随談第552回 今月の舞台から(2015年7月)

国立劇場の歌舞伎鑑賞教室が発売ほとんど同時に売り切れたという。菊之助が『千本桜』の知盛をするせいだが、一昨年来、吉右衛門令嬢との結婚によって生じた縁戚関係が結びの糸となってのさまざまな新奇な配役は、遂に、こうした思いも寄らなかった事態を生み出した。もっとも、丸本時代物の大役を演じるに当って吉右衛門に教えを受けるのは別に縁戚関係に拠らなくとも、当然あるべきことであって、現に同じ今月の歌舞伎座でも海老蔵が熊谷を演じるに当って吉右衛門に教えを乞うている。しかし事は、菊之助が事もあろうに知盛を、である。

前からやりたかったのだ、と菊之助は言っている。その通りなのだろうし、ご本人としては国立の鑑賞教室という、良き潮が巡ってきたこの好機に、ということなのであろう。見る側にとっては期待と危惧の混じり合った興味と、意欲に対する好感といったものが混じり合ってのこの盛況なのであろう。

さて舞台だが、頭脳は明晰研究熱心、理解は行き届き良き師を得てすることに難はなく、まずは朱の入れどころもない。大詰の入水の件など、鮮やかに返って、あれほど見事にしてのけた例はざらにはないと言っても過言ではない。フィギュアスケート風の採点方式で行けば技術点芸術点ともに金メダル級の高得点ということになるであろう。では歌舞伎『義経千本桜』の知盛として極上々吉かといえばやはりそうともいかないのは、ここは畏友犬丸治氏の卓説を、剽窃するわけには行かないから紹介かたがた取り次がせて(借用させて)いただくと、文楽の首でいうなら「源太」の首で「文七」の役をしたよう、というのが忌憚のないところになる。

これは、もちろん菊之助にとって不名誉なことを言っているのではない。意欲は意欲として、菊之助には菊之助の踏み固めるべき領域は他にあろうということに過ぎない。というより、この知盛によって菊之助は自身のひとつの極点をここに記した、と言った方が、より適切であるかも知れない。日ハムの大谷選手の投打二刀流ではないが、その女方と和事系統の二枚目役の、極めて純度の高いところに菊之助の他に求められない優れた資質があり、それを大切にしたいという私の菊之助観は、今度の優れた知盛挑戦の成果を見た後も変わることはないということである。それにしても、「大物浦」の竹本に谷太夫と葵太夫の出演を得るなど、鑑賞教室としては破格のことだろう。

梅枝の典侍局が、まだ実(み)は充分に入ってはいない青い果実だがその仁のよさ格のあること、曾祖父三世時蔵を偲ばせる風貌共々、先物買いをしたくなるし、亀三郎の相模五郎、尾上右近の入江丹蔵の好感度の高さも標準を高く抜けているが、右近が丹蔵をするというのも、兄貴分菊之助が知盛をするならボクだって、とそのひそみに倣ったのであろうか。常識に従うなら、解説役を兼ねた萬太郎の義経と役を入替えるところだろう。解説と言えば、私の所見の日、わんわという入りの高校生の大向こうから、「萬チャン」などと半畳が入ったのにも臆することなく真っ向から押し返す気概を示した解説ぶりは、なにがなし(系図の上で何に当るのだろう? お祖父ちゃんの弟だから大叔父か)初代錦之助を思い出させた。

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歌舞伎座ではまず海老蔵の熊谷に注目した。海老蔵個人にとってだけではない。近未来の歌舞伎を担うべき人材を見渡したところ、古典としての歌舞伎伝承の根幹となる丸本時代物の有力選手として海老蔵に求められるものの大きさを思うからだ。こんど海老蔵が吉右衛門に教えを乞うて『熊谷陣屋』をつとめるのは、大仰に言えば、近未来の歌舞伎を占う試金石とも言える。聞くところによると吉右衛門の先生ぶりはかなり「こわい先生」であったらしい。そうだとすればそれこそ、今の海老蔵に最も必要なものである筈である。

