随談第609回 熱暑のさなかに

おあつうございます、と打って転換したら「お暑う」でなく「お熱う」と出た。生意気なパソコンである。ひと頃までは、日本歴代の最高気温といえば、昭和一桁時代に山形で記録した40度ナニガシというのであった筈だが、この数日、そんなものは問題にもならないような数字が日本中から連日出てくる。私の住む練馬区は、しばらく前から、新聞・テレビの気象予報で「東京都心」と別に扱われるようになった。東京23区から除外されたような気分だが、つまり、地図を見ればわかるように、練馬区は東京湾から西北方面へ(つまり、都の西北である)23区中最も遠い内陸にあり、地図上に物差しを当てれば延長線上に、数年前に岐阜県多治見市に奪われた気温日本一をこのほど奪回した埼玉県熊谷市がある。つまり、都区内随一の高温を誇るわが練馬区は、高温日本一の熊谷のミニチュア版というわけだ。

さてその埼玉県熊谷市はかの熊谷直実の領地である。(現在クマガヤと読むのは、明治何年だかにこの地に鉄道が敷かれたとき、地方士族の出である(つまり浅葱裏である)鉄道省の役人が、「谷」を「ガイ」と読む坂東言葉を知らずに「谷」だから「ヤ」だろう、すなわち「熊ケ谷」であろうと勝手に解釈して「クマガヤ」と駅名を決めてしまったのだ、と真偽は知らないが、これは、かつてはよく言われた説で、私も子供の頃からいつとはなしにそう思い込んでいる。ついでに言うと「秋葉原」という駅名も、本来は「アキバハラ」を江戸弁で「アキバッパラ」(「海老蔵さん」というのとほぼ同じイントネーションで発音する)と言っていたのを、これも鉄道省の役人が「アキハバラ」と勝手に決めてしまったのだという。この手のことは死んだ先代の桂文治が、高座で憤慨してまくしたてるのを芸にしていたのが懐かしい。)

さてその熊谷の猛暑はおそらく昔からであったろうから、直実も相模もさぞ暑かったろうが、そんな土地で育った倅の小次郎は、敦盛の身代わりになれるような色白の公達タイプでなどでなく、真っ黒に日焼けした農村型少年であったに違いない。黒澤明が『熊谷陣屋』を映画にしたなら、おそらくそういう扮装をさせたに違いない。一の谷は現在の神戸市だから、相模が倅の初陣を案じて埼玉の奥から阪神沿線まで駆けつけるのは、熊谷高校の野球部が甲子園に出場したとしてウチのボクちゃんたちの初陣の応援に、母親連中がバスを連ねて甲子園まで繰り出すのと等距離ということになる。

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今月の歌舞伎座のことは『演劇界』に書いたから、もうここに同じ苦労を繰り返したくないので、8月初頭に発売の9月号を見てください。むかし昭和30年前後、名調子の野球解説で鳴らした小西徳郎さんが独特の口調で「エー、何と申しましょうか」というのが大人気だったが、今度の夜の部『源氏物語』はまさに「何と申しましょうか」であって、つまり、何とも申しようがないのである。

しかし海老蔵の名誉のためもあるから言っておくと、昼の部の『出世太閤記』はちょっとした味なものであって、愛児歡玄と父子共演の「大徳寺」の場が仮になかったとしても、半日の芝居として立派に見るに値するだけのものである。以前、現・猿翁の三代目猿之助が一日がかりの芝居としてこしらえて、やや未整理の感があったままに捨て置かれていたのを、半日芝居としてむしろすっきりとさせたことによって、今後の上演がしやすくなったと言える。元はれっきとした南北の作であり黙阿弥の作であって、場面場面で双方をテレコにしたこういう台本の作り方は、アカデミズムが現場にしゃしゃり出てきて原作尊重ということを矢鱈に喧伝するようになるまでは、よくあることだったわけで、現にいまだって、『仮名手本忠臣蔵』と称して本来『裏表忠臣蔵』の一幕である「道行旅路の花聟」を四段目の次に出したり、「十一段目」と称して『十二刻忠臣蔵』だのなんだの明治出来の実録物の討入場面をまぜこぜに出して通用しているではないか。つまりこれなら、海老蔵の本音が歡玄と「大徳寺」を出すことにあったとしても、ご愛敬で通るわけだ。

