随談667回 ふたりの人間国宝

中村歌六が人間国宝に認定された。近ごろ嬉しいニュースである。実は私はずいぶん久し昔からこの人のひそかな贔屓だった。いまはゆっくり論じているゆとりがないので、せめてという思いで『劇評』の次号に短い「讃」を書いたからお読みいただければ幸いである。

同時の認定として五街道雲助が人間国宝になった。歌六とは意味合いが違うし、そもそもこの人について語れるほど多くは聞いてもいないが、しかしこれも嬉しいニュースであることに変わりはない。五街道雲助は十代目金原亭馬生の愛弟子で、寄席に足を向けなくなって久しいから近ごろの高座は聴いてないが、さぞかしいい噺家になったであろうことは容易に察しが付く。師匠の馬生は、私が一番熱心に聴いていた頃がちょうど脂の乗り盛りだったから、いいところをいろいろ聴いている。いい噺家だった。円生も先の正蔵も、先の小さんも健在でそれぞれの頂点を極めていた時期でもあったが、そういう中で、私が一番好きだったのは馬生だった。当時まだ先の新橋演舞場が健在で、どういう構造になっていたのかいま思うと不思議なようだが、ともかくその二階に畳敷きの稽古場があって、そこを会場にして馬生が三夜連続で「お富与三郎」をしたことがあった。もちろん、こういうのは自身の工夫と才覚で復活上演するのである。当然のこととして(とは言っても、当時はそういう暇だけは充分あったればだが)三夜とも聴きに行った。とりわけ「島抜け」が圧巻だったのが忘れ難い。「島抜け」は歌舞伎だと、国立劇場で勘弥がやったのが今もって唯一の実見で、こちらは流刑地が伊豆で、島抜けをして辿り着いた岩に這い上がると朝日が昇ってくるのが型になっている。これはこれで忘れ難い場面だったが、噺だと佐渡の金山の断崖から夜の闇に紛れて海中に飛び降りるのだからその迫真力というものは、話芸でなければ不可能だろう。

と、さてそのときに、三夜、前座をつとめたのが五街道雲助の、そもそも存在を知ったはじめだった。かれこれもう半世紀になんなんとする(何という時の流れの速さよ!)昔だが、今もって五街道雲助などという名前で通しているのも、何か深い思いがあってのことと思われる。もちろんその間の、いくら寄席から足が遠のいたと言っても、今日に至るまでの経過は、幾度か目に耳にして知らないわけではないが、この度の朗報は、師の思い出と共に、さまざまな思いを蘇らせてくれた。
        ***

恒例のようになってしまったが、毎回、目にした訃報を書くのも、それだけわが関心事だからに違いない。この頃はテレビドラマを見ていても、出てくる俳優で名前と顔が結び付くのは十人に一人あるかないか。別のドラマで違う役と扮装で出てきても、あああれだ、ということにならないことも珍しくない。そこへ行くと昔の俳優は・・・まあ、関心の持ち方が違ってしまったのが一番の理由かもしれない。

さて今回の訃報だが、旧聞ながら杉下茂、平岩弓枝、わりに最近聞いたのでは那智わたるとか幾つかあったが、ちょいといまは勘弁してもらって、杉下氏だけに限らせてもらおう。

今回改めてつくづく思ったのは、一リーグ時代のプロ野球を体験している最後の人だということだった。一リーグ時代は、今で言うところの変則ダブルヘッダーが普通だったから、球場へ見に行くと、毎回二試合、4チーム見られることになる。一試合が3時間を超えるのが当たり前になっている現在からすると、試合の運びもずっと速かったわけで、もし今、当時のプロ野球を実見することが出来たならどういう風に見えるか、興味深いものがある。部分的には、黒澤明の『野良犬』とか、『エノケンのホームラン王』などといった往年の映画を見ると往時の様子の一端が窺えるのだが、しかし所詮、それは「部分」であることを免れない。(どちらも、1949年、すなわち一リーグ時代最後の年の実写映像だが、見れば感無量のものがある。とりわけ、当時の後楽園球場のスタンドの模様といったらない!)

