随談第618回 最後の「平成最後」

いよいよ、最後の「平成最後」である。新元号「令和」談義は、あれからひと月たった今なお、当初のテレビ・週刊誌からさまざまのレベルまで降りてきて足引きの山鳥の尾のしだり尾のごとく続いているが、「令和」そのものはまあいいとして、発表当日各局を足まめに巡って繰り広げたA氏の談話が鼻について、「品物」の良し悪し(これを「よしあし」でなく「よしわるし」と読む人が出てきたのは、まだ昭和の頃だったが、近ごろは「よしわるし」は耳立たなくなった代わり「よしあし」の方も滅多に耳にしなくなった。平成の民は、何と言っているのだろう?)よりも、セールスマンAの饒舌の押し売りが気に食わねえ、というところに落ち着こうとしているかに見える。それにしてもヘーエと思ったのは、新元号が発表された後、賛否いずれにせよ元号論めいたことを愚図愚図言っていたのは中高年以上の年配者だけで、若い連中はアッケラカンと受け容れているらしいことである。

二月、三月ごろ、「安」の字がつくらしいぞという噂がかなり耳に入ったが、「昭和」改元の折、公表直前に当時の東京日々新聞にスクープされたのを察知して急遽「昭和」に変替えしたという秘話が事実とすれば、今回、「安」の字がつくらしいという噂をばらまいたのは、誰の知恵か知らないが、牽制球としてちょいとした働きをしたことになる。「安」の字のついた元号といえば「安政」だの「慶安」だの、時代劇のネタには事欠かない不穏なのが多いのは面白い。

ところで私は、元号・西暦併用主義者である。昭和が終わったとき、年賀状をそれまで縦書きで日付も「昭和○○年元旦」という風にしていたのを、もうこれで自分が生まれ育ち人となった時代も終わったのだという思いから、日付も西暦、書式も横書きにするように改めて、以来ずっとそれを続けてきたが、今年に限り、横書きはそのままだが、日付だけ「平成31年」と元号にした。「平成」という時代にもまた、自分の生きた日々があり、ひとつの時代があったことに思いを致す気になったからだ。のっぺらぼうに延々と続く西暦の方が計算がしやすいことに基づく長所がいろいろあるのは確かだが、1945年といって世界という視野でものを見、考える長所の一方、昭和20年といって浮かんでくる様々な記憶や思いの曼荼羅模様にも、西暦では言い尽くせないものがある。地球の規模から割り出したメートル法の方が万国共通の長があるのは当然だが、身体や歩幅や、身の回りの実感を尺度にした尺だの寸だの(おそらくフィートだのヤードだのにも)、メートル法には代えがたい居心地の良さがるのも間違いない。いまだに私は、何平方メートルの家と言われるより、何坪の家と聞いた方がイメージがピンと来る。平方メートルはただの数字だが、一坪は畳二畳分という、視覚に直結する皮膚感覚があるからだ。

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平成最後の歌舞伎座は、何と言っても、菊吉競演の『鈴ヶ森』と仁左衛門の実盛が眼福であり、各優それぞれに、これが仕納めとの思いが犇々と伝わってくるのが胸に迫る感があった。前月の盛綱に続く仁左の生締役の良さは、今後もうこれだけのものは見られまいと思わせる。この春は(その前の『名月八幡祭』の船頭三次で玉三郎の美代吉との夫婦役者ぶりを、おまけとして加えて)、仁左衛門三絶と言うべきものを見たことになる。

『実盛物語』ではもうひとり、歌六の瀬尾が又とない傑作だった。前仕手の赤っ面の敵役ぶりはベリベリとあくまで手強くしながら、太郎吉への情愛をじっくりと見せる工夫に考え抜いたものがあって、モドリの演技に類型を抜けたものを示した。近頃とかく、後段のモドリとの整合性を意識してか、前段の赤っ面の演技がヤワになる傾向が見えるのが昨今の歌舞伎の由々しきことだと思っているが、歌六のは、それとは似て非なるものである。これだけの瀬尾を見せた以上、平馬返りをするしないなどさしたることではない。

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私事で恐縮だが、仁左衛門の『実盛』というと実は私にはちょいとした思いがあるので、それは昭和52年の6月、新橋演舞場で仁左衛門が実盛を(東京では)初演した時の劇評を書いて当時の『演劇界』の劇評募集に当選し、翌月号に掲載してもらったのが私にとっての劇評家スタートとなったという、仁左衛門の方はご存じあるまいが私の方は忘れがたい「ご縁」があるからだ。『演劇界』では何年も前から隔年ごとに「俳優論」や「劇評」の募集を続けていて、それをきっかけに名を成すようになったあの人この人は少なくないが、いうならその驥尾に付す一人となれた糸口が、仁左衛門の実盛だったというわけである。

