随談第23回 上村以和於相撲噺(その3)

しばらくブログを書く暇がなかった。前回は、中学生のころ、日曜日には都電に乗って当時は蔵前にあった国技館へ通ったというところまで、話が進んでいたのだった。

36番線というのが大塚駅前から厩橋まで通っていて、当時西巣鴨に住んでいたので、これに朝始発間もないのに乗ると、最初の取り組みから全部見ることが出来る。弁当持ちで出かければ、交通費が往復20円、(当時もりそばが20円だった)、あとは芝居でいえば天井桟敷の大衆席。取り組み表は座方の兄イが放ってくれるから、つまり無料である。

当時栃錦が気鋭の大関。初代若乃花は小結に取り付いて三役に定着しようとしていた。ふたりともいまなら90キロ台だったろう。若乃花をはじめて見た日、48貫と号していた東富士を上手投げで倒したのを覚えている。その頃の若乃花はまだ細っこくて、一見やさ男風(先の貴乃花の初優勝のときの写真が先日来何度もテレビに出たがそっくりだ)でありながら、控えに座って天井を見上げたり、ふてぶてしいが格好いい。国語の文法の授業が退屈なので真似をしていたら、中高年の女性の先生だったが、物凄い剣幕で叱れてしまった。

大横綱羽黒山の最後の一番というのを、そうやって見ている。激戦地ガダルカナルからの帰還兵で六年もの空白を経てのしあがってきた、のちに荒法師と仇名がついた玉の海の外掛けに背中から崩れ落ちた。これが二日目で初日も琴錦の速攻に敗れていたから、(当時は土曜日が初日だった)それを限りに引退したのだった。

羽黒山はそれよりもっと前、いまの神宮第二球場のところにあった野天の相撲場で本場所をやったときにも見た記憶がある。終戦直後の苦難の時代を、もうひとりの横綱照国とともに、大相撲を支えた功労者である。それでいて、金剛力士の如しといわれた羽黒山と、相撲人形のような照国は、見た目も取り口もすべて対照的で、それぞれに風格があって、私にとっての横綱像の原点である。双葉山から栃若・柏鵬へと飛んでしまう現在の相撲史観はぜったい誤りで、その間に羽黒・照国時代を入れるべきである。記録だけ見たってこういうことは判らないだろう。

さて蔵前国技館だが、神宮だの浜町公園だのを転々とした挙句に当時建ったばかりで、白壁に黒い屋根のついた数奇屋風で、いうなら歌舞伎座などとも共通する和風の建物だった。いまの両国国技館は、いまのシアターXの場所にあった戦前の国技館のイメージを再現した、つまりドームが名物の洋風建築である。蔵前にも独自のよさがあったと思う。

何よりよかったのは、相撲がはねた後、関取衆も見物の雑踏の中を帰っていくことだった。場外にある売店から、店のおばさんと談笑しながら千代の山がぬっと出てきたときのときめきは今も忘れない。こっちでは付け人がタクシーを止めている。さてはと思って見ていると、40貫もある横綱の鏡里がなんと小走りにやってきて乗り込んだ。タクシーがぐらぐらっと揺れる。オオ、と群集がどよめく。おすもうさん、という言葉が最近あまり聞かれないが、親しみと尊敬とが入り混じった、いい言葉だと思う。野球やサッカーの選手ではこうは行かない。だが館内の地下駐車場から車に乗り込んでしまったのでは、あの親しみは持ちようがないだろう。

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