随談第627回 コロナ満載

あれよという間にコロナ・ウィルスのニュースでなければ夜も日も開けぬ(暮れぬというべきか?)世の中となった。ニュースの中にコロナという言葉が耳に留まり出して、まあ半ばは、よその国の話と聞いていたのが1月半ばごろから、2月になって横浜港にクルーズ船停泊となったあたりから、おいおいこれは冗談じゃないぞとなり、二月末に政府から立て続けに「要請」が出て小中高の学校閉鎖となったところで、本気モードに変わったと思っているが、「こっちの話」としては、3月は遂に「劇場」と名の付く場所へ一度も足を踏み入れないという、この何十年来なかった事態となった。歌舞伎座、国立劇場に明治座もと、三座で歌舞伎が開くはずのところが、三段階に刻んで休演また休演と重なって、遂に3月は「歌舞伎のない月」となった。この、三回に分けて、というところに、事態に対する政府などの為政者から、松竹その他の興行者さらには俳優その他の関係者、更には私などのような立場から関わっている者から一般の観客・ファン層まで、それぞれの立ち位置から事態を見ている者の「腰の及び具合」が反映している。「まだまだ間がある」「今はまだその時ではない」と、為政者も専門家も一般人も、みんながそれぞれ思いたい。思いたくても、現実の「その日」は容赦なく近づいてくる。X-dayはいつ来るか? あるいはもう既に・・・?

単に「東京に歌舞伎のなかった月」なら前にもなかったわけではないが(昭和4、50年ごろというのは、歌舞伎座で歌舞伎をするのが年に8カ月か9カ月だった)、圧倒的な不可抗力が理由で幕が開けられないというのは、昭和20年の終戦間近の頃以来のこと、という記事を昨日(3月31日)付の日経新聞の電子版に書いたのでご覧くだされば幸いである。ちょいとサワリだけ洩らすと、5月25日の大空襲で歌舞伎座と新橋演舞場が焼かれた後の東京では、7月31日に初代吉右衛門の熊谷に弟の中村もしほ(つまり後の17代目勘三郎である)の敦盛で『一谷嫩軍記』の「組討」の場を、何と日比谷公園の野外音楽堂で野外劇としてやったというのが一つ(但し一日だけ)、8月に入って、初代猿翁一座が東劇で(歌舞伎座・演舞場と至近距離にありながら、東劇は焼けなかった)『橋弁慶』と『弥次喜多』の二本立てで、終戦前日の14日まで公演を続け(映画『日本の一番長い日』を見た人は、これがどんなにスゴイことか想像がつくだろう)、さすがに15日は休演、そのまま月いっぱいは休んだものの、何と9月1日から、今度は『橋弁慶』を『黒塚』に差し替えて公演を再開したというのだから、たとえこの公演が東京都主催の罹災者慰問という名目があったとはいえ、天晴れというものだろう。ところが普通には、戦後の歌舞伎復興というと、六代目菊五郎が10月末に帝劇で『銀座復興』を上演したことがもっぱら言われてきて、いまも語り草になっている。気の毒なは猿翁である。それにしても、『橋弁慶』や『黒塚』より、『弥次喜多』をどういう風にやったのかしらん。見てみたかった。

しかし冗談ではない。まだ当分は間があると思っていた「團十郎襲名」興行が、もう来月に迫ってきた。我々にとってはオリンピックどころの話ではない。オリンピックだって、1年後と決めたはいいが、それで本当に無事開催できるのか、本当のことは誰にも分らないし、考えようともしていない(風に見える)。やれアスリート・ファーストだ、やれオリムピアードの理念だ、何だかんだと、テレビで討論会を見ていると、どれもオリンピックという枠の中で侃々諤々やっている限りではそれぞれもっともな言い分のようだが、オリンピックという枠の外にまで視野を広げて見れば、程を弁えて物を言わないと、一転して、手前の都合しか見ていないエゴの論理に聞こえてくる。いや、オリンピックなどの話をしている暇はない。同じことを、わが歌舞伎のことに重ね合わせてみると、どういうことが、あるいは、どういう風に、見えてくるかということだろう。團十郎の「睨み」でコロナウィルスが退散してくれるなら結構な話だが。

