随談第633回 歌舞伎再開

歌舞伎座が再開場した。先ずはその実地報告から始めよう。全席約1800席を823席に削減、前後左右が空席になる、千鳥模様に綾掛けをした形だから、前の席の人の頭を気にする必要がないのが一得という、何ごとにも思わぬ余得はあるものだ。この8月は国立劇場も稚魚の会・歌舞伎会の合同公演が5日間、音の会が二日間、どちらも小劇場ながら開場したから、足並みが揃ったことになる。「曲がりなりにも」という言葉はこういう場合に使うのが最適、と中高生の現代国語教育の用例になり得るかもしれない。

そういえば国立劇場のロビーに「すわれない席と並んでわすれない感動を」という(やや苦しい!)キャッチコピーが飾られ、どうぞ「社会的距離」を確保してくださいと場内アナウンスが言う。SOCIAL DISTANCEという外国語を使わないところが古典劇の劇場としてのプライドか?(だがそもそも、「社会的距離」って一体何だろう? 国交断絶とか、村八分とか、お隣同士口も利かない、とかいうのかと思うとそうではない。わかったようなわからないような、それで片仮名用語にしてお茶を濁す、官製用語の悪見本のようだ。そもそもソーシャルディスタンスって、もしかしてジャパニーズ・イングリッシュか? 文法的・語釈的に如何なものだろうか? 当初、他にも幾つか言われていた中ではフィジカル・ディスタンシングというのが一番実態に即しているように思うが、いつの間にかソーシャルディスタンスに一本化されてしまったのは何故だろう? コレデイイノダ、という方があったらご教示いただきたい。)がまあ、それはともあれ、座席は同じく綾掛け式だが、花道脇の席をずーっとつぶした歌舞伎座に対して、こちらは前の方数席だけ。『吃又』の冒頭間もなくに虎出現の騒ぎに出てくる百姓たち(それも4人しか出ない)のせりふの飛沫がかかる恐れのある範囲にとどめている。一方歌舞伎座は、『吉野山』のいつも花道でやる早見藤太と花四天のおかしみのやりとりを本舞台でする。

(それにつけてもだが、九月には文楽の公演があるが、文楽の太夫の飛ばす「飛沫」の量と飛距離は役者のせりふどころではない。たぶん厳重なマスクをするのだろうが、以前、料金が安いということもあり、太夫の一言一句が身に沁みて聞こえるような気もして、もっぱら床の真下の席で聴くことにしていたことがある。ある時、津大夫の唾が私の右の高頬にひやりと飛んできた。汚いどころか後で顔を洗うのもためらったほど嬉しかったものだが、別の時、某大夫の唾がかかった時には、思わず拭いてしまったっけ。盛りの頃の津大夫をたっぷり聴くことが出来のは幸運な巡り合わせというものだったが、そう言えば三人遣いの人形をどうやってソーシャルディスタンスを「確保」して遣うのだろう? あれこそ三密の代表のようだが、もっとも人形は無言の業だから、まあ、いいのか?)

歌舞伎座の四部制というのはおそらく歌舞伎史上未曾有の椿事(「珍事」ではありませんからご注意を)であろうが、一番長い『吉野山』が60分、一番短い『棒しばり』は42分と時刻表にある。短い上演時間、登場人物の少ない人気狂言というのが基本条件だから、『助六』など夢のまた夢、思いもよらぬ。(『勧進帳』ならOKか。しかし詰め寄りのところのソーシャルディスタンスをどうするか?)入場口で体温測定をし、プシュッと薬品を掛けた手をもみもみし、チケットの半券は各自ご自身でもぎってこの箱に入れてくださいという方式は、ほとんど病院に近い厳重さだ。日頃「ご観劇の記念に」と売っている「筋書」もなし、配役とごく簡単な梗概を載せた簡単な無料のプログラムが玄関を入ったところに、ご自由にお持ちくださいと置いてある。売店は一ヵ所、それも飲み物のみ、食事は一切なし。そもそも各部一演目で、終了ごとに場内消毒のため総員退出、昼夜続けてご覧になるお客様はそのまま中でお休みくださいなどということはないから、次の部が始まるまでの平均約1時間半乃至2時間は、各自の裁量で外で過ごすしかない。一日で四部すべて見るには、この一時間半乃至二時間を都合三回つぶす算段をする必要があり、しかも折からの酷暑のさなか、気散じに銀座なり築地界隈を散歩でも、というわけにもゆくまいと、いつもは昼夜一日で見ていたのを二日に分けて見ることにしたが、後で聞くと、4部通して見た人もかなりいたようだ。しかし九月は二日に分けて見ることにするわ、という声もあったところを見ると、やはり大変だったのだろう。近くの喫茶店で過ごすぐらいしか手はない筈だ。一部すむ毎の総員退出は、観客だけでなく出演者・裏方からスタッフまでという徹底ぶりだから、5日目の第三部が、スタッフに一名、疑わしき反応が出たために休演となっただけですんだらしいのは、ともあれめでたいことであった。(即ち私の見た翌日である、危ないところだった。)