と、いきなり杉下氏のことから脱線してしまったが、しかし、やれフォークボールがどうのといった、現在でもどなたも知る話をしたところで意味がないだろう。私にとっての杉下は(いや、当時の他の誰であろうと)忘れ難いのは、そういう「語り伝えられた」、すなわち「語り伝えることが可能な」事実ではなく、球場で見た、いやもしかしたら、ラジオの実況放送で聴いた(つまり実際には目で見たわけではない)誰それ彼それの姿なのだ。中日で言えば、西沢道夫も、服部受弘も(この人は確か、投手と捕手を兼任していたが、他にもこういう選手は幾人もいた。つまり投手として投げない日は捕手を務めるわけで、当時はこういう「二刀流」もあったわけだ。オオタニサン、あなた、キャッチャーもやってみませんか? と、誰か勧める人はいないだろうか?)、杉山悟も、藤原鉄之助も、みんなひとしく、そうした「眼中の映像」の中で生きているのだ。遊撃手として監督を兼任していた杉浦清が、何やら大声で指図をしながら遊ゴロを処理する、いかにも理論派のうるさ型らしい姿とか。(この人は弁護士になる資格を取るために明大の大学院まで行ったと聞いている。尤も、実際に資格を取ったかどうかまでは知らないが。)

当時眼鏡をかけた選手は、杉下の外にも、阪急の野口次郎とか阪神の御園生とか梶岡とか、南海の武末とか、二リーグになってからだが毎日の荒巻とか、眼鏡をかけた名投手は何人もいたが、思えばみな投手だったのは当然だったかもしれない。当時の眼鏡はみなフレームがまん丸だったから、正直、あまりスマートな感じではなかったが、杉下はあの長身と風貌によく合っていた。目に残るのはやはり投球フォームで、杉下のあの長身と、魔球フォークボールは切っても切り離せない。実際には、川上など限られた相手以外には投げていないとご本人が語っているのだから、事実はそうだったのだろうが、こちらは、あの長身から繰り出される玉はどれもフォークボールだと思って見ていたわけだ。(少なくとも、そう思っていたいという気持ちがあったのは、誰しもだろう。)

 こう見てくると、野球が変わったのは、二リーグになったからではなく、長嶋以後と見た方がよさそうだというのが、私の意見である。どっちがいい、という話ではない。旧石器時代と新石器時代のように、原稿用紙に手で文字を書いていた時代と、パソコンを指で打つ時代、更にはスマホやらナンタラカンタラに指先でちょいちょいと突っついて文章をつくる時代の違いと、どこかで通ずるものがあるような気がする。

        ***

長くなったから後は簡略に行こう。豊昇龍の優勝はよかった。四つ相撲でありながらあの瞬発力が、豪快な投げ技を可能にする。しばらく前、このところ「休場」中の解説の北の富士氏が、豊昇龍を「初代若乃花」と言ったことがある。我が意を得た。叔父の朝青龍をはじめて見た時(横綱になって間もなくだった)、瞬時に、これは初代若乃花だと思ったことがある。(体の綺麗さも若乃花を彷彿させた。)朝青龍はその後あまりにもヒールのイメージが強くなりすぎて自ら土俵人生を短くしてしまったが、若乃花は、ヒールとは違うがある種の放胆な感覚を持ち、そこに独自の人気の源泉があったと思う。横綱大関を撃破しながら同等以下の相手に取りこぼすため、毎場所8勝7敗が続いて何場所も小結に留まっていた時期がある。ゲンを担いでか若乃花の「乃」の字を初めは「ノ」だったのを「の」に改めて大関になり、そこでしばらくの停滞を今度は「乃」の字に改めて横綱になったのはご愛敬だが、洗練された名人芸と風格ある土俵ぶりがいかにも名力士のイメージだった栃錦との好対照が、戦績や力量上のライバルに留まらない面白さがあったのだ。私は栃錦のファンだったが、若乃花のすばらしさも認めるにやぶさかではない。豊昇龍に期待しよう。

        ***

今回はこれ切り。8月の歌舞伎は、幸四郎が『新門辰五郎』をするのに注目している。

“随談667回 ふたりの人間国宝” への1件の返信

  1. 復活おめでとうございます。
    今回も楽しく拝読させていただきました。

    では是非『仏壇返し』を
    会得してもらいたいですね。

    わたくしにとっての《眼鏡の選手》
    と云えば、別当薫なんですがね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください