隋談第625回

遅ればせながら新年のご挨拶を申し上げ候。新元号第二年の「春」である。この前、新聞の電子版に載せる原稿に「新元号の新年」と書いたら、今年は令和二年だぞ、というような突っ込みが入るおそれもあるから「新年」と言わない方がよいのでは?という注意があった。む?と思いはしたが、余計なトラブル招くまい、と道成寺の坊さん達の舞い尽くしの教えに倣って、忠告に従うことにした。

さてその令和第二年の春芝居(もしくは初芝居)、東京での四座すべての評を載せる枠がないというので、どれの評を書くか、見てから決めようということにして、結果、歌舞伎座と浅草公会堂ということになった。それぞれについては掲載紙を見ていただくことにして、浅草歌舞伎のあのメンバーで『寺子屋』『太十』『七段目』とバリバリの丸本時代物を三本も出して、それぞれに相当の成績を上げたということは天晴れというものだろう。昨夏「朝日」紙上で梅枝が言ったという、歌舞伎役者がすれば何をしたって歌舞伎なのだ、とかつて初代白鸚さんが言ったという名言は今や過去のこと、という若手俳優としての率直な発言が、じわじわと若手たちに輪を広げ始めた表れと見るのは甘過ぎるか?

それと直接の関連はあるまいが、伝統歌舞伎保存会の研修発表会が今月一八日にあって、研修生上がりの若手たちで『五・六段目』をするのを見たら、これまたあっぱれの好舞台だった。エライ人たちでやると芸の面白さに隠れて見えなくなる芝居そのもの骨格が現われる。改めて『忠臣蔵五・六段目』というものが作品として如何に優れたものであるかを再認識したが、そう思わせた出演者たちの努力と好演を称えよう。と、もう一つ、教えも教え覚えも覚えである以上、教えるべきことが今もきちんと教えられているのだということを、再確認できたことも喜ぼう。
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浅草公会堂の花形歌舞伎は例によって日替わりの挨拶がある。私の見た日の担当は米吉だったが、いや喋ることしゃべること。水の流れるが如し。TALKという英語が日本語のトークとして定着したのはいつごろからだったろう。あの頃から日本人が、ひいては歌舞伎が変わってきたという言い方もできるに違いない。歌右衛門みたいに、小さな肺活量の胸をゼイゼイさせながら、三階席だとよく聞き取れない小音(という言葉もいつのころからか劇評でも使われなくなった)で、うねうねとセリフを言う役者はいなくなった。軽く、なめらかな歌舞伎。米吉は軽やかにトークを続ける途中、ちょっとごめんなさい、さっきから気になってしょうがないんですと言って立ち上がると、最前、幕の裾をまくって舞台中央に平伏した姿で登場した時、はずみで、敷き詰めた緋毛氈に大きな皺が寄ってしまったのをさっと直すと、またもとの位置へ直ってトークを續ける。現代っ子としての何というスマートさ。と同時に、女方としての何という細やかな心遣い。六段目のお軽が見てみたい。

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『五斗三番叟』を白鸚が出したのはびっくりしたが、そういえば『大蔵卿』を出したのはちょうど一年前の初芝居だったっけ。片や大酒飲み、片や阿呆に韜晦した人物だが、こういう役に興味をもつようになったのだろうか? つまり、大蔵卿も五斗兵衛も、韜晦の陰で一枚上を行く境地を楽しむかのような人物である。とすると、これはちょっと面白い。幸四郎の名を譲って白鸚という高等ご隠居となってなお、身体は健康、意欲は旺盛、心は高く、と三拍子そろってシルバーパス世代の最も良き終活ぶりではあるまいか?(尤も、ご自身シルバーパスを使って都バスで楽屋入りはなさるまいが。)

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その白鸚の今月の出し物『河内山』と『五斗三番叟』で、どちらも芝翫の暗君(松江候・義経)、歌六の忠臣(高木小左衛門・泉三郎)、錦吾の佞臣(北村大膳・錦戸太郎)と全く同じ構図の役どころで全く同じ顔ぶれが揃うのは、普通なら気が利かない配役と批判されるところだが、こう見事に揃ったところを通して見ると却って面白い効果がある。芝翫の松江候など、ご本人はべつに悪い人間ではなくただ生まれっぱなしのまま権力者になってしまったようで、しかもあの立派な役者ぶりが利いている。はまり役と言ったら気を悪くされるかもしれないが、近頃での松江候と言っていい。

