随談第642回 五月のもろもろ

このところ芝居の話をあまりしていなかったから、今回はそのお噂から始めよう。五月の歌舞伎座では、3部の中で売れ行きが一番良かったのは第一部であったらしい。松緑の『土蜘』が人気というか注目の的であったという。まあ、祖父の二代目が兵隊から帰ってすぐつとめたのが、六代目菊五郎から「後世畏るべし」と評されたという話が残っているほどだから、当代としても期するところあってつとめたのであろう。猿之助が頼光を付き合っていたが、芸はもちろんちゃんとしているがどうしてもいたずきにある人という感じがしないから、見ている内に時々、智籌を猿之助がしているような錯覚が起こる。つまり猿之助と錯覚するほどの僧智籌であり土蜘の精であったということになる。

今回は上演時間の制約上、間狂言を抜いているが、そうすると不思議なのは、間狂言がある時よりも長く感じた。この脚本は黙阿弥だが、さすがの黙阿弥もこの手の芝居の脚本は、長唄の文句を書いたり間狂言を書いたりするところに手腕があっても、全体の運びはお能の祖述みたいなものだから『髪結新三』や『十六夜清心』のような妙趣はない。前シテがあって、間狂言があって、後シテがあるというソナタ形式が首尾一貫してようやく納まる形に納まるのだということが、今更ながらよくわかった。コロナ禍の中、そんな贅沢は敵だろうが、思わぬ勉強にはなったというものだ。

もっとも私としては、第一部でのお目当ては尾上右近がお嬢をするという『三人吉三』だった。別に悪いわけではないのだが、夢見る如くに期待していたようなわけには行かないのが、ちともどかしい。ツラネを、歌うならもっと陶然とさせてくれなくては。歌うというより調子を張って言うのだが、落ちた夜鷹は厄落とし、と川面を見込んだり(意味もちゃんと考えて言っているんですよ、と言うつもりかもしれないが)素朴リアリズムが混在するので、ちょっとポキポキして、流れるようにというわけには行かない。考え過ぎが裏目に出たのかもしれない。

亡くなった梅幸が最晩年に一度、久しぶりに出したことがあったが、それをみて目からうろこが落ちる思いをしたことがあった。庚申丸を抜いて有象無象を追い払うと(仕種もリズムも)その流れですっと、右足を杭にかけて「月もおぼろに白魚の」とツラネを歌い始める、その呼吸にはっと目を開かれた。そのことをどこかに書いたのを、当時はまだ勘九郎だった十八代目勘三郎が読んだのかも知れない、それから間もないある時、たまたま二人で話をする折があった。と、梅幸のおじさんに教わったやり方だと言って、目の前で立ち上がってこのくだりをやって見せてくれたことがあった。「ね?」という感じで目顔で言って座に戻った。(だが勘三郎は、ついにお嬢をする機会がないままに逝ってしまった。コクーン歌舞伎で演じたのは和尚であり、それは全然別の文脈の話なってしまう。)もちろん、いまの菊五郎がするように、ひと呼吸あってからやおらアリアを歌い始めるやり方もあるわけだが、なるほどなあと、深く心に残るものがあった。(『浜松屋』の弁天小僧の「知らざあ言って聞かせやしょう」に掛かるところにも、共通する呼吸が合って、これにも十八代目との思い出があるのだが、前にこのブログに書いたこともあるし長くもなるから今は書かない。)右近が次の機会にどちらのやり方を選ぶにせよ、リアリズムの中の様式というところに、もう一工夫、思案があって然るべきではあるまいか?

