随談613回 1+1=1.3

判じ物みたいなタイトルで恐縮だが、前回はあれっぱかりでお茶を濁して勘弁していただいたので、今度は早めにと思いながら、そういう時に限って次々とやらなければならない仕事が目の前に現れる、という日が続いて気がつけば早や霜月下旬、勝頼が八重垣姫に口説かれた頃である。(因みに、我が家の夕顔はさすがに霜月も下旬になってからは咲かなくなった)、というわけで今回も、先月分と今月分と合わせて1+1=2とするつもりだったが、1+1=1.5か1.3ぐらいのところでご了解願うことにしたい。

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輪島、古川清蔵、スタンカ、手塚明治、森下整鎮、江波杏子、三上真一郎・・・と続いたこの約二か月間に私のアンテナに引っかかった訃報の中で、マスコミが盛大に取り上げたのは輪島ひとり、まあ江波杏子も近過去マスコミ人と同世代だから相応の扱いをしてもらえたが、昭和30年代半ば頃、南海ホークスのエースだったスタンカとなると、いかにも調べて書いたとおぼしい記事を散見したぐらい。でもまあ、この辺までは今のマスコミのアンテナに掛かり得るものと見える。同じ南海で晩年にスタンカとようやく重なり合ったかという世代差のある森下となると、ほんの数行の死亡記事が出たぐらい。巨人の三塁手だった手塚明治も同じくだが、まあ、これは仕方がないか。新聞が記事を載せてくれただけでもありがたいと思うべきか。

森下の盛りは昭和20年代後半から30年代中頃、三塁の蔭山と共にやさ男揃いの南海でもとりわけてのやさ男だった。(ああいう、スマートボーイの名手ばかり揃えていた当時の南海ホークスのようなチームというのも、その後も含めてちょっとないだろう。14代目の守田勘彌が、当時、大の南海ファンとして知られていたが、なるほど、昭和20年代、別所を巨人に引き抜かれた後の南海を支えたエースの柚木進など、いかにも勘彌ばりの生締物が似合いそうなハンサムだった。しかし与三郎や直侍やピントコナばかりではチームとしては非力なので、パ・リーグでは3連覇しても日本シリーズでは第二次黄金時代の巨人に跳ね返されたのに鑑み鶴岡監督はチーム改造を決意、数年がかりで野村克也のような非・二枚目を増強して遂に巨人に四タテを食わせて夢に見た御堂筋のパレードを実現したのだった。(もっともそのころの巨人は、黄金時代の面影はもう疾うになくなっていたが。) 話のついでだが、蔭山などは、同じ名三塁手として鶴岡監督の秘蔵っ子として育てられ、後継者として監督に指名されたと思ったら、自分は監督に値するだろうかと悩み死にをするという、死に方まで繊細なやさ男だった。銀行員がばくち打ちの親分になったようなもの、とその死を報じた新聞があったっけ。

手塚明治という名前は、明治大学の出身だからというわけではもちろんないが覚えやすいので子供たちも「手塚明治」と上下一対、揃えて覚えていた。大柄でスケールの大きい好選手だったが、結局のところ、長嶋茂雄の出現まで転変した、戦後の巨人の三塁手列伝の一人ということになる。広岡達郎が早稲田を出て巨人に入って最初に三遊間を共に守ったのが手塚だった。その夏の初ナイターの夜の対中日戦の情景が鮮やかに思い出される。昭和29年、川上と千葉の一、二塁は変わらないが、宇野と平井に代わって三塁が手塚で遊撃が広岡、外野もレフト与那嶺にライト南村は変わらないがセンターの青田が前年大洋ホエールズへ去って、早稲田から入った岩本堯が守るという風に、同じ第二次黄金時代といっても少しずつ様変わりを始めていた頃だった。(このころの私は巨人ファンの中学生だったから、こういうメンバーはいまでも空で言えるのだ。)

古川清蔵となると、私などでも幼いころのかすかな印象しかない。実際には、このプロ野球草創期の強打者(戦前に二度、ホームラン王になっている。その一度は年間4本という、最少記録の保持者でもある)の現役生活は意外に長く30年代にまでかかっているのだが、記憶としては戦後間もない後楽園球場で阪急ブレーブズの黒に島の入ったユニフォームを着た姿がほぼすべてである。古川以外にもこうした形で今も眼中に残っている、戦後まで活躍した戦前以来の選手たちの誰彼の名前は、百人とは言うまいが、挙げ出せばたちどころに数十人は出てくるだろう。みんな、当時にあっては一騎当千の強者である。そうした選手はいまもなお次々と出現して、そのときどきのファンの眼中に何十年後迄、留まることになるのだ。見た限りの観客一人一人が、生きている間だけは。

