随談第606回 卯月見物記

四月の歌舞伎座は、昼を菊五郎、夜を仁左衛門が取り仕切って奮闘しているにもかかわらず、正月来の襲名見物疲れか久々の孝玉共演見物疲れか、はたまた財布の紐を引き締めたのか、客席が大分ゆるやかに見えたともっぱらの噂、狂言がややなじみが薄いというキライもあったかしらん。

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昼の部第一のタイトルが『西郷と勝』とは、なんともそっけないというか、木で鼻をくくったようというか。(『西郷と豚姫』というのを前に見ましたが、あれとは違うのですか、などという人もいた。)そういう私も、はじめは新作物かと思いかけたら、ナニ、青果の『江戸城総攻め』のことだった。第一部の第二場「半蔵門を望む濠端」と、第三部第一場の「薩摩屋敷」を取り合わせて一幕二場とするのは真山美保演出バージョンとして、上演時の名前で猿之助吉之助VS竹之丞麟太郎、團十郎吉之助VS幸四郎麟太郎という二組、外題も『江戸城総攻め・麟太郎と吉之助』として二度の前例があるが、今回は、真山青果作『江戸城総攻め』より松竹芸文室改訂、としてある。その「より」が曲者なのだが、もっとも、ぼんやり見ている分にはいつもの『麟太郎と吉之助』と格別違いがあるようにも感じられない。無口のイメージの西郷が饒舌なのは青果のせいだが、膨大なセリフをよく覚え、ともかくも客席を静かに聞かせただけでも松緑は敢闘賞ぐらいもらっていい。

で、それはそれとして、最後の詰めに至って、「勝先生、戦争ほど残酷なものはごわせんなあ」と西郷が声を張り上げると、満場ワーッと沸き立つ。このセリフは本来ここで西郷が言うセリフなわけで、これが本当なのだが、「薩摩屋敷」が出幕になる機会が少ないためもあろうが、しばらく、いや大分前から、「上野大慈院」で蟄居謹慎中の慶喜を説得する山岡のセリフとして言わせるのが定着して久しい。そのことの是非もさることながら、それを山岡が「戦争ほど残酷なものはござりませぬゥ」といかにも名調子で張り上げ満場をわーっと沸かせるのが近頃の通例になっている。じつは、あれがいつも私はちょいと引っかかるのだ。あれは、(山岡にせよ西郷にせよ)もっと静めた調子で言う方が、しみじみと胸に沁みるのではあるまいか?

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さてこの「明治150年記念」と謳った開幕劇がついたために時間が押せ押せとなり、昼の部の終わるのが4時少し前、夜の部開演が4時45分とずれ込んだ。昔、というのは昭和の頃だったら昼の部の終わるのがこのぐらいは当たり前、4時を回ることだって珍しくなく、入れ替え時間15分でちゃんと4時半に夜の部を開けたことだってあった。前の、つまり第4期の歌舞伎座は通路が四通八達、じつに人はけがよかった。(それにつけても、最近出来の劇場に人はけのよくないところが多いのは、万が一の時どうなるのだろうと心配になる。)

それはいいとして、『裏表先代萩』が、序幕の「花水橋」がなしにいきなり「大場道益宅」から始まると、菊五郎の小助がお手の物の世話の小悪党ぶりで、何だか黙阿弥狂言でも見ているようで(まあ、そうには違いないが)ちと面食らう。まず「表」=時代の場面があって、次に「裏」=世話の場面があって、というぐあいに表・裏・表・裏・表と、時代と世話が交互にあって、トド、時代、つまり「表」の場面で締めくくらないと、表紙の欠けた本を読むみたいでどうも落ち着きがよろしくない。

しかしながら、菊五郎が小助に仁木、政岡は時蔵に譲って二役をつとめるのは、御大奮闘と言ってよい。またその仁木がなかなか立派なのに感じ入る。これこそ年輪というものである。時蔵は『伽羅先代萩』も併せ、そもそも政岡をつとめるのはこれが初めてという。仁よし柄よし、もう疾うにしていて当然の優であり、政岡である。