隼人のお坊も仁はいいのだが(お嬢から、先ずそっちから名乗れと言われて、「こいつはア俺が悪かった。ひとに名を訊くその時はまずこっちから名乗るが礼儀」というセリフがぴったりくる、こういうところは天性か?)、やはり張った調子がポキポキするのは、二人で相談づくだったのかしらん?巳之助の和尚も、いいようでもう一つスカッとしない。何となく三すくみのような吉三たちだった。

第二部の「道行旅路の花聟」が気に入った。いかにも歌舞伎を見ている愉悦があって今月一番のいい気分だった。こういう愉悦は清元ならではでもあるが、梅枝のおかるが期待に応える良きものだったし、錦之助の勘平も、この段の勘平としてうまくはまっている。萬太郎の伴内といい、思えばみな、三代目歌六のひ孫たちである。

菊五郎の勘平以下の『六段目』はもちろん言わずもがな。左團次の不破、又五郎の千崎、もう何度つとめたことだろう。谷崎の『陰翳礼讃』ではないが、艶とは要するに手垢のことであるという、その通りの底光りがしている。左團次と言えば、前月の『小鍛冶』で橘ノ道成を付き合って一言も物を言わずただ座っているだけの役だったが、まさしく千金の重みがあって、猿之助の稲荷明神も中車の三条小鍛冶も立派に役をつとめているにもかかわらず、吹っ飛んだ。魁春のお才もいいなあ、東蔵のおかやは言わずもがな。当たり前のものが当たり前にそこにあることの嬉しさ有難さだ。

第三部、『八陣守護城』は松貫四補綴とある。吉右衛門は自分でやるつもりで台本に手を加えたのだろうか?湖水の場だけだと、鞠川玄蕃と轟軍次の二人の敵方のスパイが「ハテ面妖な」を繰り返し言うだけで清正が既に毒を食らっていることを観客に暗示するというミソが、毒饅頭の清正という、(戦前までなら)誰でも知っていた「常識」が常識でなくなった今日、ムズカシイ問題ということになる。吉右衛門代役の歌六はすること文句なし。この人、何をやっても失敗ということがない。雀右衛門の雛衣、これまた文句なし。

菊之助が『鑑獅子』を踊るのが眼目だが、良い意味での「今日歌舞伎」の典型であり代表という印象である。「好感度」といういかにも今日的な言葉がいつしか生まれ定着して既に久しいが、まさに好感度100パーセントの鏡獅子であり、むかし見た誰それのは、などと言い出すワクチン接種を優先してもらえるような高齢者といえども、ナンクセをつけようとはしないだろう。具足円満、西暦2021年にあって誰しもが受け容れることのできる『鏡獅子』である。

楽善が幕開きの老臣の役で出演。いいなあ。本当にその人がそこにいるようだ。彦三郎の用人、萬次郎の老女と橘屋一家の中に米吉の局というのは珍しい光景だが、老女と局というこの役は、かつて菊之助の祖父梅幸が『鏡獅子』もっぱらにしていた頃、多賀之丞に菊蔵の父子がもっぱら勤めていたのが今も目に残っている。

         *

片岡秀太郎逝去。78歳とか。フーム。この人を初めて見た舞台ははっきり覚えている。昭和39年10月、前回の東京オリンピックのさなか、東横ホールで、この時点で花形未満という状態だった若手を糾合して『仮名手本忠臣蔵』を通し上演するということがあった。大星だけは大先輩の渋谷の海老サマ三代目権十郎だったが、そのほかは現・菊五郎の判官、前・辰之助(もちろん三代目松緑だが、やはりこの人は私の中では辰之助として生きている。もっともこの時点ではまだ左近だった)の勘平、現・楽善の平右衛門、現・左團次の師直等々々と、菊五郎劇団の若手を主体に、現梅玉・魁春の「道行」のおかる勘平と、東京勢の売り出し目前の若手たちが揃ったところへ、上方から秀太郎と孝夫の兄弟が参加したのだった。我當はすでに菊五郎劇団にいたから知っていたが、秀太郎と孝夫を見たのはこの時が初めてだった。秀太郎は「八段目」の小浪を、これは特別参加の我童の戸無瀬と踊ったのだったが、この幕だけはもう大人の舞台のような気がした。(孝夫の役?『旅路の花聟』の伴内と『旅路の花嫁』の奴だった!)それから程なく、大相撲の中継放送のゲストに十三代目仁左衛門が出演したとき、秀太郎を連れていたのが今も印象的な記憶として、これまた目に残っている。

