11月の国立劇場の歌舞伎公演は、国立劇場察するに余りある苦心の企画「歌舞伎&落語・コラボ忠臣蔵」というので、春風亭小朝の『殿中でござる』と『中村仲蔵』のあと芝翫が『五段目・六段目』の勘平をやったが、(これだと実は、小朝と競演したのは歌六の定九郎ということになるわけだが・・・)、いわば「小朝流忠臣蔵論」ともいうべき『殿中でござる』は菊池寛の短編を小朝流に?み砕いたものらしいが、釈台を置いての、つまり「講釈」である。討入がテロと見做されるようになった今日、『忠臣蔵』を演じる機会は少なくなるだろうというあたりが、菊池寛×小朝÷2、というところか。大佛次郎が『赤穂浪士』を書いたのが昭和初年、池宮彰一郎が『四十七人の刺客』を書いたのが平成初年、大河ドラマで忠臣蔵を出した最後が西暦2000年、即ち20世紀最後の年(大河版忠臣蔵としてこれが何作目だったろう? すなわちそれまでは、「忠臣蔵物」は戦国物、幕末維新物と並んで大河ドラマの常連メニューだったのだ。)つまり、昭和から平成、さらに20世紀末までの4分の3世紀の間に「義士」が「浪士」となり、遂には「刺客」となったわけである。今日、日常的レベルで「赤穂義士」という言葉はほぼ絶滅、すなわち「死語」と化し、「赤穂浪士」という言い方が、大佛次郎がかつてそこに籠めた暗喩は雲散霧消、何の批判も感傷もないフラットな用語として、何気に(!)使われるようになったのが昭和末期以降、さらにそれを「刺客」と呼ぶに至ったのが平成初年、すなわち20世紀末ということになる。(因みに、10月歌舞伎座で松緑が講釈種の新作として演じた『荒川十太夫』は、堀部安兵衛を「義士」として見る上に成り立っているわけだが、『劇評』第8号の狂言作者竹柴潤一氏の言によると、言い出しっぺにして主演者である松緑から「『元禄忠臣蔵』が通しがあったとして『大石最後の一日』の後につけて上演してもおかしくないようにしたい」と注文があったという。フーム。「義士」と「浪士」さらには「刺客」との間に、こういう間隙があったということか。
ところで肝心の芝翫演じる『五・六段目』だが・・・長くもなったし、まあ、預かりとさせていただこう。
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ところでその小朝の二席の間に、つまり釈台を前に忠臣蔵の講釈をした小朝が、衣裳を変え座布団一枚で『中村仲蔵』を語るつなぎに太神楽が出た。鏡味・翁家・丸一の三組が交互出演のようだが(私の見た日は翁家社中の出演だった)、私はむかしから、寄席のさまざまな色物の中でもこの太神楽というものが大好きで、寄席からだいぶ足が遠のいている今、久しぶりで大いに楽しんだ。へたな落語より、などと言ったら??られるが、さまざまな曲芸が、下座で「千鳥」等々を寄席流に崩して弾く中、繰り広げられるのをぼんやり眺めているときほど、浮世の憂さを忘れてくつろげるひとときはない。かりにかのプーチンをいまここに連れてきて太神楽を見せたとしても、一ミリ、いや3ミリぐらいは頬をゆるめるに違いない。(ベートーベンを聴かせようと『仮名手本忠臣蔵』を見せようと、そうはいくまい。)
それにしても、見る側は他愛もなく笑い、する側にとってはあれほどごまかしの利かないものはないだろう。世代から言って、私などが一番数多く見たのは染之助染太郎兄弟だが、更にベテランで東富士夫という人もよく見た。この人はいつも一人芸で、平素は黒のスーツに蝶ネクタイというスタイルなのだが、何かの拍子に和装でたっつけ袴という姿のこともあった。この使い分けの理由は分からないが、ご本人には使い分ける根拠があったのかもしれない。で、ある時、曲芸がなかなかうまくいかない。失敗に次ぐ失敗。だが下座の鳴物は何事もないように続き、芸も何度となく繰り返す。ハラハラしながら見守る中、とやがて、見事成功。にっこり笑顔を見せて一礼、満場の拍手を背に退場、ということがあった。太神楽というのは、こういうこともあり得る芸なのである。
九代目の三津五郎が、出し物を出す機会に恵まれるごくたまさかの折に見せた『どんつく』という踊りも、太神楽の社中が芸をして見せる風俗舞踊で、親方が曲毬を舞台でして見せるくだりがあるが、役者がつとめるのだからそうはうまくいかない。あるとき十七代目羽左衛門が親方の役で、なかなかうまくいかずにようやく成功、ほっと破顔一笑したので万雷の拍手だったのを思い出す。
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訃報
白木みのる 昭和8年生まれ、かつて『てなもんや三度笠』で共演した藤田まこととは一歳違いとであったとか。毎週あれを見ていた頃、我が家の受像機はまだ白黒テレビだった。
村田兆治 この死については何とも言いようがない。私より若いのだが、その言動・察するところのその人となり・その風情風格等々、10歳も年長のような気がする人だった。
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團十郎白猿襲名については、12月の公演を見てからということにしたい。差し当たっては、11月公演の評を『劇評』第9号に書いたのでそれをご覧願いたい。
わたくしが拝見したときは
『私たちも養成所出身』と
自己紹介してましたっけね。
笑也や梅花にしても同様、
人財(人材ではなく財産の財)育成が
国立劇場の最大の功績のひとつかと。
計らずも『劇評』の末席を
汚しておりますが
今回の第9号には
国立劇場の評を認めました。
落語2席と太神楽の事も
初稿では書いていたのですが、
肝心の電子データが消えてしまい、
また嵐圭史主演の公演評を
追加したのでスペースもなくなり、
やむなく掲載できませんでした。
概ね以下のようなものでした。
『殿中でござる』は
同時期に再演された
井上ひさし戯曲のこまつ座の
『犬の仇討』の吉良の言い分を
思いながら聴いておりました。
『中村仲蔵』では
五段目の良き先導役になったと。
何よりも太神楽の藝に程よく
客席が湧いていたのが、
演者にとっても良き事。
その一方で、
五・六段目の静まりかえった
劇空間に複雑な想いを抱きました。
新團十郎は生来の助六役者だと
改めて思いましたね。
様々な外野からの批判?を
見事に吹っ飛ばしました。
一方、弁慶の方は悪くもなかったけど
ニンとしては富樫なんだろうとも。
長々と失礼しました。