随談第589回 あらたまのくさぐさ

新年初のタイトルとして「あらたまのくさぐさ」と書いたら、「新珠の九さ草」という文字が出てきた。コンピューターも時には洒落たことをする。なるほど、これも悪くないが、「九さ草」とすると9章、九つの話題を連ねなければならないので、惜しいがこのタイトルは不採用としよう。

新年は、毎年のことだが三日の浅草歌舞伎、四日の歌舞伎座に始まって、今年は新橋演舞場、国立劇場に三越劇場の新派と、新年第一週は国立以外は連日11時開演で、ゴングとともに5発、ボディブローを食らったような形となった。加えて中小、種々の劇評その他の原稿、仕事があるのが有難いとは言え、気が付けば早や月末ということになった。

もうひとつには、ご覧のようにこの欄も模様替え、何せ早や十年の余も続けてきたので、なにかと錆が付いたり、船底に藤壺の類が付着するのに似た症状が出たらしく(というのは、私はただ書くだけ、操作の一切はさる人のご厚意に任せているので)、年末以来故障つづき、新年を機にかく新バージョンとは相成った次第、これもまた、新年の挨拶が遅れた理由のひとつ、更にその他、身辺雑事さまざま重なった挙句・・・

というわけで、かく新装なった新バージョンにて本年もよろしくご愛読お願い申し上げます。

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歌舞伎座新年の昼の部が、いきなり暗闇の中、彰義隊と山岡の押し問答から始まることは新聞評にも書いたとおりだが、昭和50年代ごろだったか、新年の開幕と言えば筝曲の社中の出演で、100人もいるかと思うほど大勢のご婦人方が舞台に並んでの琴の合奏で、新年を言祝ぐ舞踊で始まったことが何年か、恒例のように続いた時期もあったのを思い出す。(思えばあのころ、歌舞伎座の経営は今よりはるかに苦難の時代だったはずだが。)

だが考えてみれば、いまこの文章を読んでくださっている皆さんの中で、元旦にお屠蘇を祝った人はどれぐらいあるだろう? 新年だからと言って、晴着、とまでいかなくとも、せめてセーター一枚なりと、新品でなくとも、前日まで着ていたのと取り換えて、新年を迎えた人はどれぐらいあるだろう? 富める者富まざる者それぞれなりの分に応じて、猿股一枚足袋一足なりと新しくして、新年を迎えるという習慣がなくなったのは、いつごろからだったろう?

少なくともそれは、やれバブルがはじけたの何ののせいではないことは確かだ。私の見るところ、むしろ、戦後の日本が格段に豊かになるのと比例して、こうした習慣は捨て去られ、忘れられていったのだったと思う。豊かになって逆に失ったのだ。

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歌舞伎座の幕間の玄関ロビーが、愛之助夫人のロビー初デビューというので、パンダの檻の前の如き人だかり。劇場側の計らいで我々にも「お引き合わせします」とのことだったが、考えてみればあちらは一人、こちらは複数、つまるところは一人一人、女王陛下の拝謁を賜わるような形になったのは余儀ないところであったろう。(国技館に御成りの際の天皇ご夫妻のように、協会幹部や横綱大関が玄関前にずらりと並ぶ前を挨拶を受けながらお通りになる、というわけにもまさか行くまい。) 

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その愛之助に染五郎の顔合わせ、というのが今月の歌舞伎座の売りなのだろうが、それより新橋演舞場の新・右團次の『雙生隅田川』が面白かった。たまたま『演劇界』に評を書いたから詳しくはそちらに譲るが、今後せめて「惣太内」と「道行」の二場だけでもいいから、現代歌舞伎のレパートリーの常連として定着させたい名作だと思う。近松といえば心中物、と決めてしまった思い込みの過誤から、もういい加減に抜け出して然るべきだろう。

