随談第20回 俳優偶論(その2 市川染五郎)

歌舞伎座の『盟三五大切』で、染五郎が八右衛門をやっている。吉右衛門の薩摩源五兵衛の忠僕の役である。まさしく忠僕そのもので、わが身をいとわず主人に尽くすが,源五兵衛が三五郎と小まんにはめられるのをはらはらしながら見守っている。つまりこの一見愚直にみえる人物は、案外にも世間知をちゃんともっていて、それが異常に欠けている源五兵衛を笑う「目」すら、どこかに隠し持っているかに見える。

英語ではそういう知恵をプルーデンスといい、たとえばドン・キホーテにおけるサンチョ・パンサの知恵のようなものである。(そういえば今月、父親の幸四郎が帝劇でキホーテを演じている。)サンチョ・パンサはキホーテをひそかに笑いはしても、軽蔑したり裏切ったりは決してしない。そういう役をやると、染五郎はなかなかチャーミングである。

先月は、勘三郎の髪結新三に下剃りの勝奴をやった。これもある意味では忠僕である。ただしやくざ者だし生意気な男だから、しばしば新三をからかってみせたりする。家主に鰹は半分貰って行くよと謎をかけられて気がつかない新三より先に、謎を解いたりもする。この勝奴でも、染五郎はなかなかチャーミングだった。

さてここからが、染五郎解剖である。八右衛門も勝奴も主人持ちである。少なくともいまは、主人には頭が上がらない。しかしたとえばその頭脳の切れ具合をみても、彼等がそれぞれの主人よりも人間としての実力で劣っているわけではない。もっとも八右衛門の場合は主人の源五兵衛があまりにも異常な男だから、少し話が難しいが、すくなくとも染五郎がやると、八右衛門が源五兵衛を見ている目が印象的である。(以前段四郎がやったときは、八右衛門はひたすらに純朴に主人のためにおろおろする男だった。してみると、あの「目」は染五郎自身の目だったことになる。)

染五郎の目は不敵な目である。不羈な、といった方がいいかも知れない。もちろん染五郎はよき家庭にしつけよく育ったジェントルマンだが、それとこれとは別の話である。しかし敢えてひとつアナロジイをいえば、父の幸四郎という大きな存在が常に頭の上にある。そう考えればまんざら勝奴と似ていないこともない。はじめは新三に勝つことなど思いも寄らなかった勝奴も、新三が鮮やかに弥太五郎源七をへこまして覇者交代をやってのけたまさにそのとき、いままでは見ても見えなかった新三の弱点がくっきりと見えた。染五郎にも、たぶん同じ思いはあるに違いない。

しかし賢明で鋭敏な勝奴は、いや染五郎は、必要もないのにその鋭鋒を新三、いや親の前でひけらかしたりはしない。当分はまだ従順な勝奴でい続けるだろう。いまエディプスのように「父殺し」をやってしまうよりも、もっと力を蓄えよう。そのためには、いつも父とばかりではなく、たとえば叔父といっしょの舞台も踏むこともやってやろう。もしかしたら、そうした外交官的な能力も自分には備わっているのかも知れない。いや、きっとそなわっているような気がする。そうだとすれば、自分のこうした行動のお陰で、父と叔父がひとつ舞台で競演することだってあるかも知れない。

染五郎で見たい役。『フィガロの結婚』のフィガロ。勝奴より似合うかもね。

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