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訃報は訃報でも全くの別口で、元楯の会の会員で三島事件のメンバーという人の死亡記事が目に留まった。服役後は妻の実家に引っ込み、民主党の事務局に勤めていたという。フーム、楯の会から民主党ねえ。若い時の夢から醒めれば、その辺りに落ち着いたということなのであろうか。享年70歳とある。まさしくツワモノどもが夢の跡だが、あの月は松竹75周年というので大顔合わせの『先代萩』が出たのと結びついて記憶している。あれが私の「先代萩体験」中の最大のものであったかも知れない。

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BSのお茶の間劇場で『お茶漬の味』を久しぶりに見た。この作は小津作品の中ではあまり評価が高くないが、それは商社マンである主人公が社命で急に外国へ出張することになるのが、冷えていた夫婦の縒りが戻る契機となるという設定に無理があるからだということになっている。しかしいかにも小津的世界が充満しているという意味では、なかなか捨てがたい作で、私は愛好している。昭和27年の作だから、この年の四月限りでGHQ 撤が撤退、進駐軍が帰って行ったという、微妙な時代が画面に溢れている。五所平之助『朝の波紋』、成瀬巳喜男『銀座化粧』、千葉泰樹『東京の恋人』、佐伯清『浅草四人姉妹』などと共に、いずれも昭和27年という興味深い年の東京の小市民の生活から「戦後」を捕らえている、私の愛好する佳作たちである。佐分利信の商社の幹部社員が鶴田浩二の甥の高等ルンペン(警察予備隊にでも入るか、という会話が交わされる)に誘われてパチンコ屋に入って、玉をひとつづつ穴に入れて弾く、オーイ玉が出ないぞとドンドン叩くと顔を出したパチンコ屋の主人が笠智衆で、軍隊時代の部下だったり、木暮実千代の女房が遊び友達の淡島千景たちと後楽園球場にナイターを見に行くと、ちょうど毎日オリオンズの攻撃中で「4番センター別当」というアナウンスと共に、あの別当薫が打席に入って素振りをくれる。そのワンショットだけでも、オオと声を発したくなる。この年から、後楽園の公式戦でナイターが試合日程の中に組まれるようになったのだから、このワンショットは実に雄弁に時代を証言しているのだ。観戦中、また場内アナウンスがあって、「〇〇さま、お宅からのお電話でございます、至急お帰り下さいませ」と放送する。そうだった。当時の野球場ではこんなサービスまでしていたのだったっけ。(私も実際に、「〇〇様、お宅が火事だそうです。至急お帰り下さい」というアナウンスを聞いたのを覚えている。この時は流石に、内外野のスタンド中が大笑いだった。)電話を掛ける。自宅用だからもちろん壁掛け式である。電話口の向こうの交換手に「ウナで願います」という。もちろん至急電報を打つのだ。佐分利がデスクで仕事をするとき計算尺を使っているのには、アッと思い出した。そうだった! この当時は算盤に代って計算尺がかなり使わていて、たしか、算盤日本一と同じように、計算尺日本一を競う大会などもあったのだった。家では卓袱台でめしを食う。箸箱から箸を取り出して喰い終われば湯呑でちゃちゃっと洗って箸箱にしまう。ラーメン屋に入ればラジオから『サンフランシスコのチャイナタウン』が流れている…と、切りがないからこのぐらいにしておこう。

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ところでこの当時、どころか30年代になってからでも、後楽園に限らず野球場の座席は仕切りのない木のベンチだった。新聞紙を畳んで尻に敷くのが自ら確保する一人分の座席で、小用に立ったりして戻ってくると席が亡くなっていてもおかしくない。もちろん、尻も腰も痛くなるから、7回の表裏の攻撃が始まる前、場内アナウンスが「読売ジャイアンツ(阪神タイガース)、ラッキーセブンでございます」と言うと、巨人なり阪神なりを応援している者は立ち上がって、アーアと伸びをする。風船を飛ばしたり、チアガールやマスコット人形が出てきて踊ったり、などと言うことはいうことは、一切、ありよう筈もなかった・・・

ということが、思い出話として話題となったのは、今月勘三郎追善で久しぶりに平成中村座の座席に座って、腰と尻の痛さに思わずも往年の野球場のスタンドの様子を思い出すこととなったからだった。中村座には申し訳のような背もたれがつけてあるが(あれは確か、初めはなかった筈だ)、長い板を渡しただけの野球場の座席にはもちろんそんなものはなかった。