ところで肝心の舞台だが、たまたまと言うべきか、例年8月は幸四郎・猿之助を芯にした納涼歌舞伎の月だから、一種実験的な意味合いもある(つまり「瀬踏み」である)この再開月にはふさわしかったと言える。第一部が愛之助に壱太郎で『連獅子』。朝一番から獅子か、などとはこの際言うまい。それなりの格式と儀式性を感じさせる松羽目物、再開場を飾る一番目にふさわしいと見えないこともない。二人とも優等生らしい真面目な舞台ぶりの役者だから、先ずは第一走者としての走りを見せたというところか。但し、観客の方も、おっかなびっくり瀬踏みをしているらしく(繰り返して言う、私の見たのは三日目である)、一階上手寄りの前方辺りや通称ドブという花道の裏側に、ぽっかりと無人の空間ができていた。これが56分。出演者は親子の獅子に、間狂言の僧二人の計4名。長唄囃子は五枚五挺でそれなりに、即ち1メートル程度?のソーシャルディスタンスを取って雛段に居並ぶという簡素さが、今は絶対条件なのだ。ついでながら、唄も囃子も黒覆面、じゃなかった黒布で顔を覆っている。(先月から始まった国立能楽堂の能の公演でも、演者はシテ・ワキともいつも通りだが、地謡が人数を減らし、顔を黒布で覆っていた。)ともあれ、こうしてコロナ禍の中、歌舞伎は再開したのだった。

第二部は勘九郎・巳之助の『棒しばり』でこれが42分。普段なら中幕物だが、これ一本でオシマイである。親同士が名コンビで売った狂言舞踊、どちらも親に真似びて微笑ましくも悪くないが、上等なお菓子をいただいて結構なお点前でしたと満足するには、当然ながらまだ道半ばなのは致し方ない。4部を通じて言えることだが、各部それぞれで観客の色合いが変わる。つまり各部それぞれの出演者の熱心な贔屓が観客の大勢で、普通一般の歌舞伎ファンというような層は、まだ様子見を決め込んでいるのかもしれない。

第三部、猿之助と七之助の『吉野山』に至ってようやく歌舞伎らしい華やぎが漂い出す。一に演目、二には役者の故であろう。猿之助と七之助という顔合わせは、芸質も持ち味も違うから必ずしも花爛漫の名コンビというわけには行かないが、それぞれの芸のレベルは今月各部での頂上付近、松羽目舞踊が続いた後に竹本や清元が聞こえるとやはりホッとする。客席も、和服姿のアラサー&アラフォー(&アラフィフ)?と思しき女性客が目に付く。静が花道を入った後、忠信が澤瀉屋流で引き抜いて火炎模様の狐姿になると、「猿之助さんはちゃんと手を抜かないでやってくれるからいいわ」などと後ろの席の女性客が囁き合う!? 有難きは贔屓客である。もっとも猿之助も、前段の「はまぐりはまぐり」というところもやって見せるから、かの女性客の寸評もあながち見当外れとも言えないか。

