正月映画」「お盆映画」が競作されるついでに、「ジャリ」と称された小・中学生をも「小人」料金でかき集めようというわけだった。高校生ともなると気の利いた連中は「洋画」(と、外国映画のことを言った)を見るようになって、いっぱしの口を利くようになるのが普通だったが、私はまだジャリたちと変わらず「邦画」、それも時代劇を見まくっていた)、この年はそれに先立って「シネマスコープ」と称するべらぼうに横長の大画面が開発され(つまり、急速に普及し始めたテレビへの対応策だったわけだが)た直後だったが、この『大忠臣蔵』は、ふつうのオールスターによる忠臣蔵映画ではなく、松竹専属の映画俳優は元より歌舞伎界からも大勢出演したばかりか、内容も、何と『仮名手本忠臣蔵』を基盤にして物語が展開してゆくという一風変わった趣向だった。だから当然、高田浩吉の勘平に高千穂ひづるのおかる、などいう配役があったりする。一力の場では、舞台の七段目を映画的な立体構造にしたセットが組まれ、大画面で見る「茶屋場」は、舞台ともまた趣が異なり確かに見ものだった。もっとも役名は大星、ではなくやはり大石内蔵助だがこれが猿之助、もちろん二代目、即ち初代猿翁である。おかるは当然高千穂ひづるだが、何と平右衛門役に近衛十四郎が出てくるという按排である。猿之助は映画の大石のイメージとしてはちと年配であることが気になったが、次の「山科閑居」になると、ここばかりは俄然歌舞伎の「九段目」さながらの大舞台、いや格調高い名場面となって、いまもよく覚えている。猿之助の大石に、何と初代水谷八重子がお石、それにわが団子が主税でこれが私にとっての「三代目猿之助」イメージの原点となったという次第。(ようやく話が本題にたどりついた!)爽やかにして利発聡明、映画テレビの「忠臣蔵」の大石主税としてほとんど理想的といってよかったろう。実際、あれにまさる主税役は、その後、映画テレビを通じて見ていない。(ついでに言うと加古川本蔵側は、後の八代目三津五郎、当時の六代目坂東蓑助が本蔵、この人は当時ちょいちょい東映の時代劇に出ていていまひとつ冴えなかったが、さすがにこの本蔵は立派だった。戸無瀬が山田五十鈴、小浪が実の娘の嵯峨三智子という、そのまま舞台に乗せられそうな配役だった。)

その後のことは(テレビで「鞍馬天狗」もやったっけ)現・白鸚の染五郎とライバル視されたりかなり知られているが(当時は、既にミュージカルに出演したり万事華やかで学校も早稲田だし、染五郎の方が積極的で、団子の方が端正な優等生と見られていた)、私はまだ歌舞伎を毎興行欠かさず見るというわけではなかったから、谷崎潤一郎が『瘋癲老人日記』に書いている『河庄』の治兵衛を新宿第一劇場でやったのなどは見ていないが、同じ新宿で祖父と共演した『恩讐の彼方に』はいま思い出しても懐かしい。これが団子時代最後の記憶で、襲名の翌々月、歌舞伎座で十七代目勘三郎と二代目松緑が『弥次喜多』を出したとき、中村扇雀とコンビで偽物の弥次喜多をしたのを、坂東鶴之助の護摩の灰と共によく覚えている。(この二人の後の名前は言うまでもあるまい。大変な顔ぶれでやっていたわけだ。)と、この辺までが二代目猿翁一代のいうなら「先史時代」。こんな調子で書き続けたら果てしもなくなるから、この辺で打ち切りとしよう。実は同じ12月生まれのちょうど一歳違い。(あちらの方がお兄ちゃん。)改めてこうして麓から眺めると、宙乗りだスーパー歌舞伎だと姦しく言うより先に、尽きない思い出のこもごもの方が貴重な気がしないでもない。

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このほかにも、時の流れを感じさせしばし思いに耽った訃報を聞いた。
ヨネヤマママコ 88歳 我が家にテレビが来た頃の様々な情景が甦った。
遠山一 93歳。最後のダークダックスという見出しがついた。

お二人とも別に熱心なファンだったわけではないが、売り出して著名になった当時の時代の雰囲気・景色と共に懐かしさがこみあげてくる。昭和30年代の、「もはや戦後ではない」とはいえまだまだリッチというには程遠い、「やっぱりいかにも戦後だった」という、ひとつの時代のイメージと共にある人たちである。14インチのテレビの四隅が丸く中高の白黒画面に映し出されるこの人たちの映像というものは、こちらがボケない限りは忘れることはないであろう。遠山氏ことゾウさんなどは、カラーテレビ時代までも息長く活動していた筈だが、「記憶」の中ではモノクロ画面に映る4人組の笑顔である。ましてヨネヤマママコ氏などは…

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前回の冒頭、地球温暖化どころか「灼熱化」であるというべきところを、パソコンのキーを叩いていて、ふっと、「灼熱化」という言葉が出てこない。(こういうことが、近頃、ちょくちょくあるのだ。)後で直せばいいやと、とりあえず「○○化」と書いて、そのまま忘れて出してしまった。謹んでお詫びと共に修正致しますので悪しからず。

二十年前越してきた折にわが部屋の窓辺に植えた木槿が育って、毎年、夏になると白い花を咲かせるのを楽しんできたが、前に書いたことがあったと思うが、これが例年、7月当初から9月末までの正味三カ月、びっしりと咲く。昔、アサガオと言ったのはムクゲのことであると聞いたが、その名の通り、朝咲いた花が夕方になると、花弁を閉じて落ちてしまう。いかにも、道の辺で馬に喰われてしまいそうな野趣が好もしくて植えたのだったが、それが今年は、例年より半月も早く咲き始めたと思ったら、九月も半ば過ぎには元気がなくなり、彼岸を待たずに咲き切ってしまった。そもそも、盛りの時期にも、例年ほど盛大に咲き誇ることもなかったような気がする。確かにこれも、「灼熱化」のささやかな一証左に違いない。

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今月はこれまで。ご愛読感謝しています。

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前回の冒頭、地球温暖化どころか「灼熱化」であるというべきところを、パソコンのキーを叩いていて、ふっと、「灼熱化」という言葉が出てこない。(こういうことが、近頃、ちょくちょくあるのだ。)後で直せばいいやと、とりあえず「○○化」と書いて、そのまま忘れて出してしまった。謹んでお詫びと共に修正致しますので悪しからず。

二十年前越してきた折にわが部屋の窓辺に植えた木槿が育って、毎年、夏になると白い花を咲かせるのを楽しんできたが、前に書いたことがあったと思うが、これが例年、7月当初から9月末までの正味三カ月、びっしりと咲く。昔、アサガオと言ったのはムクゲのことであると聞いたが、その名の通り、朝咲いた花が夕方になると、花弁を閉じて落ちてしまう。いかにも、道の辺で馬に喰われてしまいそうな野趣が好もしくて植えたのだったが、それが今年は、例年より半月も早く咲き始めたと思ったら、九月も半ば過ぎには元気がなくなり、彼岸を待たずに咲き切ってしまった。そもそも、盛りの時期にも、例年ほど盛大に咲き誇ることもなかったような気がする。確かにこれも、「灼熱化」のささやかな一証左に違いない。

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今月はこれまで。ご愛読感謝しています。

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