それからいろいろなことがあった。昭和の末の50~60年代頃が、この人の最も苦しい時期であったように思う。しかし初めて見た時から、この人は良くも悪くも若手につきものの「未熟」ということを感じさせなかった。我童以外には、先代富十郎は知らず、成太郎はほんの片鱗しか見たことのない私には、上方の女方と言えば坂田藤十郎とこの人しかないことになる。『吉田屋』の女房のような役を見ることが多く、またよきものと思っていたので、あるところでこの人の代表的な役のような言い方をしたのが目に留まったらしく、さりげなくだが指摘があって、不本意のような思いをさせてしまったことに気づいて、なるほど、と心に留めたことがある。それから年を経た晩年に、覚寿をつとめるのを見たとき、その時のことを思い出した。それにしても、コロナ蔓延寸前の昨年二月、三兄弟それぞれに、十三代目の追善狂言を受け持ってつとめ遂せたことは、松島屋兄弟の徳の表れというものであったろう。

        ***

次の作品がすでに滑り出した今、もう旧聞のような感じになってしまったが、朝ドラで浪花千栄子の一代記のようなのをやっていたのを、時々気になるところはあっても結構面白く見た。どこまで事実に基づいているのかはわからないが、お終いの方でやっていたラジオドラマ(当時は「放送劇」という言い方の方が普通に使われていたと思うが)が、大方の東京人が浪花千栄子の名を知った始めであったと思う。花菱アチャコと組んで、「お父さんはお人好し」の前に「アチャコ青春手帖」というのがあったように覚えているが、どちらが先か後か、この辺りは必ずしも確かでない。ともあれ、大方の東京人が大阪弁というものをシャワーの如くに浴びたのは、この二つの番組であったとは言えるだろう。アチャコの言う「むちゃくちゃでござりまするがな」という決まり文句とともに、東京の小学生にも広まったのは間違いない。(上方の落語や漫才が放送されることはもちろんあったが誰もが聞くというものではない。)感心するのは、千代役の女優が浪花千栄子の関西弁のイントネーションを(しゃべり方は、現代の若い女優らしく早口で激しいものではあったが)うまく写していたことで、古い録音を聴き込んでよほど研究したものに違いない。

ラジオで知った浪花千栄子が更に東京のファンの間にも根を据えたのは映画にも頻繁に出るようになったからで、木下恵介監督の、というより花形人気スターだった高峰秀子が一躍名優に変貌する端緒となった『二十四の瞳』で、高峰扮する大石先生が6年生を引率して金毘羅へ修学旅行に出かけた先の、参道沿いのうどん屋で、家が貧しくて小学校を中退したかつての教え子が働いているのに遭遇する場面で、そのうどん屋の女主人が浪花千栄子の役だった。はじめは愛想よく応対していたのが、ちょっとしたきっかけから、からりと態度が変わる。いかにもありそうなこすっからい様子が、「手の平を返すよう」という語釈をして見せるような演技に舌を巻いた。もう一つ、小津安二郎晩年の傑作『小早川家の秋』で、鴈治郎が出演(映画俳優鴈治郎としても、この作が最高傑作であろう)、ふと再開したむかしの愛人の元へいそいそと出かける場面が評判をとったが、その愛人役が浪花千枝子で、さっきの『二十四の瞳』とは対照的な人のいい老女ぶりはまさに妙技というべきであろう。この二作を以って代表作としよう。(初代錦之助、つまり萬屋錦之介の『宮本武蔵』では、本位田又八の母親で武蔵を付け狙うお杉婆をやっていたっけ。)

