随談第27回 上村以和於相撲噺(その4)

つい数日前、新聞で元小結の潮錦の死亡記事を見たと思ったら、その数日後に今度は元阪神タイガースの一塁手の遠井が死んだという記事が載った。どちらも普段は忘れている名前だが、何かのきっかけがあれば記憶はただちに甦る。

潮錦は渋い力士で、仁王さまそのままのような体躯の四つ相撲、あまりにも堅実な取り口なので自分の力以上の相手にはまず勝つことができない。その代わり下位の相手には負けないから随分長いこと、幕内上位で取っていた。たった一度、横綱の朝汐に勝ったのが生涯唯一の金星で、賞をもらったのもこのとき一回限りだった筈だ。正直、面白みのある力士ではなかったが、しかし個性はあったから記憶は鮮明である。ある場所、千秋楽に初日を出して1勝14敗ということもあった。遠井も、あまりにも守備範囲が狭いのでむざむざと一、二塁間を抜かれてしまう。名前の遠井吾郎をもじって遠いゴロと揶揄されたような選手だったが、しかし記憶には残る選手だった。つまりどちらも、あまりパッとした存在ではなかったが、しかしザラにはいないユニークさを持った力士であり、選手だった。

この二人の場合は、たまたま相次いで死亡欄で名前を見かけたわけだが、舞台や映画の俳優たち、相撲取りや野球の選手たち、その他さまざまなジャンルで、普段は忘れているがなにかのはずみに名前を見、聞けば、ただちに往時の顔や姿を思い浮かべられるかつての小スターたちが、どれほど大勢いることか。ほとんど関心を持ったことのない者もあれば、ひそかに声援を送りつつ見守っていた者、出てくるだけでうんざりするのが例だった者もある。しかしどれも、いま思えば貴重な思い出の種を提供してくれた人たちというべきである。

これは野球の話だが、たしか八島というピッチャーが巨人にいた。見に行った日、たまたまその八島がリリーフで投げて不出来である。打たれるというより、見ていていらいらするのである。私の後方すこしはなれた席にいたオジサンが「八島ひっこめろー、川崎を出せー」と野次を飛ばし続ける。川崎は後に西鉄ライオンズでも活躍した、四角い顔をしてナックル・ボールが得意だった川崎徳二である。あまりひどい野次なので「きたない野次はやめろ!」と別な野次が飛ぶほどだったが(飛ばしたのはじつは私の父だった)、やがてその野次の要求どおり、八島が引っ込められて川崎に代わって、試合はひきしまった。さてそのとき、いまも実に鮮やかに覚えているのは、マウンドを降りて戻ってくる八島が、野次の声の主の方をしきりに見上げていた姿である。

相撲噺の筈が別な話になってしまったが、じつは前回のつづきで書こうと思っていたのは、中学生のときに見た、二所の関部屋の一門と出羽の海部屋の一門の都内巡業の情景である。当時は東京の街中にまで、大相撲の巡業がやってきたのだ。もちろん戦後まだ日の浅い貧しい時代だったからには違いなかろうが、大相撲の名高い関取たちを間近に見る喜びは、国技館で見る本場所とはまた違うものがあった。(だって私は、つい二、三日前に横綱になったばかりの栃錦を、そうやって見たのだから!)

次回はその話をしよう。

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