随談第631回 またも不要不急の話ばかり

東京アラートだの緊急事態宣言だのが解除になったといっても、歌舞伎はまだ解除の対象の内に入れてもらえていない。歌舞伎が、と名指しされたわけではないが、大ぜい人を集めるイベントは千人までしかOKにならないというのだから、考慮の外ということなのだろう。まあ元々、不要不急の見世物の親玉みたいに扱われてきた「過去」があるのが、時移り栄誉のおこぼれに預かるようになった今日といえども、このほどのように一旦緩急ある事態となると、あんたのことなど構っている暇はねえ、ということになるわけだろう。「不要不急で400年」というキャッチコピーは、歌舞伎にとっての勲章であるとも言える。

と、いうわけで、この回も不要不急の話ばかりでご機嫌を伺うこととしよう。(なに、今更のことを言うまでもない。631回目の今回まで、不要不急の話でなかったのは一回だってなかったわけだが。)

さりながら「不要の要」ということがある。今度の事態であらわに見えるようになった、非正規労働だの保健・医療機関のあまりの手薄さその他その他の無残悲惨無慈悲な現実が、効率化という一点から、本来有用のものまでが無駄と見られて経費や施設や人員が制限され削られた挙句の表われであるように、「不要の要」を如何に、またどれだけ、奥ぶところに養ってあるかが、一国の文明のふところの深さを測るバロメーターであることを、新型コロナウィルスなる疫病神が明らかにしたともいえる。人はパンのみにて生きるに非ず、不要不急のことどもにかまけるを以て人は人として生きている。世界の大芸術大文芸も、三密の不備の対象と見られて槍玉に挙げられる夜の商売も、不要不急の文物という一点に於いては変わりはない。『デカメロン』を見よ。況や、歌舞伎に於いておや、ではあるまいか?

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幸四郎が言い出し兵衛となって『仮名手本忠臣蔵』を今月の27日から毎週土曜、五回連続で映像の有料配信をするという。午前11時開始というのは世が世ならば歌舞伎座の開演時間、第一回の料金が4700円というのは四十七士に掛けた洒落だそうな。(義士一人当たり百円か!)如何なる具合にやって見せるのか、見てのお愉しみと思うしかないが、ともかくこれが三月に公演中止となって以来の歌舞伎である。

その一方で、これも不要不急の文物の一であるプロ野球が開幕した。6月19日といえば世が世ならばセ・パ交流戦も終わり、そろそろ前半戦も山が見え出し、オールスター戦のファン投票が話題になるころである。その19日の開幕戦は大雨の中だった。通常なら雨天延期になっていたかもしれないが、この際だから決行した。無観客である。私たちはこれで、大相撲の三月場所と、歌舞伎座と国立劇場の三月公演の映像配信と、今度のプロ野球と、無観客の場内で行なった3種類の「本番」を見たことになる。夙に言われているように、フームと思うような発見もあった。大相撲では、四股を踏む音、力士の息遣い、ぶつかり合う肉弾の音、行司や呼び出しの声、等々というものが、観衆の声援や騒がしさの中だと聞えない、聞えても聞き過ごしてしまう音や声が聞えてさまざまなことに気づくという興趣はあった。しかし、四方八方を無観客の客席に囲まれている土俵が、テレビの画面で見ると無残なほど無機的な情景を晒しだすのは否定しようがなかった。本来なら客が詰めかけている溜り席であるはずの場所に、土俵上から突き出され押し出された投げ出された力士がどすどすと駆け降りるという光景がしばしばあった。

奇しくも同じ月に行われた歌舞伎座と国立劇場で無観客の中で本番通りに行われた舞台は、花道の出入りの際に観客のいない客席が露呈される以外は、映像画面は舞台上に限られるから、平素見慣れた舞台中継の画面と変わりはない。つまり観客のいない客席が常時露わに見えている大相撲の場合ほど、見る者の心に刺さる傷は深くない。と、一応は言える。とは言え、所詮、映像は映像だ。

野球の場合は、無観客のスタンドがしばしば画面に映るのは避けられないが、プレー自体はグラウンドの上に限られるから、イン・プレーの間はほとんど気にならない。またここでも、バットがボールを捉える快音や投球が捕手のミットに納まる音の快さ、プレイごとに聞こえるダッグアウトの選手たちの声、何よりいいのは審判のジャッジの声が明瞭に聞こえることだ。少年時代に見た池田豊、島秀之助、二出川延明といった往年の審判たちは、プレイボールの宣告に始まって、ストライク・ボールの判定もはっきりと満場に聞こえる声で言っていた。それは、凛然、と表現するのにふさわしい威厳すら感じさせた。(国友という、立教ボーイだという審判は、当時まだ珍しかったプロテクターを着込むというスタイルで、ジャッジの声もジェスチャーも小さかったが、それはそれで瀟洒なスマートボーイの風情があった。)それに比べこの頃の審判は…と、実は思っていたのだったが、こうして無観客の状態で見れば必ずしもジェスチュアばかり気取っているわけでもないようだ(ということがわかった。)

