随談第634回 人間万事マスクの世の中

バスに乗り合わせた50年配のおばさん風の女性が花柄のワンピースと共布のマスクをしていたり、マスク風俗も堂に入ってきた感のある一方、ノーマスクの乗客が騒いだために飛行機が緊急着陸をするというニュースがあったり、地下鉄の中でノーマスクに入墨の強面のオッサンが辺りを睥睨しながらエヘンエヘンオッホンとやっていたりする。この手の反抗族が現れるのも、マスク風靡が時代風俗として定着しつつある逆証明のようにも見える。

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九月の歌舞伎座は今回も「大歌舞伎」の看板を掲げた。吉右衛門に玉三郎、それに梅玉も出ているのだから、微塵も偽りはない。『引窓』などは、「秀山祭ゆかりの演目」と謳っている。白秋九月は、世が世ならば秀山祭の月なのだ。十月には国立劇場に菊五郎が出、歌舞伎座に白鸚が出、仁左衛門が出る。国立には菊五郎と一緒に時蔵も左團次も出るから、この三カ月でほぼ顔が出揃うことになる。(そうか、海老蔵がまだ出ていなかったっけ!)

と、これを書いているさ中に、政府から措置緩和の方針が出て、野球場は収容人数の半数まで、コンサート、歌舞伎、映画館など、観客が無言でいるたぐいのホール、劇場はフル収容でよろしいということになったが(歌舞伎の掛け声はどうするのだ? 尤も、クラシックのコンサートで曲が終わるか終わらぬかにブラボー!と絶叫する観客がこれを機になくなるのは結構なことかもしれぬ)、急にそんなことを言われたって、現に今月の興行は今まで通りソーシャルディスタンス厳守の態勢を前提としてチケットを販売しているのだし、4部制はどうするのだとか食事はどうする等等等と、そう俄かには急カーブを切るわけには行かない問題がいろいろ絡んでいる。コロナウィルス諸氏がいつ大人しくなってくれるのか、先が見えない限り如何ともし難いわけで、舞台に役者が大勢居並ぶ大曲輪の芝居には当分お目にかかれそうもない。今月第一部の『曽我対面』なども本来その手の狂言であるわけだが、いつもはずらりと居並ぶ大名連が6人しか出ないのはソーシャルディスタンス故であろう。大どころの面々はともかく、いわゆる下回りの役者たちの出番が縮小されるという光景を、すでに再開以来、いろいろな形で目にしているが、番付(例の無料のリーフレットである)の出演者連名を見ると、その割にはかなり大勢の名前が載っている。楽屋での仕事等々、それなりの配慮がなされてのことと推察される。

さてこの『曽我対面』だが、役者の粒が小さめとは言え好配役を揃え、梅玉の工藤、魁春の虎、歌六の鬼王、又五郎の朝比奈、錦之助の十郎など当代での一級品として賞翫に値する。松緑の五郎も高音がきれいに出るようになって結構だが、セリフ尻に駄目押しでもするような不思議なアクセントが付くのが耳障り、玉に瑕というものだ。ところで歌六の鬼王が袴の股立ちを取って出る。もう今後は、白鸚や吉右衛門が大ご馳走で出るということでもあれば格別、これを規範にするべきであろう。

第二部の『かさね』が思いのほかの好舞台だった。猿之助のかさねが、若い時に身につけた女方のこなしが良き頃合いに熟れてきているのに加え、いまとなっては加役としての女方ならではの、こしらえてかかった濃厚な色気がうまい具合に熟成して、とろみの具合が絶妙のシチューのような味わいだ。本来長く複雑な筋を持った狂言の一幕ならではの「よき不純物」をうまく発酵させている。何が何だかよくわからないような背景にある物語が、それ自体はどうでもいいようなものながら、不気味な背景となって効いている。それを引き出したのは猿之助の加役としての女方の芸である。(そういえばかれこれもう10年余の以前、海老蔵の与右衛門とロンドンへこれをもって出かけて、ちょいとした評判を取ったことがあったのを思い出した。当時はまだ亀治郎で、海老蔵よりひと回り小さい扱いだったが、見せてもらった現地の新聞評は亀治郎の記事の方が多かったように覚えている。)幸四郎の与右衛門の色悪ぶりもなかなかのもので、してみると先月の与三郎の期待外れは一体どういうわけだったのだろう? ところでこの『かさね』には、尾上右近ならぬ清元栄寿大夫が「出演」しているという、観客にとっては余禄がある。
第3部が「秀山祭ゆかり」の『引窓』である。吉右衛門が濡髪に回って菊之助が与兵衛、雀右衛門のお早、東蔵のお幸という水も漏らさぬ布陣で、コロナ禍以来ひさびさの丸本狂言である。ようやく「芝居」を見たという思いがする。新聞評にも書いたが、菊之助の与兵衛が、つい先ごろまで廓に出入りして遊女を引かして女房にした男という軽さと甘さがあるのが面白い。

