『三太と千代の山』は、昭和27年9月18日封切りの新東宝作品だが、新理研映画株式会社製作とクレジットにある。上映時間約46分という短尺物で、私が虎の巻にしている昭和38年発行の『キネマ旬報』増刊の「日本映画戦後18年総目録」は昭和20年8月15日から昭和38年8月15日までの間に封切られた日本映画全作品をリストアップしたものだが、それによると、古川ロッパ主演の『さくらんぼ大将』と同時に封切られている。二本立だったわけだが、実はこの二本とも、当時人気のラジオドラマ、その頃の言葉で言う放送劇の映画化である。『三太物語』がNHK、『さくらんぼ大将』が前年末に開局した、この時点で唯一の民間放送だったラジオ東京。テレビというものがまだ存在しないこの当時の放送劇の質量ともに隆盛だったことは、現代の人がもっと認識して然るべきで、『君の名は』や『笛吹童子』だけが特別だったわけではない。ウィークデーには毎日夕方の5時~6時台が子供向け、ないしは家族向けの連続劇が15分づつ(NHKの朝ドラが今なお続けているあの形式こそ、往年の連続放送劇の形式の流れを汲むものである)、日曜日にはもう少し長い時間のもの、というケースが多かった。(いまもなお振袖姿で矍鑠としている黒柳徹子女史の売り出した『ヤン坊ニン坊トン坊』は毎日曜6時台、家中で聴く番組だったから、『笛吹童子』や『紅孔雀』のように子供には絶大な人気でもお父さんは聞いたことがない、というのとは違っていた。)『三太物語』にしても『さくらんぼ大将』にしても、夕方になると、仮に我が家では聞いていなくとも、近所のどこかしらの家から放送時間になるとまず主題歌が聞えてくるから、誰もがその歌を聞き知っていた。(どこの家もあけっぴろげの木造住宅だった。)実をいうとどちらの番組も私はそれほど熱心なファンだったわけではないにも拘らず、いまでもフッと、『さくらんぼ大将』のあのロッパの特徴ある歌声を耳朶に蘇らせることが出来る。そこが昭和20年代と現代の決定的とも言える違いなのだ。
ところで『三太物語』だが、丹沢の奥というか裏というか、甲州と神奈川県とが合する辺りを流れてやがて相模川に注ぎ込む道志川という川のほとりの山村が舞台で、毎回必ず、「俺ァ三太だ」という主人公の少年のナレーションで始まることになっていた。作者の筒井敬介は当時売れっ子の放送作家で(テレビ草創期、いまの十朱幸代がデビューした『バス通り裏』の作者もこの人である)、私がやや敬遠していたのは少々学校推薦風の匂いも感じ取れたせいもあったが(よしそうであったとしても、それはまたそれで、いまとなっては懐かしいが)、凡その人物設定や、ストーリーの語り口や運び方は自ずと知っている。小学校の高学年と思しき三太少年とその家族、学校の友達、村人の誰彼、先生たちといったおなじみの人物たちが繰り広げる小宇宙を舞台とした物語である。中でも花荻先生という若い女性の先生が子供たちのマドンナで、山本嘉次郎脚本の映画でも、その舞台背景、ストーリー展開はほぼそのままに繰り広げられる。
仙爺と呼ばれて鮎釣りの名手として自他ともに許している三太の祖父(徳川夢声がやっている)が、化け物の祟りだと言って寝付いてしまう。三太は迷信だと笑うが、結局、それから始まった顛末で、この道志村へ大相撲の(といっても当時の巡業は各一門ごとにすることが多かったから)横綱千代の山一行の巡業がやって来て、三太が千代の山に鮎釣りの穴場を教えてやったことから親しくなり、次の本場所に招待してくれることになる。という主筋に、結婚退職したマドンナの花荻先生が川で泳いでいて失くした結婚指輪をめぐる脇筋が絡んで、藤原釜足演ずる校長から特命を受けて三太は先生のために毎日川に潜って探すが見つからず(先生は指輪を失くしご主人に叱られて泣いているらしい)、却って足を負傷してしまう。やがて千代の山が約束通り送ってくれた秋場所の入場券を、オラの代りに行ってくださいと花荻先生に譲ったのだったが、やがてその当日、ラジオの実況放送で(ここでも、アナウンサーは和田信賢である)千代の山優勝の報を聞いたところへ先生夫妻がやってきて、ごめんなさいね、指輪は今朝、家にあったことがわかったの、ということになる。千代の山の雄姿を見損なった残念さに、憧れだった花荻先生の、結婚してフツーの大人としての一面を見てしまった淡い喪失感が重なって、ひとつ大人になるという、いうならイニシエーション・ドラマなわけだが、花荻先生は若き日の左幸子で、当時の輝くばかりの瑞々しさというものは、同じ頃に作られた『思春の泉』(「草を刈る娘」改題)などを見てもそれまでの日本の女優にはないものだろう。この作でも道志川の淵で泳ぐ姿の美しさというものはいま見ても凄い。(昭和32年9月封切りの中平康監督『誘惑』というのを、私はこの女優の代表作と考えているのだが、もう一度めぐり会いたいものだ。)
