またしても随分とご無沙汰をする羽目となった。9月1日の午後、この第622回のブログを書いている最中、チチチ、といった音がしたかと思うと、パソコンがエンコしてしまったのである。直ちに入院、(我が家から徒歩で6~7分という近間にほどほどの規模のヤマダ電機があるのが天の助けで何かといえばそこに持ち込むことにしている。あれが、いわゆる量販店という規模だったら、店内に入っただけで、入鹿の御殿に迷い込んだお三輪のような状態になるに違いない)、無事退院してきたのが9月ももう末、ところがそれからの約3週間、一日の欠けもなく外出、その中には沖縄まで行ってくるというような椿事があったり、歌舞伎座の『三人吉三』と新橋演舞場の『オグリ』がダブルキャストなので二度足を運ばなければならないということがあったり(新聞の歌舞伎座評が出るのが23日と、楽日近くになってしまうのは、新聞の方の紙面の都合もあったが、松也と梅枝と、ダブルキャストのお嬢吉三を見るにも一週間も間が空いてしまったからである)、その間、それほど長いものではないとはいえ4種類の原稿をが重なったり、その他何やかや、体が休まる折とてなかったからだ。パソコンが入院してから6週間、退院してきてからでも3週間、ようやく、この原稿を書いている。書きかけたものは出そびれた幽霊みたいになってしまったし、さて、どう仕切り直しをしたものか。
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がまあ、せっかく途中まで書きかけたことでもあるし、8月9月10月、3か月間のことが抜けてしまうのもナニだから、簡略に続けることにしよう。
で、まず8月の諸舞台のお噂から。「音の会」(ねのかい)というのは、正確に書くと「国立劇場歌舞伎音楽既成者研修発表会」という。要するに長唄鳴物、竹本、常磐津、清元など歌舞伎の音楽を担当する演奏家の若手の発表会で、今年で21回を数える。例年八月初旬の二日間と日数も少ないし、観客も多いとは言いかねるが、この会に実は隠れたミソがある。毎回、三つ四つのプログラムが並ぶのだが、舞台に演奏者が居並ぶという、たしかにあまり一般受けはしないような形が続く中に一つ、役者が出て本格の舞台を見せるのだが、これが毎回、ちょいと味な配役なのである。今回は「義太夫舞踊」と角書きを付けて『妹背山婦女庭訓・道行恋苧環』、お三輪が京妙、求女が京純、橘姫が京由という配役、この京妙のお三輪が素敵な出来であった。誰かさんの言い草ではないが「感動した!」と叫びたくなったほど。求女役と橘姫役がはるか後輩で型をきちんとなぞっているという段階なのが、却ってお三輪の置かれている状況をくっきりと浮き彫りにするという効果もあって恋心と妬心を一層精彩あるものに見せたということもあるが、お偉方やスター役者のとはまた違う、質実で手触りのよさが生命である。歌舞伎座の納涼歌舞伎も含め今月はこれが一番の白眉、一番の眼福であった。以前にも、京蔵のおとくに又之助の又平で『吃又』とか、雁之助の玉手に京蔵の俊徳丸、京妙の浅香姫に新蔵の合邦道心で『合邦』などというのを見たのも、この「音の会」だった。年に一度の夏の夢、なまじ有名になってあまりわいわい押しかけてもらいたくないといった、穴場ファンのようなケチくさい根性もないではないが、ラーメン屋の品評ではあるまいし、こういうものをきちんと評価しないのはよろしくないし、知らずにいるのはもったいない、やはり書いておくべきであろうと思い直した次第。
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歌舞伎座の納涼芝居。第一部と第二部は新聞に書いた通りでまずよろしいと思うが、第三部は、まあ、何と申しましょうかと、またしても往年の小西徳郎さんの野球解説の口真似をするしか知恵が回らない。40年来の知人でT&T応援団の頃からの玉さんごひいきの女性が、一幕目のすんだところで、これで帰りますと言い残して帰ってしまったのに、フーム、と唸った。後日、長文のメールを頂戴、いろいろ感想が述べられていたが、それをここに書き写すのはしのびない。
まあ、これが歌舞伎座の本興行でなく、いまはなくなってしまったが、かつての銀座セゾン劇場あたりで「玉三郎特別公演」とでも題した公演だったなら、また違った目で見ることも出来たかも知れないのだが・・・。少なくとも、三階席からでは肝心の映像が下半分しか見えなかった、といった声は聞かれずにすんだだろう。