それにつけて改めて思うのは、応援団の応援に始まって、当節の観客席の「音量」である。プロ野球の応援団というものがいつから始まったかはともかく、今のような組織的・大規模になったのがそれほど古くからのことでないことは、記憶に照らしても確かである。最初は、ああ、あのおじさんまたやってるね、といったごく素朴な、有志が個人的な形でやっていたのであったのを覚えている。いまだって別に強制してやっているわけではなく、大勢の賛同があってのことだから今更とやかく言うことではないが、私など古い者は、つい今でも、一球一球ごとに注視してしまう癖はどうしようもない。ピッチャーが投げる、カーンと打つ、歓声やどよめきが起こる、その間合いが何とも言えないのだ。(大相撲でも、仕切りを繰り返すごとに高まってゆく高揚に醍醐味を覚えるのだが、一拍子の誰それコールというのが近頃頓に目に耳に付くようになってきた。あれも野球の影響だろうか。)少数派だが、スコアブックに記入しながら観戦している人の姿も以前は折々見かけたものだが、今はどうなのだろう。要するに、以前は各自がもっと自分なりに楽しむ自由が多かった気がする。

無観客の外野席にホームランボールが飛び込んで無人のスタンドをボールがゴロンゴロンと転がり落ちるのを見ると、何やら懐かしいような感じがしないでもない。ついこの前にも野村のホームランのことを書いたばかりだが、昭和30~40年代ごろのパ・リーグの試合というと大概はガラガラで、これも一種のデジャビュと言ってもいい。パ・リーグに限らない。新聞の投稿欄に、今度の無観客試合を「昭和の時代の川崎球場
に例えたのがあったが、なかなか秀逸なジョークである。観客数3千にも満たない試合も珍しくなかったのだ。(そういうプロ野球の状況を斜めに見ながら発足したJリーグが、観衆二万というスタジアムを各地に作ってああいう応援の方式を始めたのも、たぶん、パ・リーグ人気復興に何等かの影響力を持ったに違いない。まあ、みんなで盛り上がろうよ、というのが今日的風景なのだ。(プライバシーということに過剰なぐらいにこだわるようになった現代に、こうした現象が生まれたのは、面白いと言えば面白い。)

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三密対応の一環としてチームの移動を少なくするために、試合を行う地域を東日本と西日本とに一定期間固定して連戦を多くする方針だというのを聞いて、何となく、一リーグ時代の東西対抗戦というのを思い出した。オールスター戦というのは、もちろん1950年に二リーグ制になってからのもので、それ以前は、関西以西を本拠とするチームによる西軍と、中京名古屋以東を本拠とする東軍とで、即ち東西対抗戦というわけだが、中部日本、即ち中日ドラゴンズが東西の境い目となっていた。(ドラゴンズのユニホームの胸にCHUBU NIPPONと二段に書いてあったことも前に書いたと思う。)西軍が関西以西と言ったが、当時はまだ九州にも広島にも球団はなかったから、事実上は関西だけで西軍だった。東軍が巨人、中日に東急セネタース後にフライヤーズ、大映スターズで4球団、西軍が阪神タイガース、南海ホークス、阪急ブレーブズ、太陽ロビンスで4球団。関西には二リーグになってからも近鉄パールズのちバッファローズが出来たが、いま現在、関西を本拠とするチームは阪神だけである。今昔の感とはこのことだ。(関西の衰退?)

二リーグ制開始と共に広島カープ(はじめは、「カープス」と複数形のSが付いていた。ユニホームにもCARPSと書いてあったらしい。CARPという英単語は単数複数同形であるとは受験生が教わることだが、草創期のお笑い種の一つだろう)とか、西日本パイレーツに西鉄クリッパースとか(一年限りで合同して西鉄ライオンズになるわけで、その末裔たる西武ライオンズはその1951年を創立年としているらしい)とか、関西以西にも球団が誕生する。高校野球でも、かつての強豪校は関西以西に集中していて(但し、中京、即ち名古屋までが野球王国だった。時に東日本、時には西日本でもあるが故に中部日本、とはよく言ったものだ)、王投手を擁する早稲田実業が春の選抜で優勝した時、優勝旗が初めて箱根の山を越えたと大騒ぎをしたものだった(などと聞いてもイマドキノワカイモンは信じられないであろう)。

