随談第621回 13團、児太郎、安美錦

7月の歌舞伎座は、まだ初舞台もすませていない勸玄坊やの『外郎売』がお目当てで昼の部が即日完売、こちらはめでたく演じ切ったが、夜の部の「成田千本桜」の海老蔵十三團が中途でエンスト、幾日間かが休演という椿事出来(しゅったい)となった。「千本桜」から13役をやろうというのは、かの『伊達の十役』の先例あり、忠臣蔵の7役だか8役だかの早変わりの先例もあり、要はその内容と質のことである。海老蔵の構想としては、「千本桜」という長編物語の全体像を示そうという目論見があったと思われる。こうした構想の立て方は、基本的にはかつて猿翁が「川越上使」を出したり、大詰に「花矢倉」を出すなどした先例に「まねぶ」ところがあったかに推測される。昨年の『出世太閤記』のごとき佳作もあるが、猿之助は当然としても幸四郎にせよ海老蔵にせよ、次代の歌舞伎は俺がと思っている「大望家」(などという言葉があるかしらん)が、大なり小なり、昭和の昔に三代目猿之助の求めたところを求めるという思いから、我知らずの内に猿翁というお釈迦様の手のひらの内を飛び回っている(かに私には見える)。が、それはそれでよろしいとして、要はそのやり方であり中身である。

ここで抜き差しならず絡み合うのが、こうした大義名分の一方、来年と決まった十三代目襲名と絡めた13團という、もう一つの趣向である。大義名分と13團という私事から生まれた洒落(のつもり)の趣向と、どちらが先にあったのかは知らないが、とにかく「千本桜」から13役を一人でやろうという「大望」だ。さてその13役をどう選ぶかだが、劇全体の黒幕である左大臣朝方を登場させ(るからには、もちろん海老蔵自身で演じ)る。知盛・教経・敦盛の首が偽首で三人の平家方が実は生きていたという作者の立てた趣向も明示して、この3役ももちろん海老蔵みずから演じる。さらに、知盛・権太・忠信の三役を兼ねようという意欲も野心も当然あるから、これですでに6役だが、ここまでなら、補綴・演出に名を連ねている諸先生方のお知恵を借りてまあ何とか、格好がつくかもしれない。だがそれでは13團にはまだまだ程遠いとなると、海老蔵たるもの我慢がなるまい。

発端の「大内」と序幕「堀川御所」で朝方と川越太郎に卿の君も芋洗いの弁慶もと欲張るあたりまでは微笑ましいともいえる。が、「大物浦」で知盛のほかに、知盛入水のあとに弁慶で鎮魂の法螺貝を吹いてあっと言わせたい、敵方の武者とみずから芋刺しとなって入水する入江丹蔵の格好良さもやってみたい、というあたりから無理が二乗三乗し始める。がまあ、ここまでは無難の内としよう。ストーリイはともかくも通るからだ。したが三幕目で権太に弥助維盛に加え弥左衛門、さらに小金吾まで欲張るとなると、扮装としては弥助維盛をベースにせざるを得ないから(まさか赤い面をした平家の公達というわけにもいくまい)、なまっちろい顏をした権太がいかにお得意の目力を利かせて睨んで御覧に入れて下さったところで違和感は拭いようがないし、弥左衛門が権太を刺すのは『お染の七役』の早変わりの立ち回りとはわけが違うから、早変わりの面白さよりも話の無理が先に立つ。(定九郎と余市兵衛を早変わりするのと手順はほぼ同じでも、わけが違う。)せっかく権太と小金吾を変わっても、肝心の金を巻き上げる件が満足にできないのでは権太のワルの魅力も減殺されることになる。万次郎の妙林尼がピンチヒッターよろしくいかに妙趣を発揮したところで穴は埋まるものではない。(猿翁もいろいろ破天荒なことをやったが、筋を通すことにはこだわったからこの手の無理はしなかった。)

