随談第652回 富士尽くし

濃厚接触者なるものになって、幸い陰性で済んだものの、月初めの7日間は外出自粛となり前売りで買っておいたチケットはフイになった。お払い戻しは致しませんという約束だから、丸損である。改めて中日過ぎの切符を買って無事見物はしたが、何だか不戦敗のような気がしないでもない。黙阿弥の芝居などで耳にする、三百落としたような心持ちとはここらのことを言ったものか。劇評は、先月から始まった木挽堂書店発行の『劇評』第二号に書いたのでそちらをご覧いただきたい。

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緊急事態もマンボウも政府が「発出」しないので、連休に日帰りで、久しぶりに箱根に出かけ大涌谷から桃源台までロープウェイに乗って富士を眺めた。思いのほかに高く聳えて見えるのは、まだ雪に覆われてはいるがあちこち雪が解けて「はだら」になっているために豪快な趣きが増している故か。考えて見ると、この季節にこうした姿の富士山を見るのは初めてのことだった。九年前の晩秋、桃源台から「海賊船」で元箱根へと渡って、湖水越しに真っ白に冠雪した秀麗な姿の富士を眺めて堪能したものだった。これで思い残すことはないとさえいうつもりになったものだが、いま改めてこうして新たな富士の姿を見ると、思い残すことはないなどと言ったって、未知のことはいくらもあることに気づかされる。(当たり前の話だが。)

山歩きというものを、学生時代にほんの真似事をした以外、したことがない私は、槍だの穂高だのはもちろん、上高地だのなんだのといった所へ行ったことがない。富士山も登ったことはないが、小学一年の冬休みに、当時沼津の千本松原に戦火を避けて疎開したまま住まっていた祖父に連れられて、そのころ沼津にあった御用邸を見物にかなりの道のりを歩いて行った折に、道々、振り返るとすぐ間近に雪を冠った富士が雄大な裾野を引いた全容を見ることができたのが、70余年も経ったいまなお目に焼き付いている。手前に裾を引くように連なっている山があって、あれは愛鷹山というのだと教わった。「愛鷹山」と書いて「あいたかやま」でなく「あしたかやま」と読むのだという。沼津からだと宝永の噴火でできた宝永山が手前に瘤のように張り出して見える。『忠臣蔵』の映画で大石東下りの場面で、宝永山が映っている富士を背景に大石の一行が江戸へ急ぐショットが良くあるが、元禄にはまだ宝永山はなかったのに、などというこましゃくれた知恵を身に着けたのは、もう少し後のことである。

それよりも、毎年夏休みに祖父の家へきょうだい揃って泊りがけで行き、千本松原の海岸で泳ぎを覚えたのがいい思い出だが、『伊賀越』の『沼津』のラスト、十兵衛と平作がこの世の別れをする有名な場面を見るたびに、石浜の海岸に寝そべって眺めた景色がそのまま舞台に再現されるのを愉しむのが、今でも、更なる情趣を覚えるよすがとなっている。『道行旅路の花聟』おかる勘平の戸塚の山中の道行の、一面菜の花畑の向こうに桜の並木が連なり、その上に雪を冠った富士が描かれる舞台の光景は、大正年間に大道具の担当者が当時の戸塚の山の上のスケッチをしたのに基づいていると聞いたが、『沼津』のラストの千本松原の舞台装置も、実際の情景のスケッチに基づいているに相違ないと、私は勝手に信じている。だってそうでもなければ、あんなに実際そっくりな情景が舞台装置として再現されるとは思われないからだ。

とまあ、今回は不急不要のお話ばかり。(今回も、か?)

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訃報欄に、山本圭81歳とあった。フーム、と小さく唸った。

“随談第652回 富士尽くし” への2件の返信

  1. いつも興味深く拝見しております。
    お身体お大事に。

    さて日本経済新聞から
    歌舞伎劇評も消えてしまうのでしょうか?産経はもうかなり前からありませんし…
    悲しいことです。

    山本圭さんは
    訃報の届く直前に
    神保町で『いのちぼうにふろう』を
    観たばかりのところした。
    川津祐介さんの時も同様で
    観たあと訃報に接し、
    ゲンの悪さを感じております。

  2. 《追伸と言うか蛇足ですが》
    『愛鷹』は、
    矢野誠一さんなら
    さらりと『アシタカ』と
    読まれるかと。

    ゴルフ場としても
    そこそこ有名ですので。

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