第四部は幸四郎与三郎、児太郎お富という『源氏店』。長身で細身、育ちの良さを全面に出した柄行きといい、見たさまもすることもよさそうでいて、これまで見慣れた与三郎像とどこかですれ違う。あの与三郎と道で行き会っても怖いとも思わないだろう。やくざ者だがどこかに育ちの良さが、芸の含みとして見えるのと、初めから育ちのよさそうなやくざ者とでは、ほんのひとまたぎのように見えてその間には深く隔たりが口を開いている。つまりは、綺麗ごとですんでしまうのが物足りない。仁にありそうで、あるいは然らずか? 考えてみれば、高麗屋の家から与三郎をする役者が出たのも一異変というものだろう。お富も、阿古屋以来、ぐいぐいと進歩をみせてきた児太郎だが、何故か後戻りしたような感じでもひとつすっきりしない。新聞評に未来歌舞伎のようと書いた由縁である。未ダ来タラズ。

中車が弥左衛門、弥十郎が蝙蝠安という配役も無難と言うに留まり、私としてはこの逆の配役で見たい。弥左衛門が無事につとまるだけ歌舞伎の水になじんだ中車だが、そろそろ、もう一歩、二歩、踏み込んで歌舞伎俳優九代目市川中車としての足跡を歌舞伎に刻す意欲を望みたい。無難とは言い条、弥左衛門というのは、演じる役者の風格や味わいがにじみ出て初めてつとまる役である。私は中車の由良之助や菅丞相を見たいとは思わないが、蝙蝠安をする中車ならぜひ見たい。タレント俳優香川照之氏としてテレビであれだけの活躍をするのなら、「中年からの役者」として無難に役をこなす域に留まるより、歌舞伎における「性格俳優」として独自の地歩を切り拓いてみせてくれることをこそ、期待するからだ。蝙蝠安に取り組む意欲を見せてくれたら天晴れを、見事やってのけたなら大天晴れを進呈しよう。

(まったくのついでのはなしだが、ゴキブリ退治の殺虫剤のCMで、ゴキブリ駆除に奮闘する夫婦を中車が1人2役で演じている、その女房の役の女方ぶりがなかなか結構で、ちょいと感心して見ている。「半沢直樹」における超過剰演技より、エスプリが利いていてよほどよろしい。)
ともあれこれで、歌舞伎座は無事再開場を果たしたわけだが、新たな展望が開けたというわけではないから、当面はこの方式で続けてゆくほかはなさそうだ。コロナ禍の不安は、人々の心にどんよりと重くわだかまったままである。

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国立劇場も、8月は本興行ではなく稚魚の会歌舞伎会合同公演に音の会という、養成課が担当する勉強公演の月。『修禅寺物語』に『茶壷』、『傾城反魂香』だが気持ちの良い舞台だった。(長唄や竹本のマスクが、歌舞伎座が黒マスクなのに対して白マスクなのは、黒頭巾に対する白頭巾というところか。)『修禅寺物語』という芝居は、なまじ大家の顔合わせで仰々しいのより、こうした形での清新の気漂うリリシズムが真っ直ぐに届いてくる舞台が好もしい。頼家の梅寿など、まだまだ子供っぽいなりにちゃんと頼家になっている。橋吾の夜叉王が、幕切れ、筆と紙を手に桂の断末魔の有様をぐっと見守って幕にしたのがよかった。せわし気に筆を動かす中、幕にするのが多いが、夜叉王ほどの「芸術家」としてかくあるのが然るべきであろう。『吃又』も新十郎と梅乃の実力の程を示す好舞台。「音の会」に稚魚の会OBたちが出演して丸本物の大作をするのが毎回の愉しみだが、今回は芝のぶのお光に京妙のお染、梅乃の久松、新蔵の久作、京蔵の後家という『野崎村』。結構でありました。花道脇の席だったが、駕籠かきの先棒役(新八?)の男振りに感心した。

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7月の幸四郎による図夢歌舞伎に続き、この月も獅童の超歌舞伎、松貫四作で吉右衛門演ずる『須磨浦』と映像配信が続いた。超歌舞伎は6年前に幕張メッセで初演の際に見たが、内容云々以前に、獅童のこれに賭ける熱意に並々ならぬものを感じた。熱狂的な支持を受け年々盛んになり、今年は南座で公演の予定だったのがコロナで流れ、豊島区立のBRILLIA HALLからの中継を配信したもので、見ていると獅童の熱意と献身ぶりは変わらない。その支持のされ方にも、軽視できないものがある。少なくとも、ここで繰り出される「歌舞伎イメージ」が、歌舞伎を一度も見たことのない若い層に何らかのアピールをしていることは事実である。