「野球方言」もしくは「野球弁」というものがあると私は思っているのだが、たとえば「投げる」と言わずに「放る」というのは西の方の言葉遣いであろう。「あのピッチャーよう放りよるわ」などと、とかく「野球弁」というのは関西弁を基軸にしている風が今なお廃れていないのは、野球人種というのは永い間、関西出身者が主力を占めていたからで、関西出身でない者まで「野球弁」として関西風の物言いをするのが「野球国の風土」になっている。「東京のど真ん中」などという言い方はかつての東京人は決してしなかったと、池田弥三郎さんがよく言っていたものだが、つまり「ど真ん中」という言葉は、関西由来の「野球方言」から一般に流布したものであるらしい。たしかに、草野球のキャッチャーが投手に向かって「もう一丁、ど真ん中」などと声を掛けるのを、子供のころよく耳にしたものだ。どケチ、ど阿呆、ど根性等々々、なるほどと思う類語は数多い。

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しばらく前(コロナ前)から、朝日新聞の「縮刷版」というのを、暇を見つけてはぽつりぽつりと拾い読みをするのがこのところの楽しみとなっている。試みに昭和24年1949年の記事などを読んでいると、面白いの何の、つい後を引いてやみつきになる。たとえばこの年の7月には、国鉄下山総裁の謎の轢死事件があったその数日後に六代目菊五郎が死去、そのほとんど直後というタイミングで、三鷹事件と呼ばれた国鉄の三鷹駅で謎の暴走事件が起きる。知識としてはもちろん知っていたことだが、縮刷版とはいえ当時の新聞を日を追って見て行くと、時代の実在感が予期せぬ迫真性を以て立ち上がってくる。大きめのルーペで、スポーツ欄のプロ野球の前日の試合の記録や大相撲の勝敗や星取表、ラジオ欄の番組名や出演者の名前などをつぶさに見ていくと、オオと叫びだしたくなるようなさまざまな記憶が蘇ったり、新たな発見があったりする。つい後を引いて予期せぬ時間を費やしたりしてしまう。(程々にしないと緑内障のためにはあまりよいことではないかもしれない!)だが面白いのはやはり「まだ戦後であった」昭和20年代、せいぜい30年代前半の安保の頃までで、もはや戦後ではなくなり高度成長が始まってテレビが世の動向を支配するようになると、次第につまらなくなる。事件としてはいろいろあるのだが記事としての面白さが立ち上がってこないのは、記事の書き方と言い、編集の仕方と言い、新聞そのものが妙にのっぺりと小奇麗に安定してしまったからだろう。もっとも、些細な記事にホオというのが時折見つかることもないでもない。昭和40年の記事に「元華族と称する女詐欺師」などというのがある。戦後20年という歳月が、「元華族」というのを中年の女性の詐欺の手口として成立させるのに絶妙の歴史的時間であったわけだろう。(もしかすると本当に「華族様」の成れの果てあったのかもしれないし。)

もうひとつ、通称「三行広告」というのは今でもなくなったわけではないが、社員募集とか死亡広告とか、当時はまだはるかに盛んであったのが一種の懐かしさを誘われる。日航と全日空の広告が並んでいて、片方が「スチュワーデス募集」、片方が「エアホステス募集」となっている。いまはどちらも差別語だろう。さらに、ウム、と膝を叩きたくなるのが、二行分ぐらいのスペースに普通の三行広告より少し大きめの活字で「〇〇子。話ついた。父さんも心配しているからすぐ帰れ。母(××子)」などという、家出か何かした家族に呼びかける広告で、そうだった、こういう「広告」もあったのだったと忘れた歌を思い出すような思いに襲われる。(こういうのを朝ドラのネタに使うと面白いのではあるまいか。)

とまあ、こんなのもコロナ禍のさなか、ステイホームならではの愉しみと言えるかもしれない。

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訃報としては、例のコロナで亡くなった現役三段目力士勝武士が話題となった陰で、逆鉾・寺尾兄弟の長兄で多くを幕下で過ごした鶴嶺山という名前があった。カクレイザンと読むこの四股名は、父親のもろ差しの名人鶴ヶ嶺が十両時代に名乗っていた、私などには懐かしい名前である。服部克久氏の名前もあった。もうひとつ、外交官上がりでなかなかくせ者の論客だった岡本行夫などという人の名もあったがこの人もコロナの犠牲者とか。フーム。

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コロナ騒ぎの間にも時は流れ季節は巡り、向かいのお宅の白壁に夜更けになると涼みに出てきたヤモリが張り付いているのへ、よお、元気でやってるなと一年ぶりの再会の挨拶を無言で交わす。木槿の蕾がいつの間にか満載となって、今朝、夏到来を知らせる最初の一輪が咲いた。二、三日の内には我も我もと咲き出すに違いない。早朝に数え切れない無数の花を咲かせ、夕方には蕾を閉じて散ってしまう。道の辺の木槿は馬に喰われけり、である。零時過ぎ、隣家とのあわい3メートルの路地に出て見上げると金星が光っている。振り仰ぐ頭上の真上に来たり、向かいの屋根の上に見つかったりする。幅3メートルの庇あわいから覗く空にも、天体は律義に、規則正しく運行している。

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