それにしてもこの『義経腰越状』なる芝居、『五斗三番叟』は二世松緑という良き後継者がいたためにこうして辛うじて伝承されているが、肝心の『鉄砲場』が出ないと『千本桜三段目』を「椎の木」だけ出して「鮨屋」を出さないようなものだから、わけのわからない芝居となって久しい。冗談ではない、今の内に何とかしなければ。この際白鸚に『鉄砲場』の五斗兵衛も頑張ってもらうとして、吉右衛門に泉三郎を付き合わせ!関女を魁春というのは如何であろう?

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菊之助が「ナウシカ」での負傷も心配されたほどではなかった由なのは本当によかったし、『令和仇討』も国立恒例の菊一座の正月物としては作も面白く脚本もすっきり出来ていてこれもまずは重畳。菊五郎を王将に、菊之助と松緑の飛車角という布置もよく、確かに「菊一座」ではあった。

ところで旧聞ながら『風の谷のナウシカ』だが、私の見たのは菊之助の負傷の後だったのでまともな評はできないが、いろいろな方々の評判を聞くにつけ思うのは、劇化の方法としては(1)今回のようにできるだけ物語の要点をマメに辿って大筋を追うか、(2)原作の要所・作者の哲学を掴んでそれだけを圧縮して提示する。そのためには上演時間は短くて構わないという、そのいずれかしかないわけで、前者をよしとする人は拍手を送り、後者にすべしと思う人は鳴り響く喝采に眉をひそめながら家路についたことと思われる。昔から「戦争と平和」でも「アンナ・カレーニナ」でも、何度も映画化されているが、作者の哲学が盛り込まれた大長編を映画化なり劇化なりすると、どうしても主人公とヒロインの筋を追うメロデイドラマになってしまう、原作の味や本当の意味を知るには原作を読むべし、となるのが常道である。

『風の谷のナウシカ』を見ながら思ったのは、これは現代の生んだ『南総里見八犬伝』だということだった。作品の趣意とカタチ、双方から最も通底する。汚濁に満ちた世に理想の国を実現せむとする物語である。「風の谷」という小さな谷間の郷、南房総という、海上に半ば以上も突き出した半島という小国でこそ、雛型としての理想卿を実現し得る。いやそれすらも、実は夢想でしかないかもしれぬ。と、そういう曲亭馬琴の壮大な夢も、これもいくたびか映画化・ドラマ化された「八犬伝」物が、粗筋とヒーローたちの活躍を追うチャンバラ活劇となり、原作は読みもせず錦ちゃん千代ちゃんのチャンバラなど見向きもせぬ知識人たちから黙殺されてきたのに比べれば、今回の「ナウシカ劇」への世人一般の好意の寄せ方は以て瞑すべきであるかもしれない。もっとも、そうは言うものの、今度のような「良心的な」台本作りをしても物語を追うという形を取る限り、幕が開くごとに舞台に展開するのは戦いの場、つまりチャンバラ場面にならざるを得ないのは致し方ないところか。

見ていると菊之助のナウシカよりも七之助のクシャナの方が溌剌と輝いて見える。やはりここにも負傷の影が落ちているのかと思ったが、初日に見た人の言でも七之助の方が生き生きと見えたと言う。なるほど、こういう物語だと主役はどうしてもマジメな優等生にならざるを得ないのが常道だ。武蔵よりも小次郎の方が格好良く見えるのと同じデンであろう。八犬士でも信乃よりも悪の要素がある道節や毛野の方がチャーミングだ。

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同日の訃報欄に重光武雄・日下田実という二人の名前が載った。まるで関連のないようなお二人だが、私の遠い記憶を呼び覚ますにはどちらも充分な名前である。片やロッテの創業者。終戦直後、私がほんのガキだった頃に俄かにはやり出した、風船ガムという代物、子供心にもいかにも敗戦後の安っぽい戦後文化の象徴のように思えた。安菓子の背後に広がる社会というものを、小学校に上がったかどうかという程度の子供にも想像させた、もしかしたら最初の事例であったかもしれない。つまり、私にとってのイニシエーションのシンボルとして感慨なきを得ない。

