随談第615回 年始代わりに立春大吉

今年最初の随談が2月にずれ込んでしまった。この数か月、毎回同じような言い訳から始めているような気がする。年賀状の代わりに立春の挨拶を下さる方があるが、それに倣って今年は「立春大吉」というご挨拶にさせていただくことにしたい。

こういう仕儀となった理由は、例のごとく月末月初めの約二週間をある原稿の準備執筆のために費やしてしまったからだが、まあその代わりには面白い「発見」に出会ったりもする。百年前の一年分の古雑誌のページを繰っていると、調べる目当ての記事もさることながら、何と言っても面白いのは広告で、デパートはまだことごとく、三越呉服店、白木屋呉服店、松坂屋などは「松坂屋いとう呉服店」だし、資生堂は「福原資生堂」、鳩居堂は「熊谷鳩居堂」である。『熊谷陣屋』の幔幕に染め抜いてある向い鳩の紋章が、伊達でないことがわかる。面白いのは、その「福原資生堂」は別格として、白粉だの白髪染めだの、化粧品や薬の広告主がみな個人商店であることで、大規模な会社組織を備えた企業というものがまだ幾らもなかったことを改めて知ることになる。ナニ、松竹だってこの時点ではまだ「松竹合名会社」なのだ。それにしても、広告の内容までつぶさに見ていくと(そんなことをしているから仕事が長引くのだが、しかしこういうことをして時代の感覚を知っておくことが肝心なのだ)、百年前も今も人間のすることはちっとも変わってないなあ、というのも真実だし、百年前というとまだこんなものか、と感に堪えるのもまた真実、という平凡きわまる感慨を抱くことにもなる。


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今月の歌舞伎は歌舞伎座一軒。くだくだしく述べるまでもない、十三日掲載予定の日経夕刊を見てくださいと言えば済むようなものだが、それではあまりに愛想がないからちらりと案内すると、『名月八幡祭』の玉三郎・仁左衛門の美代吉・三次が、もしかするとご両人のコンビ中これが一番の傑作かという面白さだというのがひとつ(半世紀の余、いろいろな夫婦役や愛人役をやってきたのが、もちろん、下地になっていればこその面白さなわけだが)、『熊谷陣屋』を吉右衛門が、もうあれより先には進みようがあるまいというところまで行っていた感があったのを、もう一度、壮年の熊谷に戻して(つまり若返って)演じることで、またひとつの展望が開けたという面白さがひとつ、さらにもう一つ、辰之助追善として『暗闇の丑松』を菊五郎が気を入れてやっているのが、故人への思いが溢れて感慨深いものがあったこと、この三つを書いておこう。見るこちらもまた、半世紀余のむかし、楽善と三人、丑之助改め菊之助、左近改め辰之助、亀三郎改め薪水と、同時襲名した舞台を思い遣って感慨無量であった。

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新橋演舞場の新派と新喜劇の合同芝居が面白かった。新派と新喜劇の定評ある名作2本をタイトル(敢えて題名とは言わない)を変えて立てているので、はじめ予告の広告を見たときはもっと軽い芝居をするのかと思ったら、どうして、北条秀司の『太夫さん』と館直志の『船場の子守唄』のことだった。(つまりこれをそれぞれ『華の太夫道中』『おばあちゃんの子守唄』と変えたのは、こうしないと客が来ないと考えたからなのだろうか? 『華の太夫道中』は喜美太夫役を藤原紀香がするのが、観客動員の上では今月の肝だろうから、そんなことも絡んでのことなのだろうか? その紀香も、さすがに神妙に且つ懸命に勤めていて印象は悪くない。それにしても、大詰、眼目の花魁道中であの格好をすると何とも顔の小さいこと! まるで十頭身どころか十二頭身ぐらいに見える。)

まあ、それはそれとして、『太夫さん』を十年ぶりに見ながら、こういうのが芝居なのだと改めて思うことになった。さりげない中に濃密な時間が舞台に流れている。何でもないようなセリフひとつ、立ち居ひとつ振舞いひとつに、それぞれの人物たちの思いがあり、暮らしがありその背後に人生がある。こういう芝居を当たり前のように、かつては見ていたのだ。

