随談第664回 『噫! 左團次、仁は人なり』

というタイトルで今月のブログを書き始めたのだが、木挽堂書店の小林順一さんから『劇評』誌に左團次の追悼文を書いてくれないかと話があったので、そちらに振り替えることにして引き受けた。がまあ、折角書きかけたところでもあるし、予告PRの意味合いも含めて、書き出しの一節を引き写すことにしよう。

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左團次が逝った。ちょっと格別な思いがする。いわゆる贔屓役者というのとも違う。劇評で褒めたことも、回数からすればそれほど多くはなかった。だがその死を知って、一入の感概に襲われたのは紛れもない。

同年だということもある。西暦で1940年、昭和の15年、もうひとつ、皇紀紀元2600年ということが現実の暦にあった年の生まれで、どれをとってもみな「切り」のいい数字が並ぶので齢を数えるには間違いようがない。「本土」にも敵機来襲が頻繁にあって「東部軍管区情報」と正式には言うのだがわれわれ子供はただ「情報!」という声がラジオから聞こえると鉄兜をかぶって防空壕にもぐり込んだり、戦争が終わった日のあっけらかんと晴れ渡った空に「敵機」の編隊が爆音を轟かせて果てしもなく飛び来たり飛び去ったり、といった情景を幼な心に見た記憶をいつまでも忘れずにいたりする、そういう年の生まれで、何で読んだのだったか、左團次が同じようなことを言っているのを見て、フームと思いを致したことがある。そういう記憶を共有し、「戦中」といっても「日米戦争」はまだ始まらない「古き良き戦前」のかすかな匂いも記憶の一隅にある、そんな生まれ合わせに、ちょっと格別な親近感を覚えるのだ。

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とまあ、こんな調子である。よろしければ、続きは『劇評』誌をお読みください。おそらく今月半ばに発売、一部1000円(の筈)です。

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「噫」と書いて「ああ」と読ませる感動詞。(この文法用語、どうも気になる。怒りも悲しみも喜びも、そりゃ「感情が動く」のだから「感動」には違いないが。)かつて『レ・ミゼラブル』を『噫!無情』と書く、黒岩涙香以来のタイトルが、少年少女向けの名作物語などでは、戦後でも私などの小学生時代にはまだ使われていた。「嗚呼」という表記もあって、どう使い分けるかその都度、考える。「ああ」とか「あゝ」とか書くのとは、やはりちょいと感じが違う。

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同年生まれの有名人というと、プロ野球に王貞治、大相撲に大鵬という超大物がいるから、何を稼業にしようとそれぞれの業界でこの二人にまさる仕事を仕遂げるのはまず困難であろう。この年の生まれには野球界にはもう一人、張本勲という人があり、角界には琴桜という横綱がいたから、「四横綱」が揃うことになる。(琴桜という横綱は、記録の上の成績ではB級ということになるかもしれないが、風格風情、お相撲さん(という時は、なるべく「お角力さん」と書きたい。いまでも「角界」という言葉は現役である)という言葉の持つ諸々の意味風合いに如何にもふさわしい風情を持った、いい横綱だった。立ち合いぶちかまして一気の押しという相撲ぶりは、どうしても取りこぼしが多く、不安定なので、横綱昇進の際にも議論があったのが、時の横綱北の富士が「あんな強い奴を横綱にしないで誰をするんだ」と言い放ったのが、「記憶に残る」名言だった。

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大江健三郎に続くように坂本龍一が亡くなって多くの傷む声が今なお聞かれ。今の人には坂本氏の方がずっと馴染みがあるのは如何ともしがたいところだろうが、それにしても、という話を聞いた。今回の死去に当って読み直してみたいと思って、某有名書店に行って大江健三郎のやや古い著書を尋ねたところ、店員が「大江健三郎」の名を知らなかったというのだ。それも「若僧」ならともかく、もう中年の、ベテランらしい店員だったという。仕事はきちんとするちゃんとした店員らしく、すぐにキーをパタパタ打って調べてくれて、無事入手することができたそうだが、それにしてもねえ。フームと思うが、まあ、それが世の現実というものなのだろう。

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4月歌舞伎座夜の部が、三日間だけ、休演となった。仁左衛門体調不良のため、という理由だそうだが、以前だったら、代役を立てて興行は続けるのが歌舞伎界の通例だったろう。もっともこれは慣行であって、規則というわけではなかろうから、問題はないわけだろう。つまりこれも、「コロナ前」と「コロナ後」で変わってしまった浮世の一例ということか。

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今月はこれ切りとします。ではまた。

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