日下田氏は、日本隊によるマナスル初登頂のメンバーの由。実はこの方の名前は知らなかった。こちらは1956年だから私は高校生だった。イギリス隊によるエベレスト初登頂が3年前のことで、新聞に登山隊の隊長の登頂日記が連載されていたのを子供なりに読んでいた。今みたいに、ほいほいと登頂する人が出てくるなど夢にも思えない至難の事業のように思われた。日本隊のマナスル征服はそういう時期のことだから大変な快挙だったわけだが、隊長の槙有恒という人はオールド・アルピニストして一般にも知られた瀟洒な紳士で、登山とは山に上って下ることである、という名言を吐いたのはこの人であったと覚えている。通っていた高校でこの方を招いて全校生徒を相手に講演をしてもらうということがあった。そのときに実際に登頂した隊員を一人連れてきたのだったが、つまりそれが、もしかするとこの日下田氏であったかもしれないという、なんとも回りくどいお話である。ヘイ、ご退屈様、という格好だが、数年を隔てているとはいえお二方の名前が同じ紙面に仲良く並んで記事になったというのは、ちょっぴり感慨深いものがある。

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田淵の野球殿堂入りのニュースが大きく報道された裏ニュースのように、特別表彰として 前田裕司・石井連蔵の両氏が殿堂入りという報にはやはり感慨がある。いまからみれば、六大学野球が大きなニュースになり得た、ともかくも古き良き昔という言い方が出来た頃の早慶両大学の野球チームの監督である。早慶六連戦という言い方で、これは今でも伝説的にかなり知られているが、実感を伴って覚えている世代となるとこれまたシルバーパス世代ということになる。前田・石井両氏はその六連戦の時の両校監督であったわけだ。1960年昭和35年というのは、4月に入学するとすぐ安保騒動があり、秋に野球の六連戦があった、と年表風の記述にすればなるであろう。ま、かくいう私もその年の入学生ということになる。つい先ごろ、石原裕次郎と芦川いづみ主演の「あいつと私」という翌62年制作の日活映画を懐かしさにつられて日本映画チャンネルで見たが、これがこの60年安保の年の新入生という設定になっている。映画はお定まりの石坂洋次郎ものだが、芦川いづみの女子学生が語り手で、「あいつ」というのが裕次郎で「私」というのが芦川自身ということになっている。もっとも、映画には安保反対のデモは出てくるが野球の話は出てこない。

あの頃の神宮球場はまだ学生野球だけのものだったから今のようにフェンスや鉄塔に広告というものは一切なく、外野席も芝生だった。野球見物よりデートに利用する男女の姿もよくあった。プロの球団が本拠地にするようになったのは、当時の東映フライヤーズが本拠の駒沢球場をオリンピックの競技場にするというので召し上げられたために引っ越してきたからで、玉突きの理屈で東都大学リーグが半ば追い出されたため、隣接してあった野天の相撲場をつぶして第二球場を作ったのだった。この相撲場は本来アマ相撲のためのものだが、終戦間もなく、旧両国国技館が進駐軍に接収されメモリアルホールとなってしまったために、大相撲が本場所を開催したのを見に行ったのをかなり鮮明に覚えている。金剛力士のようと例えられた羽黒山と相撲人形のように優美な照国が東西の横綱だった。二人とも、今なお、私にとっての横綱というもののイメージの原点となっている。

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さてその相撲だが、徳勝龍という伏兵が一躍、躍り出して、普段相撲など見向きもしない民放でも騒ぎ出している。じつは二日目に遠藤が白鵬に勝った瞬間の舌なめずりのことを書こうと思っていたのだが、どうでもよくなってしまった。

徳勝龍は今場所は突き落としの方が話題になったが、これまではむしろ「とったり」で勝つ相撲が目立つ力士だった。相手が差しに来るか、前まわしを狙って伸ばした手を取るとあの肥満体で引っ張り込んで振り回す。と、相手は、あの巨体だから挟み込まれた手を容易に抜くことができず、振り回されてしまう。これが結構うまくきまるのが善し悪しで、取り口が消極的になりがちで星が上がらない、というのがこれまで徳勝龍だった。5年ほど前になるが、安美錦がこの「とったり」に引っかかって怪我をして途中休場に追い込まれたことがあった。前日まで8勝1敗と快調だったところでもあったから、以後私は徳勝龍憎しの念が頭から離れずに来たのだったが、まあ、こんな手に引っかかった安美錦の方も不覚であったわけで徳勝龍に責任があったわけではない。ご覧のように見た目も相撲取りらしい愛嬌があって、見た目も取り口もどれがどれやら何年見ていても区別がつかない同じタイプばかりの近頃の力士の中では特徴がある方だから、これを機に人気者になっても不思議はない。