大詰「川連法眼館の場」とあるが法眼夫妻は完全にオミット、幕が開くと梅玉の義経が板付きで座っている。(この梅玉の立派なこと!)さては法眼館は空き家か? ま、それは目をつむるとして、肝心の狐言葉だが、あれはどうしたことだろうか? 如何に早変わりを見せるのが眼目としても、いやしくも『義経千本桜』の「四の切」を踏まえた上のことである以上、押さえるべきところはしっかり押さえた上でのことでないと大人の鑑賞に堪える芝居にはならない。猿翁は、「四の切」を演じるに当って狐言葉を八代目の竹本綱大夫という当時の名人に教わっている。猿翁の狐忠信がよかったのは、ケレンや宙乗りには批判的な評者にも指を指されないだけ狐言葉がしっかりしていたからこそであり、いまとなってみると、宙乗りやケレン以上に、義経に訴える狐言葉が一番思い出される。海老蔵は13役をつとめながら、結局どれがよかったろうと振り返って印象に残った役というものが思い当たらない。海老蔵の名誉のため、というより、かつて衝撃的な大ブレークをした折、その光源氏や助六や鎌倉権五郎に驚嘆し賛辞を呈した自分自身の名誉のためにも、是非ともこれしきのところで満足して終わってもらいたくない私としては、権太はきちんとした形でやれば良き権太であり得るであろうし、知盛だってあの丈高い役者ぶりから言っても夢はまだ捨てたくないとだけは、書き添えておこう。

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昼の部に、活歴・新歌舞伎・松羽目の狂言物に、昭和に復活した十八番物と、明治・大正・昭和歌舞伎の見本市みたいなプログラムが並んだのは企画したことではあるまいが、夜の部の13團も含め全演目に児太郎が出ている。なかでも『素襖落』で姫御寮をつとめる児太郎に目を瞠った。その凛としたたたずまい、気品と風情。若い人をやたらに持ち上げるのは慎むべきかもしれないが、親まさり、いやひょっとすると祖父まさりかと、筆を滑らせたくなる。

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訃報欄で明日待子という名前を見つけた。本当のところは、この人のことを語れるのは少なくとも昭和も10年代にすでに人となっていた年代の人たちで、辛うじて名前は知っているという程度の私などが聞いた風のことをいうのはおこがましいのだが、それでも、時代の風の匂いのなにがしかぐらいは嗅ぐことができる。

NHKのファミリーヒストリーで仲代達矢のを見ていたら、有木山太という名前がヒョイと出てきたのに思わず声を上げた。しかも仲代の叔父さんだという。こういうことがあるから人のつながりというのは面白い。ほとんど忘れていたような名前だが、アッと、一瞬にして記憶が蘇った。と言っても、これとまとまって話ができるほどのものはない。しかしエノケンだのロッパだのというビッグネームの脇っちょに、有馬是馬だの如月寛太だの山田周平だの(他にもまだまだいたが)といったちょっぴりマイナー感を漂わせた名前のひとつとして、有木山太の名もまぎれもなく存在したのは、その風貌とともにはっきり覚えている。こうした名前に共通するのは、戦前・戦中の匂いをどこかに漂わせながら、戦後、それも昭和20年代を蘇らせてくれることである。

仲代達矢といえば、この人を初めて見た映画というのが江利チエミの『サザエさん』でノリスケの役で出ていた。人気シリーズとして10作以上も作られた第一作で、マスオさんが小泉博、お父さんが藤原釜足、お母さんが清川虹子というあたりは不動のメンバーだったが、仲代のノリスケはたぶんこの一作だけだったろう。あっという間に大きな存在になっていったからだが、この時には、あのどんぐり眼が喜劇向きだと思われたのかもしれない。二週遅れで東映と松竹と東宝の作品が三本立てで見られる映画館だった。

高島忠夫のことは前回書いたが、その後たまたま、日本映画チャンネルで昭和28年6月封切りの新東宝映画『戦艦大和』を見ていたら、高島忠夫が青年士官の役で、それもちょいといい役で出てきた。この映画は前にも見ているのだが、高島のことはすっかり忘れていた。浪花のボンボンとからかわれながらじつはなかなか骨のある人物という設定で、のちにスターになってからの高島より私にはよほど興味ある風貌を見せている。前年4月に講和条約が発効して日本が独立回復、復古調と言われた潮流の中で作られたこの映画には、私なりにいろいろな思いが甦るが、たまたま1年前の講和条約発効の日に引っ越したのが、一望焼け野が原だった西巣鴨、といっても大塚駅と池袋駅のほぼ中間、急坂の傾斜面に癌研究所が(ちょうど広島の原爆ドームと同じように外壁を残しただけの残骸となって)立っているのが大塚駅の高架のプラットホームから一望された。中央に眺楼のような塔のある姿が戦艦を思わせたので、同級生たちが「癌研大和」と呼ぶようになったのは、この映画の故だった。私が6年生の途中で転校する前の学校は中野区立大和小学校といったが、鞄だの物差しだの持ち物に書いてある「大和」という字の読み方を転校先の級友たちは知らず、「これ、だいわ小学校と読むのか?」と訊かれたものだったが、この映画のおかげで子供たちは皆「大和」と書いて「やまと」と読むのだと知ったのである。少年時代の私の体験した、終戦以来の「平和日本」から「復古調」への転換の、ささやかな思い出の記録でもある。

