随談第8回 上村以和於野球噺(その2)つづき

吉井だの小宮山だの少し渋いところから話が始まったが、メジャーから帰ってきた選手たちの中で、何といっても面白いのは新庄である。あのキャラクターは、たしかにプロ野球選手の中でとび抜けている。もともと特異な存在ではあったが、「アメリカ」という体験がなかったなら、いまのあのキャラクターはなかったに違いない。キャラクターもまた成長する。体験を成長に結びつけたところに、端倪すべからざる聡明さを、私は新庄に感じている。もしかするとそれは、世の人たちの見ている「新庄」とすこし違うかもしれない。

中村錦之助に似ている、とプレイをしているときの新庄を見るといつも思う。素顔、といってもテレビで見る限りの素顔だが、素顔も似ていないこともない。中村獅童が錦之助に似ているのは血族だから不思議もないが、新庄が素顔も錦之助に似ているのは、他人の空似以上の意味がありそうだ。目鼻も似ているが、唇からやや縦長の笑窪、顎の鰓の張り具合、それに量感が重なり合う。但し、そっくりサン、という意味では必ずしもない。

それから何より、濡れている感じ。これは男としての色気に関わる。あの色気は、在来の日本の野球選手としてはたしかにちょっと異質だ。私としては悪口のつもりはまったくなしに言うのだが、ある種「異常」といってもいい。阪神時代、人気者でありながら、ちょっと変な奴、と思われていたのは、直接的にはその言動の故だが、その奥を穿てば、あのプロ野球選手としてはやや過剰に「濡れた感じ」が、そうさせていたのに相違ない。(役者はおつゆがたっぷりなければいけません、とは、かつての新派の名女形の花柳章太郎の言である。「おつゆ」といったところがミソである。)

要するに新庄は、役者にしてもいいような色気を生まれながらにして備えている男である。素顔からしてすでに錦之助に似ているというのはそういうことなのだ。そういう男を、昔は、女にもみまほしいいい男、といった。女にもみまほしいとは、女にしてみたいほどの、という意味だろう。美男なのはもちろんだが、美男なら誰でも、女にもみまほしいわけではない。

中村錦之助とはもちろんのちの萬屋錦之介だが、同一人物とはいえここは是非とも中村錦之助でないと論旨の辻褄が合わない。萬屋錦之介とは壮年になって、みずから役者としての「仁」を変えてしまってから名乗った名前であって、錦之介論をはじめるなら、この二つの名前の相克を論じることが不可欠なのだが、いまは新庄の色気についての話である。いまここでいう錦之助とは、『笛吹童子』の丹羽ノ菊丸とか『紅孔雀』の那智ノ小四郎といった若衆役者としての錦之助であり、『ゆうれい船』の次郎丸のような「永遠の少年」としての錦之助である。(嘘だと思ったらこれらの映画のDVDをみてごらん。なるほど、女にもみまほしいとはこういうものか、と合点がいくに違いない。)

さて、新庄である。阪神時代の新庄は、錦之助ばりのいわば前髪立ちの美少年風の色男としてデビュウし、挫折を繰り返している男だった。(つづく)

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