見ながら北条秀司三傑というのを考えた。『太夫さん』はやはり入るだろう。それから『京舞』と、残る一本はやはり『王将』か。新国劇から出発して男っぽいイメージの作者だが、新派の作が三傑の二本を占めるように、新派に書いたものに名作佳作が一番多いのが面白い。(歌舞伎でも、北条源氏と呼ばれた「源氏物語」の諸作が、近ごろ忘れられたようになっているが、誰かやらないものだろうか。)


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と、ここまででおしまい、のつもりだったが、本来一月中に書くべきだったことで、またと言ってもよい折もなさそうな話題をいくつか、落穂拾いのように拾っておこう。

年が明けてからわがアンテナにかかった訃報の中で、梅原猛や市原悦子は今更だが、天地総子とか栗本尊子などという名前には、それぞれの時代を思い出させる何かがある。市原悦子だって、テレビでああいう風になる前、日生劇場が開場して間もなく俳優座の出演で『ハムレット』を出した時のオフィーリア女優なのだが、あれだけテレビに氾濫した訃を伝える番組の中で、そのことに触れたのはあったのだろうか? つまり、それまでの可憐清楚なお姫様風でない、従来の通念を破ったオフィーリアとして、その当時、演劇界だけでなく一般のレベルまで、かなりの話題を攫ったのだった。まあ、そうした彼女の「仁」の中にある要素が、後年の家政婦シリーズにつながることになるのだが・・・


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一月場所の稀勢の里引退については、いまさら出遅れた幽霊みたいになってしまうから今はよすことにするが、それにつけても思うのは、稀勢の里にあの引退につながる怪我を負わせたのが日馬富士であり、翌日の千秋楽、怪我を押して出場し優勝決定戦を争った相手が照の富士で、その一年前に稀勢の里を抜き去って横綱目前だった照ノ富士が膝を痛めたのが稀勢の里との一番であり(この一番は私も現場を目撃したから忘れがたい)、更に日馬富士の引退の導火線となったのが貴ノ岩であり、その貴ノ岩の断髪式に日馬富士が・・・と、めぐる因果のようにそれからそれとつながって行く。


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NHKの相撲放送の中日はゲストを招くのが恒例で、人によっては面白いが、先場所のゲストの三遊亭好楽は、さすがに年の功で(久しぶりに顔を見たが、当たり前だが齢を取ってもっともらしくなっていたのは同慶の至りである)、ひいき力士に往年の信夫山を挙げていたのは流石だった。おかげで対・東富士戦と対・若乃花戦の映像を見ることができたのは眼福だった。と、そこまではいいのだが、対・若乃花戦の映像に、控え力士として千代の山が映っているのを好楽が、あゝ千代の山がいる、てなことを言うと、アナウンサーが「千代の富士の師匠です」と応じたのは、何たることか。千代の山の愛弟子は北の富士であり、その北の富士の愛弟子が千代の富士であることぐらい知らないはずはないのに、現代の視聴者にもわかりやすいようにと配慮したとすれば、それはそれで、解説者北の富士氏に失礼ではあるまいか?


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それでもうひとつ。例の「ファミリー・ヒストリー」で伊東四朗の先祖調べで、伊豆の伊東の領主というので伊東祐親の名前まで出しておきながら、曽我兄弟のことにはまったく触れないで終ったが、番組担当者は、現代の視聴者に曽我兄弟などと言ったってどうせ興味がない(あるいは、知らない)だろうと思ったのだろうか?


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更にもう一つ。これもNHKだが、「大河ドラマ」という言葉の由来を詮索した中で、当時、つまり昭和三十年代、「大河小説」という言葉がしきりにつかわれていたことに全く触れていなかったのは、アレレ、という感じだった。あの時代、各出版社から各種の「世界文学全集」が競い合って出され、今では信じられないほど売れ(読まれ?)、中でも(これこそまさに時世を物語るものだが)ロシア文学が相当の人気だった。あの長い長いロシア文学の大長編小説の数々、ドストエフスキー、トルストイから、中でも当時しきりに読まれたのが、ショーロホフの『静かなドン』で、上・中・下の三冊本という、まさに大河のごとき大長編だった。そうです、昭和三十八年の『花の生涯』にはじまる「大河ドラマ」は、こうした「大河小説」隆盛の時代のさなかに始まり、誰言うともなく「大河ドラマ」と呼ばれるようになったのです。誰か特定の命名者を突き止めることはできないとしても、「大河小説」のことに全く触れなかったのは、オヤオヤオヤ、であった。

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