果してその舞台はと言えば、まずは神妙につとめてひと安心というところ、この際褒められて然るべきだろう。そこに付き纏うある種の生々しさは、海老蔵の個性でもあり若さの現われといまは許容するとして、要はこの初心をいつまでも忘れないことであろう。危惧があるとすれば、再演・三演と重ねるうちに自己流に演じ崩してしまうようなことがないように、ということである。幕外の引っ込みで、遠寄せのドンチャンが聞えるとワーッと声を上げ饅頭笠で耳を蔽うようにして駆け込む。耳を蔽ってまだ悟り切れない熊谷の心象を表わすのは、初代二代の吉右衛門の演じ方と変りはないが、ワーッと声を上げるところに海老蔵の独創がある。今度の所演で見えたひとつの裂け目とも見える。

梅玉の義経、左団次の弥陀六、魁春の藤の方、芝雀の相模と、吉右衛門の熊谷と同等の布陣。梅玉の名調子、左団次の老熟の自然体、みなそれぞれに芸境を深めている。芝雀は冒頭の「障子押し開き」の出から芸に一段と積極さが顕著になり、どうかした折に雀右衛門かと見紛う顔になる。あれでクドキに一倍積極性が出れば、傑作であった父の塁を摩するところまで来たと言っていい。魁春の藤の方も、その品格、その優しみ、いまや最適任者というべきであろう。

だが実をいうと今月の歌舞伎座で何が面白いかと言えば、久々に見る玉三郎の世話の芸である。お富にせよお峰にせよ、この春の『女暫』などと比べても、この人のスラスラスイッと渋滞のない喋る芸の面白さは、やはり世話狂言でこそ存分に発揮されることがわかる。こういうのを見ていると、この人の異能の才質を、今更ながら思わないわけに行かない。こういう「喋る」芸というものは、先輩の女形たちの誰も持っていなかったのだが、しかし「異能」ではあっても「異端」では決してなかったところに、玉三郎という女形の存立する足場が、危うくはあっても紛れもなく歌舞伎の水脈の中に立っていることを実感させる。そこに玉三郎を偉とするところも、見る愉しさもある。

もうひとつ、改めて知ったのは玉三郎の「教師」としての才能と手腕である。お富における海老蔵の与三郎にしても獅童の蝙蝠安にしても、お峰における中車の伴蔵にしても、玉三郎のリードによってその才質、その芸、ひっくるめて言えば持てる魅力を存分に引き出されている。ばかりでなく、そういう玉三郎の才腕自体の面白さというか、まさにその現場に立ち会っているかのような興趣を、見ている我々も感じ取ることになる。このところの玉三郎が、当代の立女形として大立者たちと舞台を共にすることが少なく、不審の声も聞えたりしていたが、そうした批判は批判として、こういう玉三郎を見ていると、むしろこういう姿にその真骨頂を見る気がしないでもない。かにかくに玉三郎はよし、というところ。

『牡丹灯篭』は今度も大西信行脚本だが、玉三郎が演出として大いに手を入れ、お峰と伴蔵の筋に絞り込んだので、これまでのものとは随分違って見える。「玉三郎版」と称して然るべきであろう。猿之助が円朝役で、これまでの勘三郎や三津五郎が、円生や彦六正蔵であったり談志や志ん朝であったり、はたまた歌丸であったり、今日の人情噺の名手の誰彼を自分の仁の中で咀嚼しながら、演技としての巧みな話芸を聞かせていたが、猿之助は扮装も清方描く円朝像に似せてこしらえ、高座に坐ってからしかめつらしく白湯を汲むなどいろいろあってから、さて語り出すという、伝え聞く、草書の柳派に対する三遊派の仕草を真似るなど、研究派としての薀蓄を見せるが、それはいいとしても、何度か登場しての口演はいささか凝っては思案に能わず、やや陰々滅滅とするのは一考あって然るべきであろう。