さて第4部が「映像×舞踊特別公演」と銘が打たれて『口上』に『鷺娘』と番付にある。所要時間60分の由。『鷺娘』はそれほど長い踊りではない。ハテ如何なる儀にや、と思ったら、まあ何のことはない、前半の「口上」というのは、玉三郎ご本人がある時は生身で、またあるときは映像中に登場して、バックステージツアーよろしく歌舞伎座の奈落を案内してくれるというもの。後半の『鷺娘』は、白無垢の衣裳の前段と後段の部分は実演(という言い方も妙なものだが)、中段の、衣裳を引き抜いて町娘の姿で踊る華やかな場面は「平成17年5月歌舞伎座にて収録」とある映像でつなぐ。当然ながら、杵屋直吉・杵屋勝国以下の長唄・三味線・鳴物も映像の内だから生の演奏ではない(この落差もひっかかる)。幕切れは生身の玉三郎が瀕死の白鳥式に倒れ伏して幕となるのだが、と、いったん下りた緞帳がまた上がって、半身起き上がった玉三郎が満場に向かって手を振る。と、万雷の拍手の中、再び緞帳が下りるが拍手鳴りやまず、また緞帳が上がる、今度は立ち身で玉三郎が手を振る。と、三たび緞帳が下りて打出し、という次第。これを何とや言わむ? 新聞には「玉三郎リサイタル」と書いたが・・・。ただひとつ、「口上」の冒頭で玉三郎が、私は『道成寺』も『鷺娘』も、旧歌舞伎座の舞台で舞い納めた心算でおりますと述べていたことを、聞き逃すべきでない一言として書き添えておくべきであろう。もう一つ、観客の入り、満場の拍手、いずれも今月4部の内で一番であったことも。

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今月はもう一つ、国立劇場の文楽が、二月以来の半年ぶりの公演である。二月は、何とか楽日まで無事終えたところで、各劇場閉鎖という事態となったのだった。最近あまり耳にしなくなった言い草でいえば、滑り込みセーフというやつである。で、五月は緊急事態宣言中だったから、今回は半年ぶりということになる。それかあらぬか、各演目各演者、溜まっていた鬱憤を晴らそうというかのような熱演又熱演である。中でも、呂勢太夫・清治、呂太夫・清介の『絵本太功記』尼ヶ崎の段がこれぞ文楽と言うべく、就中、大詰の清介のタタキの凄まじさは往年の先代寛治を偲ばせる快演で、お陰でこちらも溜飲が下がった。第二部の『鑓の権三重帷子』は随分久しぶりのような気がするが、いま見るといかにも戦後の近松礼賛ブームの中で陽の目を見た作ということが改めて思われる。「数寄屋の段」で咲太夫が休演、思えばこの人もかれこれ八十翁のわけだ。4部制とは言い条、第4部の『壷坂観音霊験記』には「文楽入門」となっていて解説がつく。鑑賞教室とは別の、大人の初心者向けらしい。つまり今月の文楽は、正しくは三部制+初心者講座という構成である。なお、太夫・三味線はマスクその他一切なし、文楽の義太夫なのだから、これは見識というべきであろう。その代わりもちろん、床の真近の席には客は入れていない。

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国立の能楽公演で袴能があった。喜多流の『忠度』で、シテ・ワキその他の演者、地謡、囃子すべて紋付袴である。地謡は、再開した7月の公演では黒の覆いをつけていたが今回はなし、人数も八人と正規の人数だった。面も衣裳もつけない袴能には独特の良さがあるが、それだけに「言葉」に頼る面が多くなる。普段はさほど気にならない、シテの声が大鼓・小鼓の掛け声に消されがちになるのが玉に瑕である。しかし今回、『忠度』以上に感嘆したのは山本東次郎の狂言小舞『住吉』、わずか6分に神髄があった。