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すっかり歌舞伎座の陰になったが、国立鑑賞教室の『日本振袖始』の時蔵の八岐大蛇の後ジテの隈を取った風姿が、三代目時蔵もかくやあらむという、一見の価値ある見ものだった。錦之助の素戔嗚も大立派で、この兄弟共演の古典美は当節の歌舞伎での逸品である。この大して面白いわけでもない狂言は、こうした古典美によって支えられるのでなければ、日本おとぎ話の絵解きに終わりかねない。

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新国立の宮田慶子芸術監督の任期最後の仕事としての蓬莱隆太作『消えていくなら朝』が、ちょいと面白かった。蓬莱隆太といえばこの前、赤坂歌舞伎と称した『赤目の転生』というのの作者である。近頃の流行と言っては悪いだろうが、内向に内向を重ねるタイプと見えたが、歌舞伎よりもやはり現代劇という自分のフィールドでの仕事は、はるかに手に入っている。自身がモデルのような劇作家として一応成功した人物が、二重にも三重にもわけアリのしがらみに雁字絡めになっている家族のことを題材に脚本を書こうというところから、平素問題を避け合ってやってきた父母兄妹とタガの外れた応酬がはじまるという、小劇場お得意の不条理劇だが、なかなかよく書けていて最後まで一気に引っ張って行かれた。小劇場演劇というのは、文学では既になくなってしまった「私小説」が演劇という形をとって甦ったもののように私には見えるのだが、これを見ながら思い出したのは、かつて伊藤整が言った、私小説とは逃亡奴隷の文学であるという警句だった。まさにこの作は、逃亡奴隷という蕩児が帰郷してパンドラの箱を開けるという、エンドレスの劇であり、それを休憩なしの二時間で終わらせたのは作者の良識であり、現役感覚のなせる業であろう。

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毎夏の新橋演舞場の楽しみはOSK公演と新喜劇の公演で、今年も来ました、ではないが、楽しませてくれた。茂林寺文福・館直志合作『人生双六』はかつての藤山寛美としても知られた極め付けだが、いま見てもやはり面白い。こういう芝居は出演者に大阪人の匂いがあることが肝心だが、今度は、材木会社の社長夫人の役で大津嶺子が出ている。昭和40年前後、毎日曜日に新喜劇の舞台中継がテレビで見られた頃、ほぼ欠かさず見ていたが、ちょうど当時、この人は大津十詩子という芸名で娘役のトップだった。新喜劇の女優としては、大柄で品のある、いわゆる大阪のねえちゃんとは一線を画した硬質な感じがユニークだった。こういう女優も、やはり必要なわけで、いまは退団して客演のような形で参加しているようだが、ある意味ではこの人の役の社長夫人の情とわけ知りぶりを品の良さで包んだ味が、この芝居の急所なのだと言える。まさしく、大人の芝居である。こういう味わいは、新国立劇場では味わえない。