海老蔵が馬子の久蔵役をご馳走気分でつき合うが、こういう海老蔵の愛嬌というのは、値千金とまではいかずとも、なかなか悪くない。『蜘蛛糸梓弦』でもひとり武者保昌の荒事をつき合うし、今月の海老蔵はなかなかいい男である。

その『蜘蛛糸梓弦』が猿之助の出し物だが、正月の『黒塚』に次いでこれが二度目の歌舞伎座出演というのはともかく、目下のところこの辺が猿之助スペシャルの一品料理の包丁さばきの見せどころか。そろそろ他流の(?)面々と噛み合う芝居が見たい。

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新橋演舞場で染五郎が「歌舞伎NEXT」と称して、以前劇団☆新幹線の面々と演じた『アテルイ』を、同じ中島一樹作・いのうえひでのり演出で、歌舞伎として書き直し作り直した『阿弖留為』(と文字を探して書いたが、果たして文字化けしないで出てくれるかどうか、無事に行ったらおなぐさみだ)を出したのが、結構面白かった。中島一樹の脚本がかなりよくできていて、☆新幹線の固定ファン向けのギャグ沢山の枝葉を落として劇全体の姿がくっきりと見えるようになっているのが成功の第一。13年前の『アテルイ』初演の折、猿翁が見に来て(もちろんまだ三代目猿之助としてバリバリやっていた頃だ)「ギャグを取り除けば歌舞伎になる」と言ったのだそうだが、まさしくその通りになっている。(それにつけても、☆新幹線にしてもその他の誰彼にしても、当世をときめく人気作者たちが等しく、どうしてあんなにギャグにこだわるのか、どうも私には判らない。何故あゝものべつ観客の笑いを欲しがるのだろう? それとも、彼等を見に来る観客の側が笑いを欲しがるのか?)今度の脚本は、そのギャグという絡まる蔦を切り払っために、木の姿が、ひいては森全体がよく見えるようになった。ために訴えるところがまっすぐに届いてくる。

まつろわぬ民蝦夷と大和朝廷の関係というのは、そのまま現代のさまざまな相対立するものの関係に暗喩を見出すことが可能であり、いちいち小手先を弄さずとも、アテルイと坂上田村麻呂はじめ人物たちの織りなす人間模様から、見る者がおのずからさまざまな意味をそこに読み取り、感じ取る余地が生まれる。その骨太感がなかなかいい。亀蔵演じる蛮甲などという脇の役の面白さも、森全体の見通しが良くてこそ、木も亦よく見えるという好例であろう。勘九郎の田村麻呂、七之助の二役(それにしても蝦夷の女が鈴鹿という名前なのは何故だろう?)はじめ真剣な舞台ぶりも好もしいが、新悟がふだん見せない存在感でオッと思わせる。橘太郎や宗之助など、はじめはそれとは気が付かないほどの凝りようである。

NEXTというのはスーパー歌舞伎を念頭に置いての命名で、「スーパー=歌舞伎を超えた歌舞伎」に対し、「NEXT=次代の歌舞伎」という意味か? あるいは「スーパーの次に来るもの」という意味か? 感触としてはかなり似通い、ときに重なり合って(当世流にいえば「かぶって」)、『ヤマトタケル』の鈴鹿山の場などと、テイストも似ている。スーパー歌舞伎は『ヤマトタケル』の後、メッセージとしての「哲学」を盛り込もうというその哲学がとかく内向してしまったために次第にエンタテインメントとしての闊達さを失ったが、NEXTも今後第二弾第三弾と続けるなら、落し穴は今後にあることを思うべきである。(新・猿之助のスーパーⅡも、第一作を見る限り、内向癖を継承しているかに見えたのは玉に瑕だったが、秋に出すという第二作はどうだろうか?)

