随談第668回 目にはさやかに見えねども

地球温暖化ではなく○○化であるという、最近言い出された説には同感するところ大いにあるけれど、が、それはそれとして、35度だ36度だという天気予報士諸氏に合いの手を打って猛暑ぶりをいやがうえにも強調する各局のアナウンサー諸氏の嬌声?にもかかわらず、この数日、やはり秋は忍び寄っているのだと実感している。数字で表わされる温度だけが季節のバロメーターではない。35度という猛暑の中にも秋の気配は肌に感じられる。秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる、という古歌はやはりいまなお健在なのだ。「涼」という感覚、ひいては概念は、気温という数字によって表されるべきものではないと、たしか寺田寅彦で読んだように覚えているが違ったかしらん。

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西武デパートが池袋からなくなりそうだというニュースは、一文の関りもない私にもある種の感慨を抱かせる。昭和27年つまり1952年4月28日というのは、前年9月に調印したサンフランシスコ講和条約が発効した日だが、もちろん全くの偶々で、その日我が家は鷺の宮から当時の地名で豊島区の西巣鴨に転宅した。巣鴨といっても国電だと大塚へ三分,池袋へ七分、時間にすればそれぞれ10分と10数分という距離だったが、まず驚いたのは、猫の額ほどの庭土を掘ると瓦礫がざっくざく現れたことだった。つまり、昭和20年4月13日の城北大空襲でこの辺り一帯が壊滅した跡地だったからで、築地の癌研究所の分院が広島の原爆ドームをもう三倍も大きくしたような姿で残骸を曝していたり、後に知ったことだが近所の国鉄の官舎がかつては渋沢栄一一家の屋敷跡であったとか、つまり戦前はちょっとしたよき住宅地であったのだという。

でさて、話はひと落ち着きした五月の連休の一日、家族で池袋へ出かけた時の池袋駅周辺の光景である。明治通りのいま家電量販店が立ち並ぶ駅東口のとっつきに当時は映画館が数軒ならんでいた。現在は路地をやや奥まったところにある文芸坐も、その一軒として表通りに並んでいたが、それと斜めに向かい合う形で、現在デパートの一番端に当る見当の位置に木造二階建てでスレート瓦を屋根に載せた切り妻造りの(つまり一番簡素な建て方である)建物があって、それが西武デパートだった。大きな道路を隔てたほぼ向かい側に囲いをした土地があって、やがて三越がここに出来るらしいという話だった。つまり、西武百貨店としては、とりあえずの仮店舗でまずは開業した早々の姿であったに違いない。その後あれよあれよという間に拡張又拡張して今日の姿になったわけだが、西武百貨店のみならず池袋の街の原風景として忘れ難い。

やがて駅の反対側に東武百貨店ができ、東口に西武、西口に東武デパートという笑い話の種になったが。そういえば、その東武百貨店はもちろん東口の西武よりも一足先に、東急が進出していた一時期もあったはずで、これはあまり大規模にならないままに撤退したのだった。とんだむかし話だが、今度のニュース報道の中で,どこやら局のアナが、80ねん池袋の街の象徴だった云々と言っていたのはちと大袈裟、80年前では戦争前のことになってしまう。言い間違えのチョンボというには、ちとまずいのではあるまいか?

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国立劇場のさよなら公演がいよいよ残すところ二カ月となった。昭和41年11月がこけら落としの第一回公演、『菅原』を翌12月にかけて通し上演したのだったが、几帳面にもさよならの方も9月10月と『妹背山』を二カ月通して、帽子と靴のコンビネーションを図っている。(国立開場の更にひと月前に開場した帝劇で二代目を襲名した吉右衛門は、国立開場の『菅原』の「車引」で桜丸をしたのだったっけ。松王丸ではありませんよ。まさに往時茫々とはこのことだ。

それにしても二代目披露は6年後というのでは私など旧人はまず立ち会えないだろうが、それよりも気になるのは、その6年間をつなぐ劇場が今なお噂の域に留まって正式の発表がなされていないことだ。いくつかの劇場を転々とするのであるらしい、とは人の噂。歌舞伎座には新橋演舞場という控え櫓の劇場があったから少なくともよそ眼には揺るぎなかったが、こちらはそうした控え櫓を持たないのがつらいところ、というわけだろう。まあそれはそれとして、よき締めくくりの舞台を見せてくれることを期待しよう。

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そのさよなら公演も、九月の文楽公演はこれが文字通りのさよなら。次回12月公演は北千住との由。すでに現実の話である。

では今月はこれ切り。

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