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「音の会」もそうだし、恒例の「稚魚の会・歌舞伎会合同公演」もだが、8月から9月にかけ、尾上右近の「研の会、鷹之資の「翔の会」など、既に回数も重ね知る人ぞ知る存在になっているものに加え、梅玉一門の「高砂会、九團次と広松の会などの新規参入もあり、歌昇・種之助兄弟の「双蝶会」は今年は休会であったにもかかわらず、この夏はこうした自主公演や勉強会を見て回るのに幾日かを費やした。かれこれ20年ほど前の前世紀末の頃にも似たような現象がもっと盛んにあったのが、その後、真夏にも納涼歌舞伎など本興行だけでなく、地方公演やなにやかや、盛んに行われるようになり、そうなると、下回りの役者たちはそうした公演にお供をしたり、実際に役が付いたりで真夏でも体が空くことがなくなり、おのずと、こうした会もなくなっていたのが、この数年来、次第に盛んになってきたものである。
目指すところはそれぞれだから、「翔の会」のように今回で一旦お仕舞いという会もある。今回は、初代富十郎300年祭と謳って、妹の愛子が『京鹿子娘道成寺』を全曲踊り、鷹之資自身は『英執着獅子』を踊った。勉強会でこんなことができるのは亡き父の余光というものだが、まだ10代の文字通りの娘さんが踊る『娘道成寺』というのは何とも言いようのない面白さがあった。「恋の手習」のくだりは文字通り「娘」として踊るのだが、こういう会ならではの愉しさ面白さだ。『英執着獅子』は、本当は『鏡獅子』を踊りたいところを、その前に、ということか。獅子になってからは結構なのだが、前段の姫の間、肩がこんもりと怒(いか)っているのが、ちとおやおやと思った。古典劇俳優としての基礎勉強というのがこの会の趣旨、今回でひとまずお開きというのは当初の目標達成ということだろう。まずはおめでとうだが、「双蝶会」が今年は休み、「研の会」が明年は休みというのも、一人前(以上か)の役者としての階梯を上って来たればこそのこと、「高砂会」の発足は梅丸が莟玉襲名を迎え、足場を固めようとのことだろうか。
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秀山祭が、三世歌六百回忌追善と謳った演目を昼夜に並べたに留まったのは、あくまで秀山祭という枠内でという趣旨であろうが、50年前の昭和46年に、50回忌追善というのを17代目勘三郎が祭主となって、鳴り物入りの大興行として行なったことがあった。あれがもう50年前だというのも驚きだが、今度と同じ『沼津』に『松浦の太鼓』を出して17代目が平作に松浦候をした。当時東宝在籍中の8代目幸四郎(つまり初代白鸚である)を引っ張り出して十兵衛をつきあわせた上、『口上』の席にも連ならせ、7代目梅幸、13代目仁左衛門に我童から二代目又五郎から、現吉右衛門はたしか日比谷の芸術座で若尾文子と『雪国』をやっていたのを掛け持ちをさせたり(朝幕で『大蔵卿』をしたのだった。私としてはこの時が初見参だった)、現白鸚の染五郎は(そうだ覚えている、この時だったのだ!)『ラ・マンチャの男』をブロードウェイでやっている最中だったからまさかこれは掛け持ちというわけにはいかず・・・といったようなことが面白おかしく伝えられ、『口上』の幕では、得意満面の17代目が「ここに並び居ります者はすべて親類でございます」と挨拶し(これが言いたかったのだ)、その間柄を説明して、幸四郎と吉右衛門は父子かと思うと義理の兄弟でもあります、てなことを言って笑わせたり、といった中で、13代目仁左衛門が下手の留めの席並んでいたが、17代目の系図説明に憮然とした面持ちの白鸚と対照的に、なぜ片岡家と播磨屋・中村屋が親類関係なのかを8代目仁左衛門と初代歌六の代にまで遡って説明、本日はこの席に「倅・片岡孝夫を召し連れまして馳せ参じましてござりまする」という口上の、声音がいまも耳に残っている。その召し連れられた倅の孝夫(という存在が東京ではようやく知られ始めたころだった)の現・仁左衛門は、父の隣りの心もち下がった位置に控えていた。この時の17代目の平作(この時が初役だった)がぎょっとするほど三代目歌六に似ていたと、三代目左團次が語っているが、昭和46年からさかのぼること50年の大正8年の1919年といえば、まだ見覚えている人も少なくなかったわけだ。(それはそうですよね、現に私も50年前のむかし話を、いまこうして書いているのだから。)