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作の良さという意味ではシアターコクーンの『ライムライト』も、単なる名作映画のミュージカル化でなく、チャップリンがシナリオ以前に自ら書いて未刊行に終ったという小説をベースに作ったという、大野裕之の上演台本がなかなかよくできているので、大人の鑑賞に堪える作となった。シアタークリエ近頃のヒットである。舞台裏と舞台を重ね合わせたような荻田浩一演出もはじめはややうるさく感じられたが、結局は成功しているし、石丸幹二演じるカルヴェロも、強いてチャップリンを意識させずに演じたのがよかった。石丸幹二畢生の名演といったら皮肉のようだが、イヤ本当にその通りなのではあるまいか。

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松也がルキーニの役をダブルキャストでつとめるというので、『エリザベート』を見るために帝劇に二度、足を運んだ。まずは上々吉、あまりひやひやせずに見られたのは何よりだった。面白いのは、今度の配役が必ずしも昨今の松也ブームに乗ってのことでなく、演出の小池修一郎によると、今回トート役の城田優、ルキーニ役を競演する山崎幾三郎と共に、以前ルドルフ役のオーディションを受けていたという、ちょいとした「松也論」のネタになり得るかもしれない「秘話」である。存外、幸四郎に次ぐ二人目の、歌舞伎とミュージカルを「兼ねる役者」になるかもしれない!

今度の演出が従来とすっかり様変わりして、フランケンシュタインでも出て来そうな不気味な荒廃の気配を漂わせているのはオーストリア帝国の衰退没落を暗示しているのだろうが、舞台の上に八百屋舞台という、舞台奥から前面へと傾斜のついた舞台を(つまり「二重」である)を置いているのも、なにやら不安定な効果を上げている。一般論としては私はあまりこうした策を弄した装置は好きではないが、しかし全幕見終って考えるとトートという存在が占めている役割の意味を明確にする上では肯定すべき演出と受け入れることにした。『レ・ミゼラブル』の新演出は肉を落として骸骨ばかりになったようだが(確かにその方が骨組みは見えやすいが)、『エリザベート』の場合は、従来の演出だと、トートの存在が、へたをすると脇の方でこそこそうごめいているだけのようにも見えかねない。その代わり、はじめのエリザベートの実家の場面の、昔の宝塚芝居を偲ばせるような牧歌的な感じは後退することになるが、ダブルキャストの花房まりが快活な少女から皇妃エリザベートへ変るさまを見せる芸にちょっと感心した。あれは歌舞伎である。(そういえば彼女はこの前見た『レディ・ベス』でもそうだった。)

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前回書いた爆弾騒ぎで第一幕で上演打ち切りとなった『おもろい女』をシアターコクーンで見直したのが、大分旧聞となって興趣も殺げてしまったが、藤山直美は初役とは言え勝手知ったる世界の話のこと、既に自家薬籠中のものの如く少しの不安もない。ところがそれが逆に、ある意味では難しいところで、大詰、薬物依存が祟って西宮球場での漫才大会出演を終えた後昏倒、そのまま息を引き取るという悲劇的な死を遂げる場面が、森光子の場合がここがあっての名演という印象であったのとだいぶ違う。優劣を言うより、これは両者の芸の在り方の違いというべきであろう。(その代り、天才漫才師ミスワカサとしての板につき方は、直美の方が堂に入っているわけだ。)つまり、それぞれの育った「学校」の違いということになる。

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悪口はなるべく書きたくないのだが、新国立の長塚圭史作『かがみのかなたはたなかのなかに』というのはどうにも困った。アンコールのさなか席を立つのは、(こちらはつまらないと思っても喜んで拍手する人もいるわけだから)控えるようにしているのだが、今回はどうにもいたたまれなかったので、ああ、やっと終わったと失礼させてもらった。鏡のこちらと鏡の中の世界の往来というのは昔からあるテーマだが、「子供と大人が一緒に楽しめる舞台」を意図したという割には話がごちゃごちゃした挙句、コドモニ見セルノハイカガナモノカというような話になってしまう。もっとも、そう思うのはお前が子供の心を失っているからだ、ということなのかは知らないが、85分の上演時間の内、見られるのは鏡のあっち側とこっち側のパントマイムの遣り取りの面白さで見せる初めの15分、大負けに負けて30分、か。それにしても先月の「四谷怪談」といい、新国立の新作は二打席連続三振というところか。

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