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以前からひそひそ囁かれていたものの、ああやっぱりあの噂には根も葉もあったのだということを証明するような事態で退陣劇があったり、寝業師の暗躍があったりの幾幕かの芝居があった末に新首相が誕生した。まあ要は、先人にべったりの腹心と見えていた人物が、胸中密かに「俺ならああはするまい」「俺ならこうするが」といった目をどれだけ秘め、養っていたか、であろう。木下藤吉郎が、信長に「愛い奴」と思われるために200パーセント服従、300パーセント以上の忖度・献身をして出世双六を躍進しながら、俺ならああするこうする、という目を養っていたように、である。

その新内閣人事の下馬評をあれこれするテレビ番組で、二階幹事長が「続投」といった言辞が飛び交ったが、二階氏はいつ野球の選手になったのだろう? 「登板」「降板」「続投」どれも野球用語だと思っていたら、民放のワイドショーならまだしも、NHKのニュースでも「××氏続投」と分別顔でキャスターが言っている。もはやそれは、「比喩」という域をはるかに逸脱している。もしかすると、比喩とすら思って、いや感じていないのかもしれない。

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その野球の話だが、中日ドラゴンズが1月に死去した元監督の高木守道氏の追悼試合をするという小さな記事を見つけた。そうだった。2月に野村・関根といった往年の名選手のことを書いた際に、うっかり名二塁手高木死去のニュースをド忘れしていたのである。
 私などの世代の者が小学生のころ後楽園球場でプロ野球を知るようになった当時、名二塁手といえば巨人の千葉茂ということになっていたが、戦前からの大人の野球通には苅田久徳という名前の方が近しかったろう。こういう喰い違いは、時代時代、また世代世代で如何ともし難いことで、むしろこうしたことの繰り返しこそが、プロ野球でも歌舞伎でも大相撲でも、伝統ある「芸」の世界らしいともいえる。高木守道は、昭和30~40年代、つまりテレビ中継で野球を知るようになったファンが急増した時代に、二塁手という、いかにも「通好み」のする「味な」ポジションのイメージを植え付けた名手だったというべきだろう。もっとも今度の追悼試合は、長嶋巨人と優勝を争った中日監督としての高木氏を偲ぶものであるらしい。

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プロ野球各球団のユニフォームが何種類もあるのは、かつてホームチーム用とビジター用と2種類だけだった昔を思うと隔世の感だが、そのくせ、中日・ヤクルト戦などでは、両チームとも、上がブルーに下が白のツーピース、もちろん色合いに違いがあるとは言え、パッと見には同じように見える。本来、敵と味方を一目瞭然で識別できるためのユニフォームなのだから、気が利かない話だ。巨人ならオレンジ、広島カープなら赤という具合にチームカラーを使ったのが各球団にあるが、何故か概して感心しないデザインが多い。阪神の黄色いのなど、虎がバターになってしまいましたという『ちびくろサンボ』のラストみたいでいかにも弱そうだ。縦縞模様にしてこそのタイガースではあるまいか。

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野球の選手が何かの拍子に帽子を脱ぐと、オヤ、この選手はこんな顔だったのかと意外の感に襲われることがよくある。今シーズン限りで引退を表明した藤川球児の素顔は、今度初めて知ったわけではないが、しかしやはり、改めて、ヘーエと思わされた。素顔で引退の弁を語る藤川を見ていると、発言の内容といい話しぶりといい、威勢のいい快速球を投げるだけの人物でないことを物語っている、ように見える。

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コロナ後はじめて国立演芸場に出向いた。特別企画公演として林家正雀が「彦六ばなし」と題して、師匠の林家彦六となって死んだ八代目正蔵ゆかりの噺をする会である。一時開演、4時15分ごろ終演というのが演芸場本来のカタチだが、一時開演2時半ごろ終演とある。(もっとも実際には、眼目の『梅若礼三郎』が長講50分で、20分ほどはみ出したが。)やはり入り口でシュッと吹きかけられた手をもみもみし、体温測定を施され、自分でちぎった半券を箱に入れ、プログラムは各自お取りください、席も前後左右には人なく、お陰で前の人の頭が邪魔にならず安心して聴ける、というところはご多聞に漏れない方式である。もちろんマスク着用は言うにや及ぶで、日本的完璧主義はいまや完全に徹底、定着している。