一方でこうしたものが作られ、配信される中、何と吉右衛門が自ら起って「配信特別公演」として映像を配信するということがあった。制作・著作は松竹、竹本作曲は竹本葵大夫、作調は田中伝左衛門とあるが、吉右衛門が松貫四として台本を執筆、吉右衛門として自ら演じる。題して『須磨浦』。評は日経本紙夕刊に掲載予定だが(掲載日は未定)、『一谷嫩軍記』二段目の「須磨浦」組討を第二場としてこれが眼目、第一場として、熊谷が義経から「一枝を伐らば一指を剪るべし」という、三段目「熊谷陣屋」の例の制札を戴いて帰る「堀川御所の場」をつけて、敦盛を討つ経緯を明示するという構成。これを、歌舞伎座でなく観世能楽堂の舞台で演じるのがもう一つの眼目であり、言うなら能の器に歌舞伎を盛るという、新たなる意匠としての意義と価値に通じる。仕手は吉右衛門ひとり、素面に袴をつけた姿、葵太夫と淳一郎の竹本が地謡の座に座り、伝左衛門ほかの鳴物が囃子方の座に座る。二場とも、仕手は橋掛かりから出て、入る。要するに能の形式に則り、丸本歌舞伎の様式で演じるわけだ。(下座の長唄等は陰から聞こえる。)義経、敦盛等は舞台上には登場しないから、やり取りは竹本と交わす。とまあ、いちいち説明すると煩雑のようだが、現実の能の舞台がそうである如く、極めてシンプルで見事に抑制が効いている。今回は無観客での上演だが、いずれ時を得て、実際に能楽堂で見てみたい。コロナ禍を奇貨として、新たな可能性を切り拓くものと言える。

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最近のテレビでダントツに面白かったのは、ナベツネこと渡辺恒雄氏にインタビューしたNHKの番組だった。天体の運行とわが心の道徳律なるカント哲学の精神と不戦主義、それに共産党入党・除名を経て、戦後政治の渦中にあって火中の栗を拾い続けて体得したプラグマチズムとの、渾然一体となったナベツネイズムは思わず聞き惚れる面白さだった。つくづく思うに、旧制高校の「古き良き事大主義」が生んだ最後の人であろう。戦前派のプラグマチズムと戦後出来のプラグマチズムの厚みの違いに、つい思いを馳せた。

と、折からの首相退陣の報である。吉田茂から鳩山一郎へ、保守合同を経て石橋湛山から岸信介へ、岸から池田勇人へ、さらに佐藤栄作へ・・・とつながってゆく政権の変遷というのは神の悪戯かとも思われてくる。石橋→岸と、池田→佐藤のケースは、今度と同じく病気のための退陣だったわけだが、つくづく思うに、石橋湛山があそこで倒れなかったら、戦後の保守政治も大分違うものとなっていたかもしれない。神の悪戯は、天体の運行ほど、律義でも整然ともしていないのだ。

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7月のことはもはや旧聞となってしまって久しいが、照ノ富士復活のことだけは記しておきたい。前にも書いたが、2015年5月、関脇で初優勝した場所、稀勢の里を上手投げで破って優勝を確定的にした一戦と、翌々場所、横綱を目前にして再び稀勢の里と対戦し、膝から崩れ落ちてその後の悲劇の大原因となった一番を、どちらもこの目で目撃したのが「忘れ難い偶然」となっている。あれがもう5年前のこととは! 一旦大関を陥落してもなぜすぐに手術をして完治を図らないのだろう、そのために一旦は大関から下がっても、若さと力量から言ってすぐにも復帰できるだろうにと不審に思ったものだった。(翌2016年の夏場所後、現・芝翫の襲名披露パーティの席に、伊勢ケ浜親方の令嬢と芝翫の三人息子の誰とかが同じ学校の同級とかの縁で、日馬富士・照ノ富士らが参列、鏡割りをしたことがあったが、あの場所も膝の負傷のために散々の成績だった直後だったので、密かに義憤を覚えたことがある)。怪我の回復の具合とのバランスの問題として出場を続け、その間にようやく横綱を射止めた稀勢の里と優勝を争うという、因縁も生まれたが、運命は人知では図りがたく、このほどのような巡り合わせとなって、オワリヨケレバスベテヨシ、ということになった。この上は、せめて大関までは復活させたい。

