随談第22回 上村以和於相撲噺(その2)

>前回のおわりに触れ太鼓の話が出たが、今年に入って正月と五月、二度も触れ太鼓に行き合わせるという幸運にめぐまれた。

前にもチラッとふれたが,毎月一回、神田は連雀町の老舗の御汁粉屋の二階座敷で、「白塔」という連句の会をもうざっと二十年来やっている。ハクトウと表向きは読んで、じつはシロウトと裏読みをするのだが、土曜日の午後から宵にかけて開く。ちょうど暮れなずんできた頃おい、触れ太鼓の音が聞こえてきた。アッと思っているうちに、そのあたり一帯、藪蕎麦だの鮟鱇鍋だの、有名な老舗が並んでいるのでほうぼうへ立ち寄って行くらしく、太鼓の音があっちへ遠ざかったかと思うと、こっちから不意に聞こえてきたりする。そうこうする内に当の汁粉屋に入ってきたらしい。当然のように、同人一同、句作は一時中断して階下へ降りる。

つまり触れ太鼓とは、初日の前日、土俵祭りという神事をやって無事を祈った後、呼び出しが太鼓を差し担いにかついで、撥音も勇ましく太鼓を叩きながら街を練り歩き、ひいき先を廻っては明日の取り組みのいいところを読み上げるのである。ひと頃までは、各新聞の夕刊に必ずのように写真入りで触れ太鼓の記事が載って、初場所なら初場所、夏場所なら夏場所と、季節の風物詩になっていたものだ。

すばらしかった。店には若い女性客などもかなりいたが、みんな大喜びだった。たぶん彼女たちはふだん相撲のテレビ放送など見ないだろうが、いいものを見たと思ったに違いない。わが同人も、みな感激の面持ちだった。もちろん、ほんものを生で見、聞く臨場感のなせるわざなわけだが、つくづく思ったのは、こしらえて、練り上げた声というものがいかに素晴らしいかということである。歌を聞いても、ドラマを見ても、芝居でさえ、地声で歌い、セリフをいうのが当たり前になってしまった現代だが、もちろんものにもよるが、そればかりというのは味気ない。

団菊爺いや菊吉じじいのデンでいけば私などは相撲に関しては栃若じじいなわけで、それしきの口を利くなら、それこそ前回書いた小鉄などに比べたらイマドキノ呼び出しなど問題にならない。にもかかわらず、この触れ太鼓はすばらしかった。とりわけ夏場所前日の、都会の中にも夏来たるらし、といった薄暮の中でのそれは、舞台効果もよくてじつに感動した。たぶん、ちょっと忘れがたい記憶として心に留まるだろうと思う。

あとで聞けば、相撲協会は今年から触れ太鼓を復活したのであるらしい。そうか、いままでやっていなかったのか。この情報時代の世の中に触れ太鼓なんて、というような考えからもしやめていたのだとすれば、とんでもない勘違いというもので、インターネットで情報が飛び交うこういう世の中だからこそ、触れ太鼓のようなアナログ感覚のPRが、かつてとはまた違う有効性を持ちうるのだ。だから触れ太鼓の復活は、決して単なる懐古趣味などではない。ともあれ復活してよかった。

中学生のころ、というのは栃錦の大関時代だが、日曜日には都電に乗って蔵前国技館へよく行った。相撲が跳ねて、雑踏の中を関取が浴衣がけで帰る姿の風情ったらなかった。

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