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前回、マスクのことを書いたが、もう一度戦時中のことに話を戻すと、本土空襲が現実となったころから、「防空頭巾
なるものが普及して、大人も子供も、空襲警報が鳴ればこの防空頭巾をかぶって「防空壕」という穴倉へ逃げ込むのが日常のこととなった。ちょっと遠出をするときは、途中で空襲に会うのに備えて防空頭巾を持参した。形態としては江戸の昔からあった山岡頭巾というもので、よく雪国の子供がかぶっていたり山賊がかぶっていたりするのと同じ、ごく素朴なものだが、綿入れになっていたのは、何かが頭上に落ちてきても防御になるというためであったのだろう。それが、次第に敵機襲来が頻繁になり空襲が日常的になったころから、もうひと手間かけた新工夫の防空頭巾というのが登場した。口の当りを覆うために手のひら程度の大きさの覆いを取り付けたもので、これが付いていれば安心だということだった。(まあそりゃあ、ないよりはあった方がよかったでしょうがね。)つまり、マスク付きの防空頭巾というわけである。いざ我が家に、あるいは近隣に、敵機がばらまいた焼夷弾が落下した際には、この口当てつきの防空頭巾をかぶって、家々ごとに設置してある「防火用水」に汲み置いてある水をバケツリレーで消火に当れというのが、各町会ごとに行っていた防火訓練で教わることだった。我が家の筋向いの佐々木さんというお宅に焼夷弾が落ちたという設定で訓練が行なわれたとき、「佐々木さんのお宅に焼夷弾落下ァ」と誰かが叫ぶと、いつもおちょぼ口でものを言う上品な「佐々木さんのおばあさん」が、オホホホホと笑いながらバケツリレーをしたというのが、大人たちのひとつ話になっていたのを覚えている。逆算して考えると、まだ小学校に入るのは二、三年も先の幼児に過ぎない頃の記憶だが、この話に限らず、よくお前はそんな小さい時のことを覚えているなあと昔から言われたものだが、「戦時」という環境が幼ない脳味噌に何か特別な刺激を与えたためかもしれない。ところで焼夷弾というのは、焼夷剤と炸剤が入った無数の束がばらまかれるわけだが、あの束をクラスターというのだったっけ。

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そのクラスターだオーバーシュートだフェーズだ何だと、やたらにむずかし気なカタカナ語を使うというので非難が起こっているが、またしてもむかし話で恐縮だが、古い「サザエさん」にこんなのがあった。戦後(昭和24年12月から各紙一斉に)夕刊が復活して各紙が当時の人気漫画を競って掲載した中、朝日が掲載したのがかの『サザヱさん』で、テレビの人気番組のとはちょっと色合い肌合いが違うのだが、まあその当時の作で、インフルエンザの大流行で、近所隣り、家じゅう寝込んでいるというさなか、熱っぽくて具合が悪いという近所のおばあさんへ、サザヱさんが「あら、それインフルエンザですわ、きっと」と言うと、「ヒェッ、では」とびっくり仰天するので、「おばあさん、感冒のことよ、感冒」と笑って安心させる。と、「なあんだ、感冒かね。あたしゃまた風邪かと思った」というのがサゲになっていた。ところでここから読み取れるのは、「インフルエンザ」という言葉がこの頃から使われ出した新語で、老人にはまだ馴染みがなく、いまは忘れ去られた「感冒」という在来の用語がまだ普遍性を保っていたということ、更に、この「感冒」なる用語も、たぶん、お医者さんが普及させた、「風邪」ほどには深く根を張った言葉ではなかったのでは?という疑いである。朝日が長谷川町子『サザヱさん』、読売が秋好馨『轟先生』、毎日が横山隆一『ペコちゃんとデンスケ』というのが三大紙の布陣だったころのお話である。

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というわけで、3月はほぼ連日、健康のための散歩ぐらいしか外に出ることもなかったお陰には、遅れに遅れていた原稿を一つ仕上げることができた。書き始めて三年来、途中、(このブログの中でも何度か愚痴を漏らしたが)たび重なるわがパアソナル・コンピュウタアの故障やら不具合やらでその都度頓挫、一度は半ばまで書き進んだところで全部パーになったこともあった。昨年一月に仕切り直し、ではない取り直しをしてからも遅々たる歩みだったのが、このところのコロナウィルス騒動のお陰で一挙にはかどった。といって、この疫病神に礼を言うのもなんだが、人間、何が幸いするか知れないという、ひとつの知恵を実感したのは事実である。

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