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10月の歌舞伎座は、『お祭左七』で見せた菊五郎の思いの深さと気迫、また心意気と、『三人吉三』の歌六の土左衛門伝吉の落魄の老盗賊ぶりの二つに尽きる。『お祭佐七』は名作か愚作か。思い様によってどちらでもあるだろう。作者の三世新七は、『籠釣瓶』に見る如くまた『番隨長兵衛』序幕「山村座舞台」に見る如く、作劇のテクニックは師匠譲りの老巧者だが師匠黙阿弥のような詩魂も人間観照も持っていない。だがそういう作者だからこそ書けた名作がこの『お祭左七』なのだ。明治31年は西暦1898年、明治はすでにふた昔の過去となり、再来年はもう20世紀という時になって『お祭左七』のような作品を書いた。もちろん新七とて、時代の推移というものを思うこともあったろうし、そこになにがしかの感慨を抱きもしただろう。しかし彼は、そうした時代の潮流とか時世とかいったものを芝居に反映させるような才覚は持ち合わせなかった、そんなことは考えもしなかった。彼はただ、過ぎ去った江戸を、江戸の人々を、つまりは江戸というひとつの文明が醸成した「気分」とか、そこに生きている人々の「気質」とかを、習熟した、もはや時代遅れとなりつつある手法で書いたのだ。江戸っ子は皐月の鯉の吹き流し威勢ばかりで腸(はらわた)はなし。五月の空に威勢よく泳ぐ鯉のぼりに、いや江戸の人間に、思想も哲学もありはしない。あるとすれば、気っ風だけだ。その、江戸育ちの気っ風を、これほど、ひとつの類型として描いた作は他にはない。とすれば、これはやはり、名作というべきではないだろうか? 個性などというものを、この作者は考えたこともなかったろう。そういう作者だからこそ、一文明の生み出した「典型」を描き出すことが出来たのだ。
この作は、歌舞伎座の筋書巻末の上演記録を見れば解るように、戦後70余年に数えるほどしか上演されていない。終戦直後にまだ男女蔵時代の三代目左團次がしたのは見ていないから、昭和戦後歌舞伎の手練家の演じる佐七を見たのは十一代團十郎と勘彌と三世権十郎の三人だけである。この中で、最も佐七らしかったのは権十郎だった。とりわけ昭和62年の歌舞伎座で雀右衛門の小糸で演じた時のは、まさに江戸の残照を見る思いだった。今度の菊五郎は、海老蔵よ、菊之助よ、松緑よ、見ておけよ、という一心だったに違いない。その気概が惻々と伝わってくるようだった。
歌六の土左衛門伝吉は、私の見た限りの誰のよりも、その人物らしく思われた。私の見た『三人吉三』で最も忘れ難いのは昭和四十一年二月の歌舞伎座、二世松緑の和尚に梅幸のお嬢、十七代勘三郎のお坊というのが一番濃い味だったが、その時の伝吉は八代目三津五郎だった。その後の伝吉でまだ多くの人が覚えているのは十七代羽左衛門だろうが、控えめに言っても、今回の歌六はこれらのビッグたちと並べられて然るべきだと思う。お坊吉三に向かって「小僧、言うことはそれ切りか」というセリフを、俺も言ってみたいと思う人は、したり、と胸中叫んだに違いない。
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『オグリ』のことは「演劇界」に書いたのでそちらを見て下さい。国立の『天竺徳兵衛』は、ノーコメントとさせてもらいます。
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ここからは雑報。
ずいぶんと旧聞になってしまったが、入江洋祐、白石奈緒美などという名前を訃報欄で見つけた。どちらも84歳とあった。昭和も30年代に入って民放ラジオが盛んになり、NHKの「放送劇」とはかなり違ったテイストの「ラジオドラマ」 が盛んに聞こえてくるようになった、と思うと今度はテレビがようやく普及しはじめ、アメリカ製のテレビドラマが次々とブラウン管から流れ出して「ニホン語を上手にしゃべるアメリカ人の役者」が茶の間を席捲するようになった。声の吹替え、という新しいジャンルの俳優が誕生したのだ。それ以前からあったNHKの東京放送劇団・大阪放送劇団といったものとは一線を画するように「声優」という新語が出来るまで、若干のタイムラグがあったと思うが、実際にはどのぐらいだったろう。まあ二人とも、その名前を聞くだけで、あの時代の妙に白じらした空気がいまはなつかしく思い出される。