松若丸と梅若丸の二役をする右團次の子の新・右近が秀抜の子役である。6歳だそうだが、あれだけ上手いととかく小憎らしくなるものだが、そういう嫌みがまるでないのが結構である。(お父つぁんが武田右近といって『天保遊侠録』の麟太郎をしたときは、張り飛ばしてやりたくなった!ものだが。)

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ところで、数年来海老蔵で開けていたこの新橋演舞場の正月、ことしは海老蔵がやや引いて、新・右團次の襲名を前面に立て、猿之助に中車も加わったというこの一座、ちょいとマッチョ軍団の趣きもあるが、そのことも含めて、当節なかなか面白そうな顔ぞろいだ。いろんなことが出来そうな顔ぶれだから、しばらく続けると、浅草の花形歌舞伎のお坊ちゃんたちがみんなあまりにも良い子ぶりなのがかえって気に掛かったりするだけに、この生きのいいにいさんたち(いや、オジサンか?)がひと暴れしてくれると、歌舞伎界全体によい刺激を波及する期待もできそうだ。

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稀勢の里の横綱昇進が決まって、マスコミとりわけテレビ各局の報道が予期以上の扱いなのは、何はともあれ結構なことだ。横綱が二人、大関が一人途中休場して対戦がなく、残る二人の大関もそれぞれカド番にかかわるような不調にも拘らず、今場所を低調と感じさせず、昇進を大甘の人気取り政策と見る意見も出てこないのは、それだけの勢いを見る者に納得させたからだ。白鵬との一戦など、追い込まれて窮余の逆転であったにも拘らず、むしろ「強い」と感じさせたのもそれだ。白鵬が小さく見えた。一気の寄り身に賭けるしかないと白鵬に思わせた、まさに「稀なる勢い」があった。

昇進を伝達に来た使者に、四文字熟語だの何だのとってつけたような妙な難語を言わなかったのもよかった。そもそもあの伝達式なるもの、妙にセレモニー化したのはテレビ報道の影響だろう。そもそも番付というものは次の場所前に発表するまでは極秘にする決まりであるのを、横綱と大関の場合に限って特別に(近年は、新入幕と新十両も公表するようになったが、つまり昇進すればそれ相当の準備が必要だからだろう)、来場所の番付編成の会議中に正副二名の使者が途中退席して伝達に来るというもので、大切なことには違いないが、もっと質素なものであったはずだ。初代若乃花の時の写真を見た覚えがあるが、使者と本人の間に火鉢が置いてあった。あの時も一月場所の後で寒中だったから、使者のために火鉢を用意したのだろう。その前の、誰だったかの時は、昇進できるかどうか本人も知らず、前夜どこかで飲んでいて慌てて帰って来た、などということもあった筈だ。

まして四文字熟語などというのは、かの若貴兄弟が始めたことで、あれを、こんどはどんな四文字熟語になるでしょうか、などと騒ぐのは明らかにテレビのワイドショー流の事大主義であって、言いたければ言っても構わないが、伝統でも何でもない。普通の言葉で挨拶して、それをマスコミも好意的に迎えたようなのは、今後のためにも、世間一般の相撲理解のためにも良いことだった。

土俵入りは雲竜型を選び、奉納の際、初代若乃花の化粧回しをつけたのは非常に良かった。仕草を教わった大乃国も、師匠の隆の里も、初代若乃花の弟子だから、孫弟子である稀勢の里のこの行為こそ、伝統を大切にする心情の表われである。

相撲の人気が高まるのは(切符を手に入れるのが難しくなったのは困ったことだが)喜ばしいが、やたらに伝統を振り回して、妙に事大主義的にならないようにマスコミにも願いたいものだ。それよりもつい先日、街中の遊園地で土俵に円を描いて相撲(らしきもの)を取っている男の子がいたのを、ホオという思いで見た。母親らしき女性もいたから兄弟なのかも知れない。もっとも、ろくに相撲の取り方を知らないらしく、相撲だか鬼ごっこだか分からないような代物だったが、それでも、絶えて久しく見なかった光景である。私などの小学生時分は、本場所が始まってラジオの中継放送が聞こえてくれば、校庭の隅に棒切れで円を描いた土俵で相撲を取って遊ぶのがごく当たり前の光景だった。当時はまだラジオの時代、テレビで映像を見ることなどなかったにもかかわらず、皆それなりに、相撲の取り方を知っていたのは、思えば不思議なようなものだ。