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この場所の十四日目に新天皇ご一家の天覧があったが、幕の内の後半からということだった。つまりこの日の眼目、徳勝龍と正代の一戦は(控室のテレビには写っていたかもしれないが)ご覧にならなかったわけだ。先ごろの上皇ご夫妻の時もそうだった。かつて昭和天皇の頃は、中入りの際に着席され、土俵入りから幕の内の取組みすべてを上覧に供していたと思う。これは、どうしてこうなったのだろう? 

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豪栄道が引退したが、この人で一番いいと思うのは体形の良さで、縦横の均整がひと世代ふた世代前の力士のようで、200キロも珍しくない今様の巨漢と違っていたことだった。精神力の強さが言われるが、私はこの人、じつは案外小心なのではないかと思っていた。徳勝龍の「とったり」ではないが、この人の「裏の」得意技は「首投げ」でこれがまたよく決まりもしたが墓穴を掘る元凶ともなった。たまたま見に行った日に白鵬を「得意の」首投げで鮮やかに土俵下に投げ飛ばしたことがあった。起き上がった白鵬は、花道に突っ立ったままいつまでも土俵に戻ろうとしない。呆然と、というより、現実を認めたくない、といった風にも見えた。行司の判定に不服があって、物言いのつくのを暗に求めていたのかもしれない。白鵬の態度言動に、私が時折疑問を覚えるようになった最初でもあった。

本来押し相撲ひと筋の取り口、横綱に手が届くだけの戦績をあげられなかったが努力型の真面目が好感を招く元であった点等々、昭和30年代後半に大関を張った栃光に共通点を見る。大関のままで引退した引き際も同じである。好力士であったことは間違いない。

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国立劇場で「出雲神楽」の公演を見たのは、偶然だが初場所の十四日目、徳勝龍がまさかの優勝を目前にしたのと同日だったが、演目のひとつに「野見ノ宿祢」があった。宿祢は出雲、相手の當麻ノ蹴早は大和、つまり徳勝龍の国の先輩というわけだ。この一戦で野見ノ宿祢が當麻ノ蹴早に勝ったのが相撲の発祥ということになっている。ここでは蹴早はいわば敵役だが、見ていると野見ノ宿祢より格好いいのは、ナウシカよりクシャナの方が格好いいという原理がここにも働いているということか。

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ところでこの出雲神楽の番組の中で、囃子方が踊り手の所作の間合いを計っては「せーの」という掛け声をかける。なるほど、「せーの」という掛け声はここから来るのか。少なくとも、この人たちがこうした場で使う「せーの」という掛け声にはそれ相応の味わいがあって悪くない。

ところで、実は私はいまもって、この「せーの」という掛け声をしたことがない。東京に生まれ育った者として、子供のころ「せーの」という掛け声は聞いたことがなかった。それが(それほど遠くない)いつのころからか、世の中誰かれなく「せーの」一点張りになってしまい、子供のころから使ってきた「イチ、ニッ、サン」もしくは「イチ、ニノ、サン」、大勢でゆっくり声をそろえる場合には「イチ、ニイのぉ、サン」という掛け声はとんと耳にしなくなってしまった。私と同世代以下の誰かれなく、みなみな「せーの」派になってしまったのだろうか。相撲界では、横綱の綱打ちのとき、関取衆からふんどし担ぎまでみんな揃って綱を編むのに、太鼓をトントントンと叩くのに合わせて「ヒノ、フノ、ミ」と言うのだと覚えているが、今もそうなのだろうか。「ひー・ふー・みい」という、「一、二、三」というのよりもう一つ古風な数え方も聞かなくなってしまったいま、危うい限りだ。

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書こうと思ってメモをしておいた話題はまだ何項目かあるのだが、長くもなるし今更そう急ぐこと

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