もうひとつ、このときの実盛にはちょっとしたおまけがついていて、当時NHKの人気番組で(日曜のたしか夜の7時半だったか、つまり大河ドラマの前というこの上ないゴールデンアワーだったと思う)、三波伸介が司会をして、各界の有名人の子供を相手に、顔の形は四角か丸か、とか、目は大きいか細いか、とかいろいろ質問してはその場で、誰もが知る有名人である親の似顔を描いてゆく、描き上がったところで、当の父親なり母親なりが登場する、というのが趣向で、それが面白いというので当時なかなかの人気番組だった。で、ちょうどこの頃、孝玉ブームがまだ新鮮で人気の出盛りだった当時片岡孝夫が、小学生でこのとき太郎吉をしていたいまの孝太郎と親子で出演したのだった。実盛の顔を載せた『演劇界』7月号の表紙がアップで画面に出たのを、三波伸介が、ウームと唸ってしばし黙然と眺めていたのを覚えている。とまあ、それだけの話なのだが・・・

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ケーシー高峰の訃報を知って、ひとつの小さな記憶が甦った。まだ昭和も昭和、阿佐ヶ谷に住んでいた頃、同じ阿佐ヶ谷の住人として、へーえ、あそこの角を曲がって帰るのか、などという姿を見掛けたこともあるが、一度、駅近くの飲み屋で向こうから声をかけてきたことがあった。同じカウンターの向こう端とこっち端、その距離3メートル、といった位置取りで、ちょっと話し相手が欲しかったのだろう。折から漫才ブームと言われた時期で、「B&B(という人たちがいましたね)にやられちゃったよ」という一言だけを、覚えている。つまり、その日どこかの席で味わった苦い思いが、自宅間近の飲み屋で一杯やるという屈託となって、たまたま同じカウンターにいた見も知らぬ私に声をかけてきたのに違いない。

川久保潔、なんていう名前を、10行にも満たない訃報欄で見つけた。新聞に載ったのは、テレビの吹き替えをもっぱらにする「声優」としての知名度ゆえだろうが、同じ「声優」でも私がなつかしいのは、NHK放送劇団の一員としてラジオの放送劇で聴いていた時代の川久保潔氏である。草創期のテレビドラマを懐かしむ声は折々聞くが、「ラジオドラマ」のことが稀に話題になるとすれば、やれ「君の名は」の放送時間に銭湯の女湯が空っぽになったそうだ、だのといった、ものの本に書いてあることを調べて話題にしているだけでリアリティーの希薄なこと、情けなくて涙も出ないというやつだが、リアルタイムで聴いた人たちの懐かしむ声が滅多に聞こえてこないのは何故だろう? まだNHKの他には、ようやく後発の民放が一局か二局だけしかなく、ほとんど日本中が同じ番組を聴いていた時代、あれだけ皆が熱中して聴いていた「放送劇」のことを語る声が聞こえてこないのは不可解である。当時の視聴者がもう死に絶えてしまったから? まさか・・・

元関脇の黒姫山も平成終了間際に死んだ一人となった。横綱の三重ノ海と二人で淡々と仕切り直しを重ねる情景の古典美は、その風貌と相俟ってまさにニッポンの大相撲であった。三重ノ海の渋みのある端正な風貌に対し、黒姫山の、横から見ると額と顎より鼻の頭の方が低く見える愛嬌が醸し出すユーモア。黒姫山が三役の常連として活躍していた昭和50年頃だったか、真夏のことで林家正蔵が怪談噺をするというので新宿の末広亭に入ると、名前は憶えていないが女の漫才コンビが出てきて歌謡漫才を始めた。おへちゃの方が笑わし役で、男前で売っていた某歌手の真似をする。「そうでしょう、あたし、そっくりだって言われてるんだもん」「ナニよ、あんたがそっくりなのは黒姫山じゃないの」というやりとりで、場内大爆笑となった。つまり、寄席に来る客も、黒姫山そっくり、というだけでわかったのだから、まだまだ良き時代だったわけだ。文楽の一人遣いのツメ人形で腰元だの女中だのというと、黒姫山によく似た人形が出てくる。当節の歌舞伎では並び腰元に出るような女方が美女ぞろいで、少なくとも私が知るようになってから、いまほどこのクラスの女方に美形が揃っている時代はなかった。以前は、この人はどうして女方になったのだろう、と首をかしげたくなるような人もあったものだ。ところがよくしたもので、時が経ち年功を積んでくると、そういう女方がなかなかいい味わいのある役者顔になってくる。なまじな美女より、ずっと「いい女」になってくる、という例を、いくつも見てきた。この頃の大相撲で、なかなか顔がおぼわらない力士が何人もいる。こちらが歳を取ったせいもあるかも知れないが、顔だけでなく相撲振りも、誰も同じような印象だからだ。数年前、国技館の入場口を入ろうとすると、切符の掛かりが昔の黒姫山だった。味のあるいい顔をした年寄りになっていた。それにしても、昔の名力士にチケットをもぎってもらって入場する、などという贅沢ができるのは大相撲だけである。

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