こうしたストーリーの中で、巡業の一行に二、三日先立って鮎釣りにやって来た千代の山と仲良くなった子どもたちとの交流の場面で、千代の山がかなりの量のセリフを言って、千代の山自身を演じる芝居をする。『エノケンのホームラン王』における巨人軍の選手たちと同じデンだが、千代の山と言っても、往時を実見していず記録だけから判断する当世のオタク相撲通にはピンとこない惧れがあるが、当時の千代の山というものが如何に大変なスターであったかを知ることが、まず必要になる。幕下当時から稀代の逸材と言われ、いうなら、一世代後の大鵬級の大横綱になるものと期待されていたと思えば話が早い。前に『川上哲治物語』のところで書いた『土俵の鬼若乃花物語』『名寄岩涙の敢闘賞』『褐色の弾丸房錦物語』といった人気力士の伝記映画がしきりに作られたのは、これから数年後のいわゆる栃若時代の相撲人気絶頂のさなかだったが、これはそれより数年先、テレビのない当時、相撲雑誌のグラビア以外では力士の顔も体型も知るすべがないままに、すべてはラジオを通して熱狂していたのである。そういう時代の、千代の山は少年ファンの憧れの第一だったのである。
三太たちがラジオの中継放送で聴いている秋場所千秋楽の千代の山が優勝を決める一戦は、画面では蔵前国技館での実写で(まだ仮設国技館といっていた蔵前国技館の外観が映るのが息を吞ませる)千代の山と照国の取組みと(勝負のついた場面が出ないのは照国の名誉のためであろう)、優勝杯を出羽海理事長、優勝旗を時津風親方(つまり双葉山である)から千代の山が受け取るショットが写るが(後に言うように現実の秋場所はこのようにならなかった。照国との一戦、優勝杯と優勝旗を受けるショットは、おそらくその前年に大関で優勝した折のフィルムであろう)、相撲の場面としてはそれ以上に、三太たちの住む隣村で興行された巡業の場面が素晴らしい。体育館や公民館といった公的施設で行なう今日の巡業と違い、野天に土俵を作って行ったかつての巡業風景としても貴重な映像と言える。付け人が総がかりで千代の山の横綱を締める光景や、出羽錦と鳴門海を太刀持ち・露払いに従えて土俵入りをするショットから、当時まだ関脇だった栃錦が胸を出して激しいぶつかり稽古をするのを、出羽錦、信夫山、鳴門海、大起、羽島山、八方山といった出羽の海一門の力士たちが見守るシーンなど、眼を皿のようにして見ても足りない。(当時は都内にも巡業が廻ってきたものだった。大塚駅前の広場に二所ノ関一門の巡業がやってきて、当時小結だった初代若乃花や内掛け名人の琴ケ浜やガダルカナル帰還兵の怪力玉ノ海や、速攻の先代琴錦らを見たのも、近くの中学校の校庭に出羽の海一門の巡業が来て、前日に新横綱としての土俵入りを明治神宮に奉納したばかりの栃錦を見たのも(もちろん千代の山も)、この映画の一年後、二年後のことである。)
ところで、昭和27年9月封切りのこの映画のこうした場面は、おそらくその夏に撮影されたものと思われるが(物語も、巡業の一行が来て間もなく夏休みとなり、花荻先生の指輪の一件があって、やがて新学期、秋場所という風に展開する)、実はこの夏を転回点として、現実の千代の山の力士人生は思わぬ方へ大きく転じてゆくことになる。映画の中で千代の山が優勝した筈の昭和27年秋場所は、それまで卓抜の技能力士ではあっても関脇どまりと思われていた栃錦が優勝、大関となり、その後の大成への第一歩を踏み出すことになったのと対照的に、千代の山は不振がちとなり、翌年の春場所中に自ら横綱返上を申し出るという事態となる。返上問題自体は、真面目で誠実な人柄を反映したもので、協会も受理せずに落着、その後復調して会心の全勝優勝を果たしたりもしたが、大局的には、土俵の趨勢は千代の山に戻ってくることはなかった。三場所制から四場所制へと移る時期に通算6回という優勝回数は横綱として一級と言えようが、期待と前評価の大きさから見ると、やや悲運の人という翳が差すのは否めない。それだけに、その誠実でやや弱気(ですらある)強豪力士のたたずまいが一種の悲哀を帯びつつ懐かしく思い出されるのだが、『三太と千代の山』はちょうどその運命の転回点の直前の風貌を、奇しくも捉えていることになる。
映画のちょうど一年後の昭和28年秋場所の二日目、友だちと大塚駅前から厩橋まで、すなわち都電16番線の始点から終点まで乗って蔵前国技館で朝の一番相撲から結びまで観戦した打出し後の帰りがけ、ちょうど通りかかった売店の暖簾を上げて、店の人と談笑していたらしい笑顔を残したままの千代の山が、見上げるような長身をぬっと現わした。中学生にとってのこうした一瞬の記憶というものは、おそらく呆けたのちまで残像を残してくれるに違いない。実はこの場所は、その春に横綱返上問題を起した千代の山の再起の場所だった。