        ***

田村正和氏逝去とあって、業績・ひととなり・逸話・思い出その他その他、その行き届いた報道ぶりである。私も好感こそ持っておれ悪く言う気持ちなどさらさらないから水を差す気はゆめさらないが、活躍した年代、とりわけその絶頂期をマスコミ人・一般人を問わず、誰しもの記憶のなかにほぼ完全に覆い尽くされているので、こういう水も漏らさぬ報道ぶりになったのであろう。これが、その光輝いていた姿を覚えている者が寥寥たるものになってからの死去であったりすると、仮にそれなりのスペースが割かれていたとしても資料に拠っての紋切り型の記事だったり、かつての栄光に比してごく小さな扱いであったり、といったことが往々にして起こる。「亡くなっていたことが分かった」などという記載を、相当のスターだった人の死亡記事に見ることも少なくない。仕方がないことと思いつつ、割り切れない気持ちになることも珍しくない。時たまだが、投稿欄に往年の活躍を知る年配の読者の投稿が載って、喝をいやすというより、救われたような気持になることもある。花柳小菊だったか、千原しのぶだったか、死去を伝えるほんのぽっちりの記事が載ってしばらくしてから、かつてファンだったという年配の女性の読者の投稿を見て心が和んだのを思い出す。

        *

江原達怡氏死去の記事を見たのは、田村氏に先立つこと何日前であったか。東宝の作品を見るとこの人が出てこないことはなかったと思うぐらいに、私など、東宝映画の熱心なファンだったわけでもない者でも、いろいろな作品でこの人を見ている。美空ひばり・雪村いづみ・江利チエミの三人娘のような作から、もっと地道な作品まで、まず必ず出ていたような気がする。気がする、というのは常に二番手、というより三番手ぐらいの位置にいる役だったからで、強い印象を残すわけではないのだが必要ではあるというのがポジションだった。そこに、幅広く且つ息長く、この世界で生き続けた根拠があったのだろうが、こういう人もいた、という意味で、死去の記事を見つけてしばし思いにふけった。

        ***

夏場所は照ノ富士が全勝するかと思うような圧倒的強さだったが、妙義龍戦の反則負けと遠藤戦の物言いの判定で混戦となった。二番どちらも師匠の伊勢ケ浜親方が審判長だったのは偶然だが、照ノ富士に厳しい判定となったのに微妙な感じを抱くのはやむを得ないところだろう。まあ、それはとも角として、前から言われていることだが、髷を掴んだら負けという規則は釈然としないものが残る。故意に髷を掴むという者は普通いないのだから、ほとんどの場合、故意か否かより、運不運によるわけで、取り直しにすべきである。また遠藤戦は、遠藤の投げを照ノ富士が掛け投げを打ち返したために遠藤の体が裏返っていわゆる「死に体」となったのだから、行司が照ノ富士に軍配を上げたのは然るべき理由があっての見識である。ただ照ノ富士の方が付き手が早かったのは事実で、したがってこれも取り直しが至当だったと思う。

近年、再生映像が精密になったのはいいが、野球のアウトセーフは早いか遅いかだけの話だが(それだって、カメラの角度でかなり違って見えるのには驚くが)、相撲の場合は、技を仕掛けての結果か否かが重要であって、以前なら取り直しにしたと思われる勝負に意外な判定が下されるケースが少なくない。「もう一丁」という審判員(昔は「検査役」だった)の声がよく聞こえたものだったのが懐かしい。

“随談第642回 五月のもろもろ” への1件の返信

  1. いつも楽しみに拝読しております。
    勘三郎丈は勘九郎時代の平成6年2月の明治座で、お嬢吉三を演じていらっしゃいます。その他、『大津絵道成寺』(この時限り)、『寺子屋』の松王丸を演じています。充実した座組、演目で大いに楽しませて頂きました。
    お身体にお気をつけて頂き、ご自愛ください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください