随談第616回 今月の舞台から

今回も、前回と同じ訳合いの遅れの言い訳をする羽目になりました。ともかくも、今月の芝居のお噂で取り敢えずの責めを果たすこととさせていただくことにします。

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まず歌舞伎座。これはもう、何といっても『盛綱陣屋』が必見である。先月の吉右衛門の熊谷と、今月の仁左衛門の盛綱と、丸本物の頂点を示す作が二ヵ月続きで揃ったことになる。この二役、仁・吉互いに交換してもそれぞれにいいものだが、やはり吉の熊谷、仁の盛綱と、絶妙の形で棲み分けが出来ていることになる。白塗りの生締役がぴたりとはまる風姿、挙措の優美さと軽み、品格、といった仁左衛門の外面の美点がそのまま、役の盛綱と、演じる仁左衛門の芸の深まりとに、ものの見事に通い合っている。軽みがそのまま深みに通じている。これでこそ、歌舞伎は見たさまがすべてである、と躊躇なく断言することができる。取り分け終局、時政が帰ったあと女たちを呼び出して小四郎と別れを告げさせるところ、わずかな身の捌きひとつがそのまま、盛綱の胸の内を見る者にたなごころを指すように得心させる。仁左衛門一代の名品というべきである。

また、この種の丸本物の大曲はすべての主立った役に人が揃っていないと、世界がくっきりと浮かび上がってこないが、今度の配役は、その点ほとんど理想的と言っていい。秀太郎微妙、雀右衛門篝火、孝太郎早瀬という女方三人が役にはまっている。歌六の時政と左団次の和田兵衛は、この逆もあり得るが左團次の柄の良さがはまってこの方がいい。勘太郎の小四郎は大あっぱれ、寺嶋真秀(つまり寺嶋しのぶの子の方である)の小三郎も、かなりの長時間、胡坐している間ピクリともしないのは、教えも教えたろうが、本人がよほどしっかりしていないとなかなかあゝは行くものではない。錦之助と猿弥のあばれとチャリの御注進もいいし、錦吾や秀調の渋さも年功だし・・・という中で、種之助はまだしも米吉まで四天王に狩り出されるのは、若い時はこれも修行の内ということだろうが、ちょっと気の毒な気がしないでもない。

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今に始まったことではないが、幸四郎と猿之助を競わせるのが今月の目玉となっていて、われわれ古きを想うものには、60年の昔の昭和30年代、それぞれの名前の先代同士が、早慶戦などともてはやされ何かと好対照と目されていた頃が偲ばれる。あの頃は、団子の方が「お利口坊ちゃん」などと楽屋雀に囁かれるような穏健派の優等生と見られていて、既にハムレットだミュージカルだとバタ臭いことに色気を見せたり何かと世の耳目を引く行動に出る染五郎の方が革新派と見られていたものだったのだ。さて今月の当代同士、目玉は弁天小僧の日替わり競演だが、これは「猿」の方がパリッとして生きがいいだけ、やや先行する。14代目勘弥から猿翁を通じて覚えた行き方という、生意気を鼻の先にぶら下げたようなヤンキーが洒落で女に化けていたずらをしに来た、という、つまり「男」を前面に出しながら、それでいて「娘ぶり」の目が詰んでいるのは、昼の部の『吃又』で白鸚の又平におとくをつとめてなかなかの女房ぶりを見せているように、修業時代若女形と目されていた頃に身につけたものが、こういうところで物を言っている。「幸」の方はすべてに穏当な行き方で、どこと言って悪いわけではないが、弁天だけ取れば「猿」の優勢、もっとも、「幸」は「猿」の弁天に南郷をつき合うという合わせ技でポイントを稼ぐから、めでたく引き分けということにしよう。

 猿・幸競演にはもう一杯、お代わりの『雷船頭』があって、こちらは「幸」の方がすっきりした男前で、この小曲の曲想に合っている。三井不動産の日本橋再開発のCMの「江戸の男」と同じ行き方だが、何という狂言の何という役、でなく、何とはなしに万人のイメージにある「江戸の男」で、こういうことをさせると、「幸」は「猿」に勝ること数等上であり、『雷船頭』のような「イメージの江戸」を描いて見せるのが眼目の小品のツボにうまくはまるのだ。「猿」の方は、藤間紫の型(?)とかいう、女船頭で行くやり方なのはいいとして(せっかくの競演なのだから、別の行き方でやろうという気働きは結構なことだ)、土手のお六ばりの立回りがあったりサービス盛り沢山でその分ちょいと野暮ったくなるのが玉に疵だが、もっともそこが「澤瀉屋流」というもので、現・猿翁が今日の大をなしたのも、何と言われようとその手の「野暮」を押し通した故なのだから、猿之助たるもの、これでいいのだ。この手の踊りは、動かすべからざる振りがあるわけではない、むしろ小ピースであるところが生命で、17代目の勘三郎が、舟の上に落ちて気絶している雷のヘソを取ろうと笑わせたのを思い出す。

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猿之助の『吃又』のおとくのことはさっき言ったが、今度は久しぶりに「序幕」として「高嶋館」をつけ狩野四郎二郎が負傷した自分の血で描いた虎が抜け出すという場面を見せる。こういうことにも、かつて猿翁がしておいた仕事がものをいうわけだが、その四郎二郎を幸四郎がするという、気配りのよさというより、目配りの良さというべきか、これも幸四郎の芸の内と考えるのが至当であろう。なかなかこうはできないものだ。

そのあとが「土佐将監閑居の場」、つまりいつもの『吃又』になるわけだが、この一幕は六代目菊五郎以来の、若き芸術家の苦悩という近代的解釈と緻密な演出が出来上がっているから、こう続けてみると、「高嶋館」の浪漫的な奇跡劇のトーンと水と油の感もある。ま、それはそれとして、今は「高嶋館」の久々の上演を喜び、後事は当代の猿・幸らの今後に託すべきであろう。

白鸚の又平は30年ぶりとやら。へえ、と驚く。師から賜った裃の襟を得意げにしごいて見せる(こういうのもドヤ顔というのだろうか)、この人独特の「愛嬌」を見せる「白鸚ぶり」を、ついこないだ見たばっかりのような気がしていたのだが。

さてこの上に、幸四郎は昼の部の中幕に、何と『傀儡師』を踊る。これはかつては、七代目三津五郎の神品と言われたもので、「踊りの神様」と言われた根拠のような作であり、上演記録を見ればわかるが、代々の三津五郎しか踊っていない。十代目は遂に踊らないままあの世へ行ってしまった。私は七代目は知らず、八代目のを見たのが最初だった。歌舞伎座で、とは言うものの、何とこれが「山本富士子公演」の一幕だった。一年十二ヵ月を歌舞伎で開ける今の歌舞伎しかご存じない方々には信じ難いかもしれないが、当時、というのはこの場合、昭和40年3月のことだが、当時は歌舞伎座で歌舞伎をしない(できない)月が年に何回かあったのである。八代目三津五郎は、師直とか意休といえばこの人に決まっていたように、重鎮として遇されてはいたが、自分の出し物を出す機会はめったに巡ってこなかったから、山本富士子公演などに助演する機会に、中幕で『傀儡師』みたいなハイブラウなものを出したりしたのである。この時は、このほかに、綺堂の『頼豪阿闍梨』などというのもやっているのだが、私はこれは見なかったから、遂に今もって、この狂言は見ずじまいのままだ。山本富士子公演などと馬鹿にして見なかったからで、こうした理由で見損なった逸品、珍品が、じつは幾つもある。思えば残念なことをしたものだ。ところで幸四郎の踊る『傀儡師』は、三津五郎がどうの、といったことはさておけば、中幕舞踊としてこれはこれで悪くない。勘三郎・三津五郎亡き今、こうした形で踊りで一幕出せるのは、今の歌舞伎では貴重な存在である。

今月はこのほかに『女鳴神』という珍品が出ているが、しかしこの芝居、歌右衛門みたいな圧倒的な存在が鳴神尼をするのでなければ面白さが見えてこない。今度の孝太郎は、まずは無難につとめ遂せたというところか。

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国立劇場で菊之助が『関の扉』の関兵衛をする。如何なものかと取り越し苦労をしたが、結構しっかり整っている。まあ、決して尻尾を出すようなへまはやらない人間とはわかっているが、花道からトントントンとのめって行って木戸に額をぶっつけて「アイタッ」となるところなど、体がよく動けるだけ老名優よりきっちりやるだけ面白さもある。とは言え、これが菊之助の役でないことは明らかであり、おそらく、将来ともこの役を持ち役にしようと思っているわけではあるまい。考えられることと言えば、岳父から教われることは何でも教わっておこうということか。もうひとつ、次代に岳父の芸を伝えるためにも、まず自分がしっかり習っておこう、ということもあるかもしれない。

小町姫と墨染は梅枝がやるが、古風でいい、と決まり文句を言って済ませるのは簡単だが、これまではそれでよかったとして、さてもう一段上がって第一線に立つ役者として、何かもう一歩二歩、歩を進めて、売りになるものを見つけたい。宗貞は萬太郎、いろいろな役が回ってくるが、二男坊役者の宿命、で終わらない何かを察知させる。

『御浜御殿』は扇雀の綱豊、歌昇の富森でまず相当以上の舞台ぶりなのはめでたい。大役お喜代に虎之介が取り組んで健闘しているが、素顔に白粉を塗ったような顔をしている。まだ役者としての顔をもっていないからだ。文字通りの第一歩というところ。

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