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訃報は渡哲也、内海桂子、河原崎次郎、それから山崎正和、といったところか。

山崎正和は、『鴎外―闘う家長』を、ちょうど鴎外に凝っていた頃だったので熱心に読んだ。なるほど、という感じで得るところは多々あったが、あまりにも綺麗に整理されている感じが妙に気になった。『世阿弥』は、現・白鸚のと十代目三津五郎がしたのを見た。ここでも、綺麗に整理されているのが、一抹のしらじらしさを感じさせた。三津五郎がタンバリンを手に踊った場面を妙に覚えている。こんなに頭のいい人はいないと思ったという追悼の言があったが、言い得て妙であろう。

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渡哲也。裕次郎は若い頃は結構好んで見たし、「鷲と鷹」「狂った果実」などはいまでもふっと思い出す愛唱歌だったぐらいだが、渡という人にも別にマイナスイメージはないものの、「軍団」などと言って集団を作るような行為に関心を持てないので、興味を覚えることはなかった。そうだ、大河ドラマの『勝海舟』で(かれこれもう半世紀もの大昔だ)、麟太郎時代までをつとめて病気交代したのだったが、父親の勝小吉役で出ていた松緑に気に入られていた、ということがあったっけ。世間のこの人への評判の在り方が推して察しられるような気がする。

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内海桂子が死んだ。97歳という。この人の、伝え聞く、さながら芝居の筋書のような人生がそのまま、このほぼ一世紀に及ぶ庶民世相史になっている。お見事という他はない生涯である。相棒の好江もまたよかったなあ。

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河原崎次郎が死んだ。長兄の長一郎は映画でもテレビでも結構見ているが、次郎についてはほとんど記憶に鮮明なものはない。守田座の控え櫓であった河原崎座の座元にはじまる名門河原崎家も、権十郎・国太郎という名前は大歌舞伎と前進座とにいまもあるが、血筋を引くのは健三を残すのみか?

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もうひとり、記憶の底から浮かび上がったように、福嶋一雄という名前を訃報欄に見つけた。終戦直後の、まだ旧制で全国中等野球大会だった時の優勝校が平古場昭二をエースとする浪商で、新制となり全国高校野球大会となった最初の優勝校が、この福嶋一雄をエースとする小倉商業だった。私は高校野球の熱心なファンには遂にならなかったが、この二つの大会のことは、幼なかった記憶に何故か刻まれている。死亡記事の外に、別面にやや大きいスペースの記事が載ったのは、甲子園の土をひそかにポケットに入れて持ち帰ったというエピソードの故だが、今日試合終了後に盛大に行われる「甲子園の土」を袋に詰める儀式の元祖とされているらしい。もっとも、甲子園の土を持ち帰ったのは私が最初、という話は結構あちこちにあるらしく、つまり、それぞれ密かにポケットに忍ばせて帰った選手がいても不思議はないわけで、おそらくどれも嘘ではないに違いない。但し「元祖」であるかは否かは、確かめようがないわけだ。広く知られるようになったのは、戦後しばらく出場が叶わなかった沖縄の高校が、初めて出場した際に「甲子園の土」を持ち帰ったのが、まだ沖縄返還以前で「本土並み」でなかったために違法とされるということが報道されたのがきっかけだったのは確かだ。この時は、同情した日航のスチュワーデス(と、当時は女性の客室乗務員のことを呼んでいた)が、土が駄目ならと、小石を焼いて選手たちに贈ったというエピソードが生まれたのが、更に反響を呼び、「甲子園の土神話」が定着したのだと覚えている。

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