もうひとつ、この季節になると古い戦争映画がよく放映になるが、昭和32年の東宝映画『最後の脱走』というのを見た。実はこんな映画がこの時期に作られていたことも私は知らなかったが、日本の敗戦後中国の奥地に取り残された日本の女学生の話で、原節子が引率の女教師、鶴田浩二が元軍医という、こういう顔合わせというのも、ヘーエ、こんなのがあったのかという興味で見たようなものだが、昭和32年といえば、原節子は小津作品三部作などですでに名女優として名声を確立していた筈だが、この映画ではオヤオヤと思うような演技を見せている。どんな名優も台本が悪いと三割方は大根に見えるというのが私の考えだが、そういえば原節子大根説というのは実は昔からあって、小津安二郎や成瀬巳喜男の時以外の原節子というのはこんなものだったともいえる。不器用な人なのだろう。笠智衆も出ていて、こんなところで二人が顔を合わせているのも不思議なような光景である。考えてみれば同じ年の少し前に、二人は小津の『東京暮色』で父娘になっているのだから、俳優の仕事というのは。それはそれこれはこれ、と思うべきものなのだ。もっともこの映画も、監督は谷口千吉で結構面白い作だった。

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安美錦がついに引退した。3年前に土俵上で(相手は栃ノ心だった! その栃ノ心がその後の怪我で苦闘を続けている姿を見るにつけ、どうもこういう因果というのは巡るものと思わざるを得ない)アキレス腱断絶で休場二場所で十両に落ち、一年余かかって再入幕を果たしたが、踏ん張りもそこまでであったろう。力の衰えが次第に見えてくるのがわかった。十両も後ろの方になると取組みが3時からの放送開始前にすんでしまうからBSで見ることになる。足の踏ん張りがきかないからどうしても引き技が多くなる。そこをついてくる十両の力士というのは、ある意味で幕の内の力士よりもこすっからいように見えた。本来なら格の違う相手にむざむざ負けを取る姿を見るのはしのびなかった。通算の戦績が907勝908敗というのは、晩年に負けが込んだが故には違いないが、一点の負け越しというのが洒落ていて安美錦にふさわしいともいえる。これは一種の勲章だろう。そういえば昭和30年代から40年代、灰色のチームと呼ばれ下位に低迷していた頃の阪急のエースだった梶本の通算成績が254勝255敗だった筈だ。これもあっぱれの勲章といえる。安美錦はまた、通算場所数がこの場所で大関の魁皇と並んで歴代一位となったところだった。もうひと場所出れば新記録だったわけだが、昭和20年代のプロ野球に林義一という味な投手がいて、この人は通算成績が98勝98敗だったが、100勝しないうちにやめたいと言って引退したという話が伝わっている。こういう話は何故か聞くと嬉しくなる。そういえば柏戸も、幕の内の通算勝ち星が599勝というところで引退したのだった。

安美錦が新進として上位に上がってきて、貴乃花に初顔で勝ったのがこの横綱の最後の土俵となったという話はかなり知られているが、その次の東京場所で、たまたま升席のいいところで見せてもらうという機会があって、鮮やかな内掛けで勝ったのを見たのが贔屓になった始まりだった。足技は、宿痾となり最後のとどめを刺すことになった右膝を痛めてからも見られたが、やがて左膝も痛めてからは影をひそめてしまった。記録に拘泥するのは感心しないが、安美錦ならもう少し高いレベルでないと、という理由で技能賞が見送りになったことが何度かあったのだけは、すこしこだわりが残る。

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今シーズンの前半が終了してすぐの一夜、まだ梅雨のさなかの雨天の中だったが、ヤクルトのOB戦というのを見た。松岡だの安田猛だの、かなり古いむかしの選手も出たので見た甲斐があったが、なんといってもスターは野村で、すっかり歳を取って、代打で出場というので打席に入るのにも古田と真中に両脇から支えられる有様だったが、バットを構えた一瞬、南海ホークスの4番打者だった往年の打撃フォームが見事に再現されたのに胸を突かれた。むかし読んだ講談本の『笹野権三郎』で、御前試合の相手として80歳を過ぎた宮本武蔵が杖にすがってよぼよぼと出てきたのが、サアと剣を構えた途端、背筋も伸びて見事な構えになったというのがあったっけ。

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