随談第637回 本年最後の不要不急の話

あっという間の歳末である。齢のせいだけでなく、時の経ち方が今年は何かイレギュラーに感じられる。原因はもちろん、コロナ騒動のためである。去年の今頃、歌舞伎界では何が話題だったかといえば、菊之助が『ナウシカ』をやっていて、舞台上で大けがをしたという一件だった。これを遠い昔のことのように思うか、それとも、ついこの間のことと思うか、人さまざまに違いない。いや、同じ人間が、遠い過去のように思えたり、最近のことのように思えたりするのだ。

歌舞伎学会の行事で、いつもはゲストを招いて話を聞く集まりが、今年はオンラインですることになったというもどかしさはあったものの、林与一氏の話が抜群に面白かった。78歳という。十代の頃がちょうど関西歌舞伎の壊滅期に当っていたわけだが、当時の関西の様子は概括的に伝えられていること以上はほとんど知るところがなかったので、目からうろこのような話柄が次々に出てくる。話すこと、話したいことが山ほどあって、次々と繰り出されてくる面白さ、それを語る饒舌なうちにも自ずから端正な言葉つき、挙措の美しさ。つい時のたつのを忘れて見惚れていた。それにつけて思い出すのは、大河ドラマの『赤穂浪士』の堀田隼人で売り出した与一氏が次々と映画テレビで活躍し始めた頃のこと、どこのテレビ局だったかで与一氏を主賓にした番組があって、二、三のゲストの一人として今の仁左衛門が出演したことがあった。もちろんまだ片岡孝夫で、東京では知る人ぞ知るといった当時のことだが、上方の和事の芸を伝える人は与一さんしかありません、ぜひ歌舞伎に戻ってきていただきたいと、遠慮がちながら真摯に訴えていた姿を印象深く覚えている。(ご本人は、もうたぶん忘れているだろうが。)

訃報もいろいろあった中に、幸田弘子さんの名前があった。一葉などの文芸作品の朗読で評価も高く、知る人も少なくない人だが、今ここに書こうと思うのはそのこと故ではない。昭和30年前後、この人がNHKの東京放送劇団の新人として売り出したころ、私はこの人のファンだった。東京放送劇団というのは、まだラジオの時代、放送劇や朗読をする声優(という言葉はあったが、今の人がこの言葉から思い浮かべるイメージとはかなり違う)として養成していたもので、テレビというものが存在しなかった当時は、かなり知名度も高い名優や人気者も輩出している。それこそ、「鐘の鳴る丘」だ「君の名は」だといった番組はこの人たちが主力として活躍していたのだ。第五期生まであったと思うが、巌金四郎、小山源喜、加藤道子(いまもつづいている「ラジオ名作座」という番組で、長いこと森繁久彌と名コンビだったのをまだ覚えている人は少なくない筈だ)といった人たちが第一期生で、確かなことは解らないがもしかしたらすでに戦時中から活躍していたのではないかと思う。その後も、臼井正明(白鸚の『アマデウス』の初期のころ常連の出演者だった)、名古屋章、七尾玲子といった名前も、ラジオというメディアの限界はあるが全国区規模で知名度があった。幸田弘子さんたちの第五期生は、既にテレビが放送を始めていたのでその含みもあった一段と華やかで、そのシンボル的存在が今も活躍中の黒柳徹子氏なわけだ(彼女の売り出した『ヤン坊ニン坊トン坊』という放送劇は、当時知らぬ者はないという勢いだった。(里見京子さんとか横山道代さんとか、なつかしいなあ。)幸田弘子さんは、そうした中で、着実に我が道を歩み続けた人だと思う。(「朗読」というのは、テレビよりもラジオでこそ、長所も魅力も発揮される。私は俳優が芝居気たっぷりに読むのより、加賀美幸子とか広瀬修子といったベテランのアナウンサーの抑制した読み方の方が、聞く側のイメージが抑制されないので好きだが、これはまあ、この際はついででの話。)

訃報の中に浅香光代の名前もあった。この人の「勧進帳」を私は見ている。所も新橋演舞場で、れっきとした長唄囃子連中で本格に演じたのである。立派なものだった。

新聞のスポーツ欄の隅っこに、かつてのニグロリーグの記録がメジャーリーグの記録として扱われることになったという小さな記事が載った。1920年から、第二次大戦後ジャッキー・ロビンソンを皮切りに黒人選手が大リーグに加入が認められるまでの20数年間、全米に存在した黒人だけのプロ野球である。ジョシュ・ギブソンというスラッガーが、ベーブ・ルースとほぼ同時代にニグロリーグで活躍し、ルースよりも多くの本塁打を打ったと言われている。私はひと頃、翻訳で生計の何割かをしのいでいたことがあるが、その当時、このギブソンの伝記を訳して出版したことがある。ちょうど王貞治氏が800号を打った当時だったので『800号を打ったもう一人の男』というタイトルで、私の訳書としてはちょいと評判になった。

本年はこれまで。よいお年をお迎えください。

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