孝太郎が下女のお竹と沖の井、吉弥が松島。彼女?等の実力は当節の歌舞伎の底力というもの、これぞプロフェッショナルの名に恥じない。この二人は夜の部の『絵本合法衢』でも、孝太郎が倉狩峠で太平次に殺されるお亀、吉弥が太平次女房お道で、これもすることが堂に入っている。役柄の人物にすっとなっているのは、歌舞伎の本道を長年月歩んでいてこそ身についたもので揺るぎがない。吉弥といえば、「表」、つまり『伽羅先代萩』の「竹の間」に登場して鶴千代の脈を取る浅井了伯妻小槙という不気味な女医がいるが、歌右衛門の政岡でこの場が出ると先代の上村吉弥がよくこの役をしたのが、いかにも怪しげで何ともよかった。本舞台にいる若君の脈を花道から取って「ご正脈でございます」などと言うのが、いかにももっともらしかった。

こんどの道益は團蔵で、この人はこういう役をさせると、ちょいと品があるようでちょいと何かあるようで、そこらの按配がなかなかいいのだが、すべて腹七分の仕事なのは身についた痼疾のようなものか。しかしこの一、二年、めっきり役者ぶりが上がり、いい顔になってきたのは正しく年の功というものだろう。(丸々と太った銀之助少年がなつかしい。いまの大谷桂三の先代松也とふたりで、梅幸の『鏡獅子』で胡蝶を踊ったのが今も目に残る。)東蔵が外記で先月の老一官以来の爺役は、いまや何でもござれの境地か。斎入が「対決」で山名宗全の穴を行く横井角左衛門、表に返って「刃傷」では細川勝元を錦之助。『西郷と勝』ではかなりの緊張気味で松緑の西郷に押され気味にも見えたが、こういう仁にはまる役だと生き返ったようになるのがこの人のカワイイところ、イヤサ、値打ちである。等々、名前を挙げていない方々も併せ、脇の役役の背丈が揃うのはさすが菊五郎劇団。こういう芝居には一層、それが何よりである。

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『絵本合法衢』は仁左衛門一世一代という断り文句がついているのに目を瞠る。もうこれが最後ですよ、と言うほどの意味らしいから目くじらを立てることもないわけだが、初代白鸚の復活初演を見た記憶からするとちょっと「?」という感も抱かぬでもない。「仁左衛門歌舞伎」として見る分には言うことはないにせよ、これだけが「お手本」ということになってしまうと、そうではあるまいと、書いておきたい気持ちも捨てられない。

それにしても、あれが昭和40年の残暑のころだったから、当時の名前でまだ与兵衛が染五郎、孫七が萬之助だったのだ! お道が先の又五郎だったっけ。芝鶴のうんざりお松とか、先代中車の瀬左衛門・弥十郎兄弟なんていうものは、「見ておいてよかった」という代表のようなもので、いわゆる古典の役以上に、むしろこういう復活物で見せたこういう人たちの歌舞伎演技の「教養」の深さが、いまにしてつくづくと偲ばれる。当時はこういう人たちが、腕を撫していたればこそ、白鸚一家一門と共に東宝に新天地を求めたのであったのだろう。

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新国立のオペラパレスで『アイーダ』を見た。さすがにこういうものだと、近頃はやりというか、現代の演出家諸氏に呪縛のように絡みついているかに見える現代的演出の入り込む余地がないせいか、とってつけたような演出に煩わされずに見ることが出来たのは幸いだったが、それにつけて思い出したのは、勘三郎が天下にこわいものなしの頂点に立ったころ手掛けた野田版の『愛陀姫』なる不思議な代物のことだった。ヴェルディの曲を歌えばこそ、勘三郎のアムネリスが、決して美声とは言い難い声で長セリフを言う。あれはいったい、何だったのだろう?

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