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先日来のサッカーWBCをめぐる流れを、私のようにさほど入れ込むほどの、つまり薀蓄を傾けるほどのサッカー観劇歴も、したがって関心も熱意も持ち合わせていない者の目から、前監督の解任、新監督就任から第一戦、第二戦、第三戦、さらにその後の流れまでを見ていると、事態の変転と共に、人の目、人の心というものがどういう風に転変し、またそれを、ある力なり意図なりがどういう風に掴み、導き、あるところへ落とし込むかということが、そうしてそれを人々が受け入れるかということが、これほど鮮やかに、まるで図式を描くように見えた例もないだろう。肝となったのは例の対ポーランド戦の一件だが、一旦はかなり聞こえていた批判的な声もあっという間に呑み込まれ、健闘及ばず惜敗、しかし明日があるさ、というまるで誂えたような、日本人の情緒の琴線に触れる結末によって、絶妙な形で落着した。これほどうまいシナリオというものは、そう滅多に書けるものではない。サッカーがプロ化して四半世紀、これで完全に日本人の心情と日本の社会に根を張り、万古不易の「日本文化」と成り遂せたといえる。プロ野球が昭和10年に成立して四半世紀といえば昭和35年、1960年ということを考え合わせれば、フーム、といろいろ物思うことが思い当たる。因みにこの1960年の時点で、長嶋は既にプロ野球史上最大のスターになり遂せていたが、王はまだ一本足打法も確立しておらず、未成の状態に留まっていて、ONという語が生まれ、定着するにはもう二年乃至三年の時が必要だった。四半世紀というのは、つまりそういう時の経過、熟成に要する時間なのだろう。

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野球と言えば、大谷のことは未知数の部分が多すぎるから他日の論として、ダルビッシュだマー君だ、米球界に身を投じた面々は皆(ドイツモコイツモ)、怪我だのなんだのでパっとせず、ひとり、知名度から言えば平均以下の野球ファンなら知らなかったかも知れない平野が、それこそいぶし銀のような活躍をしている。そこでだが、一度はメジャーリーグという最高レベルの場で自分の腕を試してみたいという(もっとも至極の)意欲を持った選手は、1年(ではちょっと、というならせめて二、三年)限定で向こうへ行きこういう具合に(日米双方を)あっと言わせたらさっと引き上げてきて、後はまた日本の野球界で活躍するという例がもっと多くなるべきだ、というのが私の持論である。今年は巨人の上原とヤクルトの青木が元のチームに戻ってきて実のある活躍をしているのも、好もしい例といえる。平野はどうするか知らないが、今シーズンが終わったらさっさと帰ってきて、来シーズンは日本(の、なるべくなら元のチーム)で、何ごともなかったような顔でプレーをしたなら、これほど格好いいことはない。笈を負って外地へ行き外地で果てる山田長政みたいな生き方は、古めかしすぎる。

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栃ノ心場所になるかと思い、6日目まではそうなりつつあった名古屋場所は、予期せぬ展開となって、終わってみればマスコミは御嶽海一辺倒である。御嶽海は大卒力士の臭みがあまりないのがいいし相撲ぶりもいいから期待できるが、それにしてもこの一、二年で、気が付いてみると、幕の内の地図がかなり塗り替わってきたのがひしひしと感じられるようになっている。御嶽海はもう少し前から幕に入ってその先陣を切ってきたわけだが、安美錦や豊ノ島がアキレス腱断絶で休場したのがちょうど二年前だから(もう二年も経ってしまったのだ!)、当時はまださほどには感じられなかった新旧の顔ぶれがその間に入れ替わって、今浦島みたいなことにもなりかねない。十両で踏みとどまって、一旦、二旦は幕の内に戻った安美錦の苦闘の様子はテレビでも見られるが、幕下に落ちた切りの豊ノ島の様子は、普通ではなかなか見る機会がない。

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桂歌丸、加藤剛、浅利慶太、橋本忍と訃報が続いたが、それぞれ親しんだ時代がやはりそれぞれに懐かしい。浅利慶太は、この前日下武の時にも書いたように、やはり昭和30年代、四季を作り日生劇場を作った頃だし、橋本忍もやはり20~30年代の映画のそれだ。加藤剛もやはり若いころだが、晩年、NHKが司馬遼太郎の『坂の上の雲』を随分力瘤を入れて何回かに分けて放送した時、日露戦争開戦前夜のような場面で、伊藤博文をしたのが、加藤剛もこんな役者になったのかと感慨深く見たのが最後だった。あれは、なかなかのものだった。

