随談第663回 縁は異なもの・ホットなニュースとむかし話

随談第663回 縁は異なもの・ホットなニュースとむかし話

WBC優勝は同慶の至りだが、私が覚えている最古の日米野球といえば1949年、サンフランシスコ・シールズが来て日本のプロ野球が全く歯が立たないことだった。これがヤンキース傘下の3Aのチームで、監督のオドールという人は、戦前昭和9年にベーブ・ルース一行の全米軍に選手として参加していたという親日家で、翌年には愛弟子のジョー・ディマジオを連れて再来日、更にその三年後にはマリリン・モンローと新婚旅行のディマジオに付き添ってやってきたという人だった。コカ・コーラという飲み物を日本人が知ったのもこの時、折から開催中の秋場所を初日から3連敗して休場中の横綱前田山が、開会式でオドール監督と握手したのが報道され引退に追い込まれたといった副産物のニュースも忘れ難いが、とにかく、対戦した巨人、全日本軍、東軍・西軍(一リーグ時代最後の年の秋であるこの時点で、まだセもパも存在していない。名古屋、つまり中日、より東のチームが東軍、関西以西のチームが西軍である。「東西対抗戦」というのが、現在のオールスター戦に相当するものとしてあった。因みに「中日」とは本来「中部日本」の略称である。胸にCHUBU NIPPONと二段に書いたユニフォームが懐かしい)などが対戦したが、部分的な善戦健闘はあっても、要するに全く歯が立たなかった。本塁打一本すら、川上も藤村も大下も打てなかった。(翌々年に大リーグ選抜軍が来訪した時、中日の西沢と毎日の別当が打ったのが、(戦前のことは知らないが)日本人選手がメジャーリーグの投手から本塁打を打った最初だったと覚えている。

あれを思えば今回の快挙には感慨もひとしおどころではないが、大方の方々と同じようなことを言っても仕方がないから、ただひとつ、多分あまり多くの人が言わないだろうと思うことを書くことにしよう。それは、今回の快挙をよい潮時として、オリンピックの代表を、アマとノンプロの選手に戻すべきだということである。他の国々はどうか知らない。しかし他国はどうあれ、日本の野球は、もうこれ以上、メダルを取るためにプロ選手がアマやノンプロの選手の晴れの場を奪うことはないではないか。WBCにもいろいろ問題はあるにしても、今度のような実績を積み上げて日本が存在感と発言力を強めてゆくのが何より肝心なことだろう。

もうひとつ、今度の大会でチェコの選手が全員、本業を持ったアマチュアだったということが話題になり、大谷が、あの人たちこそ本当の二刀流だと言ったそうだが、これを聞いて、私は改めて、人物としての大谷を見直す思いだったことをつけ加えよう。

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横綱と大関が休場した春場所は、結局最高位となった関脇から優勝が出たのだから番付の権威は守られたという理屈になるが、そんなことよりも、大栄翔と優勝を争った霧葉山が、本割と決定戦と二番続けて同じような展開、同じ決まり手で勝って優勝を決めたのを見て、昭和27年の秋場所、関脇だった栃錦が(もっともこの時は千秋楽ではなく中日八日目の結びの相撲だったが)横綱の東富士を二番続けてうっちゃりで破った一番がこの場所の潮目を大きく変える決め手となって初優勝をしたという、昔話をする気になった。(昭和27年は1952年、何と71年前ということになる。さすがに、ウームと唸らざるを得ないが、WBCの快挙から1949年のシールズ来訪を思い出したのと言い、むかし話というのは、記録を調べて何かを言うのとはまた違った意義があるのだと信じたい。)東富士は「怒涛の寄り身」と呼ばれた、相手の上手を引き付けて一気に寄り立てる相撲が身上(この頃流の表現によると「持ち味」か)で、この時も、48貫160キロという巨体でわずか24~5貫80数キロという相手を鎧袖一触の勢いで寄り立てたのを、土俵際一杯で両足が俵に乗った姿勢で打っ棄った。物言いがついて取り直し、今度も同じように怒涛の寄り身で寄り立てる横綱をまたも土俵一杯で打っちゃって勝ったのだが、一度目は右へ、二度目は左へ(逆だったかもしれない)うっちゃり分けたのもさすが技能派と評判になった。当時の栃錦は、24~5貫という細身で、毎場所の様に技能賞を貰う技能力士として評価も人気も高かったが、良くて10勝どまり、大関になる力士とは思われていなかった。まして横綱になるとは、たぶん誰も考えていなかったろう。霧葉山は、それに比べれば大関候補として名が挙がっているだけ上等だが、イメージとしてはまだちょいと距離がある。しかし一風ある相撲ぶりには他人にない多様さに加え、寄り身や力強さが加わってきた昨今を見ると、案外、こういう力士が名を成すことになるのかもしれない。

ついでに言うと、豊昇龍にも初代若乃花の再来を期待したくなる。彼の伯父(叔父?)の朝青竜を初めて目の当たりに見た時、すぐに初代若乃花を連想したことがある。初代若乃花も、大敵を食っても同等以下の相手に星を落とすので毎場所8勝9勝を続けて、長いこと小結関脇を動かなかった時期があった。それが、ひとつきっかけを掴むとあれよという間に無敵の力士になったのだった。

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訃報さまざま

大江健三郎氏と扇千景氏の訃報が、命日は違え同じ日の新聞に載ったのはたまたま同じグリーン車に乗り合わせたようなものだろうが、大江氏については、私がここで何やら言うまでもなく多くの識者の言説が出るに違いない。既に目にした限り、私も大筋、異存はないので、例によって他愛もない昔話と行くことにしよう。デビューした頃のこの方の文章というと「ナニナニマルマルであった僕は…
という風な、英文法で言うところの関係代名詞を多用した、逐語訳の翻訳というか英文和訳の訳文を読むような感じで、中里介山だの吉川英治だの、大佛次郎は時にフランス語風が混在するから一風違っていたが、ともあれそういった人たちの文章に馴染んでいた当時の私としては、えらく読みにくく感じられたものだった。大江健三郎って喋るときも「何々するところの僕は・・・」なんて調子なんだってさ、という話も聞いたが、ウソかマコトかまでは知らない。

扇千景氏のことは、しばらく前に誰だかの訃の折に書いた記憶がある。初めて見たのが
宝塚在籍中に大佛次郎の小説を映画化した『照る日くもる日』でだった。まだ二十歳前の長門裕之の新妻の役で、大きな瞳が印象に残った。つぶらな瞳とはこのことかという感じだった。当時の東宝の時代劇というと、宝塚映画製作・東宝配給という形のものが多く、宝塚の女優(とは本当は言わないわけだが)がしばしば出演した。あの顔は、齢を取り参院議長という三権の長となって、いわば位人臣を極めてからも基本的には変わらなかった。

橋爪四郎 こういう人の訃報こそ、さまざまな記憶を呼び覚まされる。今となっては、古橋広之進の名は往時を知らない人でも知っているが、橋爪四郎の名を知るのは往時を知る人だけかもしれない。だがその「往時」にあっては、「古橋・橋爪」と常にワンセットの様に並び称されていたから、その名を知らない人はいなかった。ヘルシンキのオリンピックは戦後日本が久々に参加した大会という格別の思いのあったオリンピックだが、夙に記録の上で世界水準を大きく上回っていた二人にとっては、やや盛りを過ぎた年齢になっての初出場だった。古橋は400㍍決勝に残ったのが精一杯で決勝は最下位の8着、それを見ていた橋爪は1500㍍で飛ばしに飛ばし、最後にへばって二着に終わった(などと、見てきたように言うのも、テレビはまだ存在せず、ガーガーピーピー雑音の合間からアナウンサーの声が聞き取れるラジオの現地中継で聴いたのだったが、あれほど切迫した臨場感は、すべてが整い何度でもリプレイしてくれる今のテレビでは到底味わえない)。しょんぼりとうなだれて銀メダルを貰う写真が新聞に載ったのは今も覚えている。優勝した紺野という選手は日系アメリカ人の米国代表、三位のブラジルの選手もオカモトという日系人だったから、なんのことはない、つまり日本人が金銀銅独占ではないか、という声も上がった。と、こちらも小学校6年生という、まあ、自分で言うのもナニだが、多感な年齢だったから、今なお記憶も鮮明である。

奈良岡朋子 この人を以って、戦後のいわゆる「新劇」を身に纏って全うしたビッグな存在はお終いかもしれない。それにしても、その訃を報じるNHKのニュースで、朝ドラ『おしん』のナレーションで親しまれた奈良岡朋子さんが亡くなりました、と言うのが何だか笑いたくなった。そういえば(だいぶ昔の話になるが)芥川也寸志が亡くなった時のニュースでも、「大河ドラマ『赤穂浪士』のテーマ音楽でおなじみの芥川也寸志さんが亡くなりました」というのを聞いて、ご本人が聞いたら何と言うだろうと思ったものだった。ベートーベンの時代にNHKがあったなら、その死去を伝えるニュースで、『エリーゼのために』で親しまれたベートーベンさんが亡くなりました、と言ったに違いない。

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3月の歌舞伎は、歌舞伎座・国立劇場とも『花の御所始末』『十段目』『髑髏尼』『曲舞』と、稀曲特集のような演目がずらり。意図してか偶然かは知らず、でもまあ、たまにはこういうのも悪くないかもしれないね。ではまた来月。

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