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宇良がたすき反りという65年ぶりという技を決めて評判を取ったが、相撲の取り方がすっかり変わって組み合うことが少なくなった昨今、反り技を売り物にする力士が出てこようとは、確かに話題を呼ぶだけのことはある。昭和26年夏場所の栃錦=不動岩、翌27年1月の常の山=大内山戦以来というが、どちらも、小兵力士が長身の力士に決めたものだった。常の山は主に幕内中軸にいた文字通りの手取り力士で、相手の大内山はのちの大関だが当時はまだ中軸から上位、6尺7寸といっていたが、後に大相撲も尺貫法をやめてメートル法に切り替わったとき、2メートル3センチと聞いて、皆々仰天したものだった。栃錦は当時小結だったか、24、5貫、80キロ級で相手の不動岩は6尺9寸5分と言っていたが実は7尺あったろうと言われていた。2メートル10数センチということになるから大内山よりさらに約10センチ高い。後の横綱鏡里と共に双葉山道場開設時の有望株で関脇まで行ったがそこでとまってしまった。

この栃錦=不動岩の一番の写真は、その後かなりの間、珍しい決まり手の例として、相撲雑誌はもとよりいろいろなところでお目に掛かったものだが、今度の宇良のときにNHKの相撲放送で全然触れなかったのは、当節の担当者はご存じなかったと見える。

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今年に入っての訃報といえば、新年早々、テニスの加茂公成という懐かしい名前を見た。こういう名前は、別にテニスに格別の関心があるわけではない私のような者にも、戦後の一つの季節をある彩を以て思い出させてくれる。1950~60年代、デヴィスカップの東洋ゾーンというのが、田園調布にあった田園コロシウムというテニス場で行われ、オーストラリアだのインドだのの見るからに強そうな強豪が立ちふさがっているために、華奢な日本選手は跳ね返されてしまうのが常だった。加茂公成だの宮城淳だの、皆戦前からのテニス一家の御曹司だった。

もう一つの訃報で、松方弘樹が各局からこぞって大名優扱いされるのにはびっくりするが、もっとも彼の俳優としての全貌を知っているわけではないから別に異を立てるつもりはない。親父さんの近衛十四郎は、主演スターとして復活してからより、松竹の時代劇映画で凄みのある悪役俳優だった頃がなかなかよかった。(大谷友右衛門と二枚看板で共演した『風雲日月草紙』というのがあった。いま一度巡り会って再見したいと願いながら未だ果たしていない。昭和30年、映画俳優大谷友右衛門としては末期の作ということになる。) 

その近衛十四郎の息子だというので売り出して間もない頃、テレビで『人形佐七捕物帳』をやっていたのをよく見ていたから、以来、ある種の好感を持ってはいた。なにしろ渥美清と克美しげる(この名前! まだ覚えている人は結構少なくないだろうが)が子分の役だったのだから、今は昔の話だが、そういえば岩井半四郎が八丁堀の同心の役で準レギュラーで出ていたっけ。(例の一件が起こるより前の話である。) 

もうひとつ、これは比較的近年だが、タイトルは覚えていないが大正から昭和初期の時代のストーリーで、詩人だか画家だったかの役をしてあの時代の文化人の雰囲気をよく出していたのに感心したことがある。むしろ時代劇をしているときより、セリフの癖がなくてはるかによかった。あの時代の雰囲気を体に持っている感性こそ、この俳優の得難い「仁」であったと思う。このブログに書き留めておこうと思う理由でもある。

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