正雀を聴くのは随分久しぶりだ。師匠彦六について芝居噺をするというので早くから注目はされていたが、口跡が固くてお世辞にもうまいとは言えなかった。しかしケレン味のまったくない真摯な姿勢には好感を覚えていた。久しぶりに見る高座は、綺麗な銀髪に風格も感じさせ、芸風は変わらない中にもゆとりが出来て、見事ひとかどの噺家になり遂せている。特に師匠に似せているわけではないにもかかわらず、『梅若礼三郎』という古風な人情噺を語り込んで行くうちに芸の姿がかつての正蔵の芸と重なり合う具合は、こういうあり方こそ、芸の継承として本物というべきであろうと思わされる。近ごろ稀な、静かで快い感銘を覚えた。

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神保町シアターで原節子特集をやっていて「東京の恋人」が上映されるというので見に行きたかったが、上映時間がうまく都合がつかず断念した。ここ数年、何年かごとに出ているので再会はすでに何度か果たしているのだが、見る機会はそうあるわけではないから残念には違いはない。この映画は昭和27年7月の封切りの時に小学生だった夏休みに見ていて、同じ年5月の高峰秀子の『朝の破紋』と共に私にとってはこよなく愛惜置く能わざる作品なのだ。映画史上の定番の評価としては、まあ中の中かせいぜい中の上という作なのだろうが、諸人知らぬものない大家名匠の手になる名作とはまた違った、いとおしさがある。もっとも『朝の波紋』は五所平之助監督だが、『東京の恋人』の方は千葉泰樹という手練れの職人監督で、二年前の『山の彼方に』などと共に、多少落ちつきを取り戻しながらも戦争の後遺症が傷口を開いたまま、という時世を、問題作話題作の重苦しさをすらりと避けた娯楽作に仕立てているところがミソである。

『朝の波紋』もそうだが日本が独立を回復した年に作られたこの二作には、戦前には高級住宅街(お屋敷町と言ってもいい)であったところが焼け跡のままになっている情景が映し出される。(終戦から7年経った東京の街の実態はまだそんなものだったことがわかる。)そこに掘立て小屋を建ててやもめ暮らしをしている三船敏郎が、バリっとした白の麻服にパナマの中折れ帽という紳士然とした夏姿で銀座に現われる。十朱久雄と沢村貞子の夫婦が経営する宝石店に、ウィンドウに飾るためのコピーの指輪を製造、納めに来るのを業としている。その店の前に画架を立てて道行く人の似顔を描いて暮らしを立てているのが原節子という設定で(街角の似顔絵描きというのも、当時の都会風俗のひとつである)、チェック柄のシャツにズボンといういで立ちである。(スラックスなどという言葉は当時の日本人はまだ知らなかった。)その宝石店の二階にオフィスを構える、折から流行り出したパチンコの玉の製造でちょい成金になった会社の社長が、まだ「名優」になる前の森繁久彌、その女房が清川虹子、行きつけの飲み屋の女将が藤間紫、不幸にもまだ夜の女の境涯から抜け出せずにいる娘が杉葉子(つまり銀座にまだその手の女性が徘徊していたわけだ)・・・といった配役で、三船の住む元お屋敷町の焼け跡以外は、銀座と、勝鬨橋を渡った先の(原節子や杉葉子の住まう)貧しいが人情味ある街からカメラは外に出ない。(それにしてもみんなまだ若いこと! 小泉博が靴磨きの少年役で、その弟分の役の井上大助という当時人気の少年俳優もなつかしい。)私は原節子の格別のファンでもなければ、まして女神の如くに拝跪する好みも持たないが、小津作品でいえばこの前年が『麦秋』で翌年が『東京物語』という、彼女の一番盛りの狭間に作られた、人のあまり知らない谷間に咲く花として、このチェックのシャツにズボンをはいた彼女を一番好ましく思っている。三船敏郎も定評ある時代劇の剣豪も悪くないが、こうした現代劇で少々マッチョな都会紳士を演じているときが一番格好いい。もうひとつ、最後にして最小ならずに言い忘れてはならないのは、この映画の一番の主役が勝鬨橋であることで、時間になると遮断機で都電・車・歩行者を止めて橋の開閉をする様子を見るだけでも、一見の価値は充分ある。東京タワーの出来た昭和33年を基点に30年代を「昭和レトロ」一色に塗りこめてしまうのが、いつのまにか世の「定番」になってしまっているが、サンフランシスコ講和条約が発効しGHQが帰って行った昭和27年をもっと注目すべきだというのが私の「戦後昭和論序説」で、美空ひばりの「お祭りマンボ」がこの年のシンボル曲である。(因みにあの曲では、お神輿を担ぐ掛け声は「ワッショイワッショイ」であり、「セーヤセーヤ」ではない。)