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勘三郎追善は、十月十一月と歌舞伎座・平成中村座と続いてどちらも好感の持てる舞台だったが、歌舞伎座夜の部の『助六』で玉三郎が曽我満江になったのが秀逸だった。T&Tなどといって大童だった昔ながらに、仁左衛門の助六がさすがに齢はとったと思いはするものの優美な姿は変わらないところへ、揚巻を七之助にゆずり、勘九郎に白酒売をさせ、自身は満江にまわるという(おそらく玉三郎みずからの発案であろう)配役が絶妙で、そのために今度の『助六』は、喧嘩沙汰や股くぐりなどより、満江の出ている場面が眼目となった。おかげで、平素は裏になっている曽我の世界が立ち現れた、というのは表向きのほめ言葉、七之助には芸ゆずりの趣もあるし、白酒売りが「抜けば玉散る天秤棒」と本当に天秤棒を抜いて見せたのは、かつて14代目勘彌がしたのを若き日の父18代目が見て自分もやってみたいと念願、後年ようやく実現したという逸話を、亡き父に代わって勘九郎が玉三郎の前でやってみせたというミソがあったり、何かと興味津々のユニークな『助六』であった。

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11月の顔見世は、菊の清心に吉の白蓮、吉の五右衛門に菊の久吉という、昼夜にわたる菊吉共演が圧巻だった。先々月の『河内山』といい、それにつけても思うのは『天衣紛上野初花』でも『十六夜清心』でも、菊吉健在の間に是非、今ひとたび、通しで見せてもらいたいということである。今生の見納め、悔いはないという気さえする。

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歌舞伎座の夜の部で猿之助が『法界坊』を出したのは出るべくして出た、というところだろうが、まずはオーソドックスにと言いながら、聞くところによると、伝承の間に積もり積もったギャグの類を出来るだけ切るようにとの方針であった由。そうなるとどうしても、ハードボイルド風のタッチになるのはいいが、これを更に進めるとこの狂言の地金にある陰惨な要素が露呈してくることになり、勘三郎二代のような愛嬌が体にあるわけではない猿之助としては己れを知る業とも言えようが、一方そうなると、既に勘三郎が串田歌舞伎でやった線に重なることになりはしまいか?

まあ、今からそれを心配するのは取越し苦労として、切り捨てたギャグの中でひとつ、白髭鳥居前の場で、桜餅の折を「しめたぞしめた、〆このうさうさ」とぐるぐる巻きにする、あの卓抜なギャグまで捨ててしまったのは残念である。その前におくみを乗せた駕籠をぐるぐる巻きにする、駕籠と桜餅の折が相似形であるという視覚の連想がもたらす可笑しみは、キャンディーの箱の少女が手にした箱に自分が描かれているという不思議と同じく、なかなか「哲学的」であって捨てがたい妙趣がある。

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その『法界坊』の大詰の「双面」で、前の「大七」のおくみが案外で、ちょっぴり失望させた尾上右近が、この場に至って俄然、大化けする。こういう「変身」の秘儀こそ、この種の芝居の根源にある魅惑であって、たとえ「名優」だからといって皆が必ずしも出来るわけではない。逆に猿之助は、ここでの隈取が妙にのっぺりと綺麗に描いてあったのは頷けない。

それにしても、今度の若手花形が中心の一座では序幕「向島大七」の鯉魚の一軸をめぐるドタバタのおかしみが、まるで芝居にならないのに、大袈裟のようだが少々ショックを受けた。ドリフターズみたいで面白かった、という声もあった由だが(往年の「エノケンの法界坊」を知る人はいまどき後期高齢者だけだろうが、ドリフターズを知っている人だってもはや相当のご年配であろう)、後半、歌六の甚三が登場してようやく芝居になったというのは、一見華やいでいるようで、実はそろそろお寒くなってきている「歌舞伎のいま」を垣間見たようでもある。

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国立劇場の『大岡越前』が意気上がらぬ中で、ただ一人、楽善の水戸老公が見事だった。亀三郎時代から見てきたこの人の越し方を思うと、いわば隠居名の楽善を名乗るようになってからの風格と舞台の冴えには、我がことのように胸に迫るものを覚える。こういう役者人生もあるのだ。こういう、「名優」としての在り方もあるのだ、と改めて思う。