歌丸は、笑点は笑点で結構だが(その前身のような「お笑いタッグマッチ」には出ていなかったっけ。あれで初めて知ったように覚えているのだが、いや、あれには出ていないよ、という声もある。してみると思い違い、なのかな?)、その精華とすべきはやはり今世紀に入ってからの10年余、毎夏国立演芸場で連続口演した『牡丹灯籠』であり『真景累ケ淵』だろう。私は『牡丹灯籠』のたしか3回目ぐらいから聞いたが、初めの時は、大劇場で若手の勉強会の歌舞伎を見た後、演芸場に回って聞いたのだったが、フリで楽々入ることが出来たほどだった。(それも、中入りを過ぎていたから半額で、だった。)その後次第に評判となって、前売り初日に買わないと聞かれなくなった。鳥なき里の蝙蝠の感もややなくもないにせよ、見事、名人として遇されることとなったのは目出度い限りで、間の取り方、噺の運び方、合間に入れるくすぐりまで、すべてに圓生をよく写し、やがて自分のものにした、その過程をほぼ聞くことが出来たのを満足すべきだろう。落語は結局、話し手の語り口だと私は思っているが、その語り口を確立したところにこの人の真骨頂があった。

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山田洋二監督の『たそがれ清兵衛』は公開の時見はぐったままだったのを、先日、BSのお茶の間シアターでやったのを初めて見た。その中で清兵衛の幼い子供たちと、宮沢りえが扮する昔の思い人が唄を歌いながら遊ぶほんの短い場面があって、その歌詞を聞いてアッと思った。聞こえてきたのは、「・・・その袂を盥で洗いましょ」「洗った袂を竿に掛けて干しましょ」云々という、ほんの断片だったが、この歌が私が幼いころ、母から聞かされたものと同じものだったからだ。言葉遣いは若干違うが、私が覚えている歌詞を全部書いてみると、「円山とってんから東を見ればね、見ればね」「門の外からお小夜さんが通よたかね、かよたかね」「お小夜差したるキギョウの櫛をね、櫛をね」「誰に貰ろたか金次郎さんに貰ろたかね、もろたかね」「金次郎おとこは伊達者で困るね、困るね」「そこでお小夜は涙がぽーろぽろ、ぽーろぽろ」「その涙を盥で洗おとね、洗おとね」「洗った袂を竿に掛けて干してね、干してね」「干した袂を七重にからげてね、からげてね」「からげた袂で大坂鉄砲、鉄砲、ズドーン」というもので、第一連の「丸山」は「円山」かも知れず、第9連の「七重に」は七重でなかったかもしれない。「キギョウの櫛」というのは何だろうと思いながらまだ調べていない。それぞれの歌詞に、たとえば「まるやま」では両手で丸く山を描くとか、「櫛」と言えば櫛で髪をくしけずるとか、その他「盥で洗う」「竿に掛ける」「からげる」等々、みなそれらしき手ぶりをするように振りが付いている。「大坂鉄砲、空鉄砲、ズドーン」というところでは、砲筒を抱えて撃つ真似をするのだ。

さて映画で見たのは、この第7連の「袂を盥で洗う」というところと、第8連の「竿に掛けて干す」というところで、言葉遣いは多少違っても節は同じ、アッと思った。母は明治の末の生まれだが、そのまた母親、つまり私の祖母は明治18年生まれの江州の産だから、どうやらそちらの方に伝わっていたものではないかと思っている。「円山/丸山」は京都の円山または長崎の丸山か? 「大坂鉄砲空鉄砲」というのは真田の張り抜き筒ではないかと想像するが、確かめようもないままでいた。そこでお願いは、この文章をお読みになった方で、何か心当たりがおありであったなら、些細なことなりとご教示いただけまいか、ということなのだが・・・。但し、私はツイッターその他、その手のことは一切していないので、ハガキか何かで頂戴できるとありがたいと思っています。

(管理者より)一番下にあるメールアドレスで当サイト宛にメール頂けたらと思います。

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