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本当はもうしばらく前に書くべきだったが、訃報欄にウィリー沖山という文字を見つけた。特に関心があったわけではないが、こういう名前は、いかにもある時代をささやかながら体現しているから、ほんの数秒間にせよ、ある種の感概を引き起こされる。藤木孝などはひと頃駒込にあった三百人劇場でシェイクスピアなどやっていたのを何回か見ているから、多少の感概を呼び覚まされるが、もっとももうこちらが一定の年齢に達していたせいもあって、その名と共に蘇る同時代性という意味では、ウィリー沖山に及ばない。岸辺シローとなると更にそれだ。もっとも守屋浩となると、テレビが電気紙芝居といわれていた頃の安手な感覚が、昭和30年代という、ある種の半端な、かるが故に時代性を強烈に宿していた時代の表層を彩った多くの名前のひとつとして、今となっては奇妙な懐かしさがある。ついこの間死んだ弘田三枝子などと共通の時代の匂いである。

山本寛斎は、ようやく売り出してテレビでちらほら顔を見かけるようになった当時、山手線の同じ車両に乗り合わせたことがある。人目を集めるための奇抜なヘアスタイルや服装で売り出しに努めていた頃で、エラくなってからの寛斎氏より妙にいとおしい。

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ジュリエット・グレコの訃報か。ふーむ。グレコ自身はいいと思うが、それを取り巻くおパリ・おフランス人士が気になるなあ。

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訃報とは違うが、貴景勝が北天祐の娘と婚約というニュースがあって、久しく名を聞かなかった北天祐という名前が紙面に載った。北天祐はいかにも大物らしいムードを漂わせた強豪大関だったが、当時年末のテレビの恒例の番組で、各界の人気の運動選手(アスリート、などという聞いた風な言い方はまだ普及していなかった)が、何段もの跳び箱をしたり綱引きをしたり、大騒ぎをする番組に出演して思わぬ大怪我をしたのが元で引退することになったのだったと覚えている。それにしても、千代の山→北の富士→千代の富士→北天祐と、あのころまでは相撲大国北海道の出身の強豪力士の系譜がくっきりと連なっていたことが思われる。

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朝ドラの『エール』がいよいよ軍歌作曲の時代にテーマが移り、「露営の歌」と「暁に祈る」をめぐる件が既に放送になった。ここらがこのドラマのヘソの部分だろうが、「露営の歌」を長調の曲にという当局の要望を押し切って短調で作曲したという件があった。それで思い出すのは、近年忘れられたかのような名前だが、ひところテレビ文化人として知らぬものもない存在だった高木東六という音楽家が、この人は戦争協力を避け軍歌もやむを得ず一曲だけ、それも短調の陰々滅々を嫌って長調で作曲した、というのをしばしば広言していたものだったが、古関裕而を念頭に置いて言っていたのかどうかまでは分からない。

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IOCが、何が何でも来年にオリンピックをやる気らしい。「人類がコロナウィルスに打ち勝った証し」というのを錦の御旗とするのだろう。ウィルスは人間が藪をつついたから出てきたまでで、向こうから戦いを挑んでいるわけではないが、ワクチンができるか否かに関わらず開催するというのだから、ま、そんなことはどうでもいいのだろう。戦時中、「この一戦、この一戦、何が何でも勝ち抜くぞ」という歌があったのを思い出した。あの手の歌は軍歌とはまた別に、銃後の国民を鼓舞するために、戦中無数に作られたのだった。

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信号待ちのこちら側に老夫婦、対岸に自転車にまたがった巡査が二人。老夫婦は共にマスク着用、巡査は、一人はしているがもう一人はノーマスク。そこで老夫婦の会話。「オヤ、お巡りさんはマスクがなくてもいいのかな」と、これは私がとある街角での実見である。

大相撲千秋楽の優勝力士表彰式に先立つ『君が代』斉唱にあたって、「皆さまマスクをしたまま声を出さず、心の中でご唱和ください」と場内アナウンスが言っている。

マスクかな 嗚呼マスクかな、マスクかな・・・ですかね。

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前回、8月に映像配信された吉右衛門の『須磨浦』の評を本紙夕刊に掲載の予定と書いたが、その後、事情で9月8日付の電子版掲載となった。ちょっとお詫びを申し上げる次第。

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