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今度の『名高大岡越前裁』と銘打った天一坊劇がとかく起伏に乏しいのは、この狂言が実は、芯の役は大岡であっても働くのは天一坊であるというところにあるのだが(その意味では、ひところ「天一坊と越前守」などといった映画の題名みたいな外題がはやったのにも理由があったのだ)、戦前、この芝居を当たり役にしていた十五世羽左衛門は天一坊と池田大助の二役を兼ねるのを常としていたというが、なるほど、それでこそ面白い実録大衆劇になるのだ。

池田大助というのは、今度は彦三郎がやった役だが、「無常門」「紀州調べ」「切腹」という一番儲かる場面で活躍する(今度はその「紀州調べ」を出さないので、出る幕出る幕、奉行所だ役宅だという固い場面ばかりで気が変わらないのが今回最大の誤算である)越前守側近の若侍中でもひと際の儲け役であり、戦前戦後のひと頃まで、歌舞伎を見ない子供たちにまで知られた名前だった。今も時々出る綺堂の『権三と助十』にも登場し(あれも実は大岡政談劇である)、最後の方に越前守の使いで褒美を渡しにやって来て、二人に向かって「やるじゃあねえか」と砕けて言ってワッと沸かせる場面があるが、野村胡堂に『池田大助捕物帖』という、『銭形平次捕物控』と並ぶシリーズ小説があり、かなり読まれたものだった。ラジオの連続放送劇になったりもしたが、昭和40年に初代として襲名、売出し中だった辰之助が、NHKの連続テレビドラマで『池田大助捕物帖』を主演したのが今となってしきりに懐かしい。後に病気をしてげっそり痩せてしまったが、このころはいかにも松緑の息子らしい恰幅の良さで前途洋々を思わせる好青年だった。

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かなりガタピシした九州場所だったが貴景勝の優勝はよかった。高安は、よく言えば豪快だが、腰高で力任せの取り口で墓穴を掘るところ、小型稀勢の里ぶりを長短共に見せて、兄貴分の稀勢の里の穴を八分目埋めたところで最後に自滅した。あのままでは横綱にはなれまいし、なったところで兄貴分と同様、取りこぼしが多いだろう。稀勢の里は、期待と抜群の人気といい、取り口は違うが腰高で力任せの相撲っぷりといい、待たせに待たせてようやく横綱になった挙句、怪我続きで短命に終わった往年の吉葉山を連想してしまう。

貴景勝はいまのところ、生真面目なところなど、師の貴乃花のいいとところだけ似たようで、このまままっすぐ、余計な屈折をしないで伸びれば大成するかもしれない。そのためにもくれぐれも、「不借身命なんどという、かつての軍人が好んで使ったような難語をひねくりまわす趣味に耽る真似までは師に学ばないでもらいたい。短躯肥満の横綱というと照国だが、今のところは取り口が違う。取り口に幅が出来て、前捌きと差し身のよさが身につくようになればだが、それはいま急に考えなくていいだろう。それにしても、昨年来のああいう事態、こういう事情を考え合わせると、今場所の貴景勝の優勝というのは、協会側・貴乃花側双方を睨み合わせた相撲の神様の絶妙の捌きというべきか。

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貴景勝優勝一点張りの相撲報道のおかげで鵜の毛ほども報道されないが、千秋楽結び前の一番の栃ノ心=松鳳山戦は奇妙なものだった。私に言わせればあれは栃ノ心一勝、松鳳山一勝の、言うなら預かり相撲である。一度目は審判長、二度目は行司が、立ち合い不十分で止めてやり直したわけだが、一度目などは両者審判の声に気づかず勝負がついてしまってからの取り直しという見苦しい措置だった。(その上での相撲が、松鳳山が口を切って顔面血まみれ、返り血で栃ノ心も胸が血だらけ、おまけに物言いのつくもつれた勝負だったというのも因縁めいている。)
 この一番に限らず、呼吸が合っていると思われるのに行司が止めて立ち合いをやり直させるということが、最近やたらに多い。審判部の方針に沿ってのことだろうが、見ていて白けることも少なくない。あまりに神経質と思われる行司も何人かいる。(つまり、行司によって差異があるという不公平も生じている。)

それと密接に関連していると思われるのは、仕切りに入る前にぐずぐず時間をかける力士が近頃頓に多くなっている。腰を割って蹲踞に入る前に、自分の都合で隙取るのだが、どうも見苦しい。栃煌山辺りから目立ち始めて、一番重症なのが石浦、遠藤にもその気味があるがもちろん彼等だけのことではない。審判や行司は、むしろそこから注意を促すべきで、その方が根本ではないか。

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