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昭和天皇「拝謁記」なる田島道治初代宮内庁長官という方の手になる詳細なメモがこの夏公表されて話題となったが、ちょうど孝太郎が歌舞伎座で『勧進帳』の義経をしているさ中、このメモが書かれてゆく過程を一種のドキュメンタリー仕立てにした番組がNHKで作られ、放映された。何も知らずに、何となくテレビをつけたら、見たことのあるような俳優が天皇の役をしている、ハテ誰だろうと目を凝らすと、なんと孝太郎だった。橋爪功が田島長官役で、講和条約が発効となった昭和27年までの数年間、新憲法の下での天皇の在り方についての二人の話し合いが、淡々と続くのだが、内容への興味もさることながら、孝太郎のつとめる昭和天皇ぶりから目が離せない面白さだった。芝居のようであって芝居ではない、もちろんドラマの演技とは非なるものなわけだが、演技であることもまた間違いない。ふと眉を曇らせて黙考したり、抑制された中にも気持ちが高ぶったり、といった心の揺れや、照り陰りが、いかにも的確に(と思われるかに)「演じられる」 のが、じつに面白い。あっぱれの名演技というべきであろう。折から歌舞伎座で演じている義経とおのずから二重写しのように見えてくるのが、これは制作者の感知しない妙趣と言える。
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東京新聞の「私の東京物語」という連載に、中日ドラゴンズの杉下茂氏の文章が載ったのが面白くて10回分全部、切り抜きを作ることにした。戦前の昭和10年代から戦中を挟んで、戦後20年代、といったあたりの東京の風景が、簡潔にしかし鮮明に語られる。戦中戦後の後楽園球場、神宮球場が進駐軍に接収されて六大学野球が西武線沿線の上井草球場で行われたこと(私はこれを、父と兄とにくっついて見に行ったのを鮮明に覚えている。東明戦で、東大が勝ったのだった。このシーズンの東大は、後にも先にもたった一度、二位になったのだった)、それからゲーリッグ球場や、これはずっと後だが、三ノ輪にできた東京球場など、いまは跡形もなくなくなってしまった野球場のこととか。明大出の清水秀雄投手の名前が出てきたのには、オオと思わず声が出た。私が見たのは、もちろん、戦後中日で投げていた時代の清水だが、実に綺麗な投球フォームでひとり他の選手と違うものを感じさせていた。(その頃の中日のユニフォームは、胸にCHUBU NIPPONとローマ字で二段に書いてあった。「中部日本」、つまり「中日」というのは本当は略語なのだ、ということを私は小学校低学年にしてドラゴンズのユニフォームに教えてもらって知ったのだった。)
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バドゥラ・スコダ、バッキ―、逆鉾等々といった訃報に接して、本当はいろいろ語っておくべきものを思うのだが、そろそろくたびれたので、いまは名前を挙げるにとどめ、いずれ別の機会に何らかの形で語る機会を作ろうと思う。澤村大蔵が亡くなって、葬儀委員長澤村田之助代理由次郎、と訃報欄にあった。フーム、とため息をつく。田之助さんは、この前「東横ホール」のことを本にしたとき、喜んでわざわざ電話をくれたのだったが、いずれ、と言ったままになっているのだ。
金田正一。何と言ったって抜群の人だった。往年の投球フォームの映像がテレビの画面に流れたが、あの調子で、キャッチャーからボールが返ってくるのを受けるとそのまま、振りかぶって投球に入る。まるでキャッチボールのようだった。長々とサインをのぞき込んで、もたもたしている姿を見たことがない。投げる、球が返ってくる、受け取る動作がそのまま投球フォームになる、スイスイ投げるリズムが何とも言えない快感を与えた。NHKの追悼番組として、昭和の末頃だったか金田をゲストに迎えた番組の録画を流したのを見た。この番組は当時リアルタイムで見た記憶がある。一つ覚えていたのは、かつて国鉄スワローズでバッテリーを組んでいた谷田捕手がいいおじさんになって出てきて、会場のホールの客席の最後尾にミットを構えるのへ、舞台の上から見事にストライクを投げ込む情景だったが、追悼の録画では、何故か、投げる瞬間だけで谷田捕手のミットへボールが収まる瞬間は映らなかったのが残念だった。