随談第656回 よしなしごとばかり

毎年8月は自主公演やら勉強会やらが並んで、これがちょっとしたおたのしみになっているが、思い出すのは、世紀の変わり目頃だったか各種の自主公演が目白押しだったのが、何年か続いたひと頃があった。京蔵が『吉野川』の定高をしたり丸本物の大物に挑むなど意欲作も多かったが、そうなると毎回のように葵太夫が引っ張り出される。この種の会は土曜日に行われることが多かったので、ある年の8月など、毎週土曜日になると葵太夫の顔を見ていたという夏もあった。その葵太夫も今や人間国宝、役者の方も今やベテランと呼ばれる年配になっている。20年余はひと昔、である。評は『劇評』第6号に載せる予定なので、そちらをご覧いただきたい。

人間国宝といえば、このほど梅玉と一緒に、女義太夫三味線の鶴澤津賀寿が認定されたのも、まだ一介の素人だった頃から、縁あって知る者として感慨なきを得ない。素人も何も、そもそも彼女が三味線を弾くようになるとは、当時は思いもしなかったのだから夢のよう話である。良き師についたことと、もちろん人知れぬ努力もあったに相違ないが、おめでとう、でも昔を思い出すと頬っぺたを抓ってみたくなるねとメールを送ったら、ちょっと似合わないですねーと返信が来た。

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早稲田大学の内山三樹子先生が亡くなったのは前回分を載せてしまった直ぐ後だったから、もうずいぶん日が経ってしまった。お付き合いというほどのものはなかったが、本を出した際に献呈すると必ず懇篤な御礼を下さった。育ちの良さがそのまま人格や人柄となっているのが感じられた。それで思い出すのは、もう二十年の余も昔のことになるのに驚くが、『新世紀の歌舞伎俳優たち』という本を出したとき、献本すると程なくお返事が届いた中に、ちゃんと読んでくださったと見え、澤村田之助のことを書いた文章について、この人の若い頃の舞台についてなら自分の方がたくさん見ているようだ、という趣旨のことが書いてあった。ほぼ同年輩の先達として、一言、自慢したくなったのであるらしい。こうした稚気と言おうか、純と言おうか、少女の心がそのまま今も生き続けているようで、覚えず微笑が浮かんだ。(さる女性にこの話をすると、「カッワイイ」と嘆声を挙げた。)その田之助と、ほぼ相次ぐように亡くなったのは、私だけの知る因縁というものだろう。劇場のロビーなどで姿を見かけると、ずいぶん遠くからでも、深々と丁寧な挨拶を送ってくださる方だった。

これもしばらく前の話で、その際にもこのブログに書いたことがあったが、一度、こんな椿事があった。国立能楽堂の講堂を借りてささやかな催しをしたことがあった時のことだが、神山彰・児玉竜一両氏と近くのレストランで打ち合わせを兼ねた昼食を済ませて戻る途中、能楽堂の正門の前の道を内山さんが、それが癖らしくうつむき加減で歩いてくるのに出会い頭のようになった。互いに、アッこれは、という感じで挨拶を交わす・・・と思ったとたん、わずかな段差に足を取られたかして、バッタリ、転んでしまわれた。とそこへ、スーッとタクシーが一台滑り込んできて停車する。はっとした一瞬、ドアが開いて憮然とした面持ちで降り立ったのは、何と、加藤周一氏だった・・・という一幕で、黙阿弥もどきに、加藤氏に河内山よろしく「星が飛んだか」と言ってもらいたいような、滅多には遭遇しないであろう、忘れ難い一場面だった。

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今回はこれ切りにします。

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