随談第563回 訃報&訃報

北の湖と原節子とはふしぎな取り合わせだが、これも何かの縁の端であろう。もっとも、北の湖は文字通りの急逝だが原節子の場合は三月も前の9月初めに亡くなっていたという。つい先日も大映の二枚目スターだった(頃が私には一番なつかしい。『青空娘』で若尾文子を田舎教師の菅原謙二と争う都会派の好青年などがよく似合った)川崎敬三が同じように、「亡くなっていたことがわかりました」という近頃よく耳にするニュースとなった。この二人の場合は故人の遺志を尊重してそうなったのだからいいが、かつてはそれぞれの世界で相当に鳴らしていたような人が、「亡くなっていたことがわかった」といった小さな記事になっているのを読むことがちょくちょくある。人は棺を蔽ってわかるとよく言うが、そう言ってしまったのではちょいと気の毒な感じもする例もまま見受ける。むしろ、報道する側がどれだけの知識と理解と見識をもって死亡記事を書いているかを問いたくなることも少なくない。

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北の湖は、強さという意味では戦後最強力士であったろう。優勝回数など記録の上ではそれを超える人もあるが、他を寄せ付けない圧倒的な強さのイメージを植え付けた点、彼に勝るものはない。まさに巨象の荒れ狂うが如し、という感じだった。「戦後横綱番付」を作るとすれば、終戦直後の最も困難な時代の土俵を支えた羽黒山と共に、東西の正横綱の座に坐って然るべきである。

北の湖の手形を見ると、普通人でも少し大柄な人ならもっと大きな人はいくらもいそうなほど小さい。指が短いからで、師匠の初代増位山の三保ケ関親方が、北の湖の指がもう少し長かったら文字通り無敵であったろうと言ったというが、つまり指が短いと取ったまわしを切られやすい分、安定感に欠けることになる。闘志漲る相撲で抜群の強さを見せながら安定感に若干の憾みを残したという点で、かの朝青龍は小型北の湖だったとも言える。(但し、北の湖が朝青竜と違うのは、同じ強いが故に憎まれても、決してヒールではなかったことである。)

そのデンで行くと、現在の白鵬は小型(というのは語弊があるが)大鵬ということになる。負けない相撲。盤石というより、相手の力を吸収してしまう柔構造の耐震力という点で、二人は共通する。見ていて、強い、というのとは少し違う。大鵬には柏戸という、相撲ふりでもイメージの上でも対照的な好敵手がいたが、白鵬の場合は朝青竜が不祥事で早くにいなくなってしまったのが、連勝や優勝回数といった記録を作る上では幸いしたかもしれないが、強さを競い合うという意味では不幸であったかもしれない。大鵬を偉とする点は、柏戸以外にも、横綱、大関から関脇以下に至るまで、強豪・巧者、強敵があまたいる中で戦ったことで、だから大鵬の連勝記録は30連勝40連勝台までで、その代わり何度もしているのは、難敵が大勢いる中でいかに安定した強さを長期にわたって示したかを物語る。

いまの白鵬の相手として、取り口の共通点から言って、稀勢の里が大鵬に於ける柏戸、日馬富士が栃ノ海に擬せられるが、稀勢の里は柏戸に及ばず、日馬富士は栃ノ海に勝ると言っていいかもしれない。(今場所の日馬富士は大したものだった。白鵬を破った一番は、夏場所、弟弟子の照ノ富士初優勝のために奮起して、土俵際まで追い込まれながら飛燕のごとく懐に飛び込んで白鵬を倒した一番と共に、その真骨頂を見せたものと言っていい。)

白鵬が終り三日を3連敗したことを云々する声があるが、日馬富士戦、照ノ富士戦、鶴竜戦、どれも勝った方を賞賛すべき見応えのある相撲だったではないか。とりわけ照ノ富士が両まわしを引き付けて白鵬の腰を利かなくして寄り切った剛力には改めて恐れ入った。

一方白鵬は、先場所来の故障休場を通して衰えの兆しを自覚したかのように見える。と同時に、初場所以来の、審判に不審をあからさまにするなどの暗い翳が吹っ切れたかのように、隠岐の海戦の櫓投げ、栃煌山戦の猫だましなど、一種の遊びの境地のようなものが察知される。北の湖が理事長として猫だましに苦言を呈したのはケジメという意味で正論であったわけで、ただ予期せぬことに、それが遺言でもあるかのようなタイミングになってしまった。そこらの阿吽の呼吸を読むべきであろう。(猫だましは、かつて若き横綱として旭日昇天の勢いにあった大鵬に、15,6歳も歳が離れ、老境に入ろうとしていた大ベテランの出羽錦がやったのが、お前さん、もう俺の手にはおえなくなってしまったよなあ、といった、一種人を喰ったようでもあり、口惜しいがお前さんを認めざるを得ないぜといった、ベテランの複雑な思いを反映したようでもあり、といった、なかなか味のあるものだったのを思い出す。当時まだ若かった大鵬は怒ったらしいが、大ベテランから貰った勲章でもあったわけだ。)

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10年ほど前になるか、明治座で『長崎ぶらぶら節』を石川さゆりがやったことがあって、これが結構行けた。それが名物の、主人公の長崎芸者がお座敷で横綱の土俵入りをする場面を欠かすわけには行かない。そこで土俵入りの伝授を北の湖に受けた。自身、明治座まで来てくれたという。スーツ姿だったが上着を脱いで、目の前で本息でやってみせてくれたのが「本当に素敵でした。セリ上がりなどまるでアトラスが地球を持ち上げるようでした」と石川さゆりが言っていたのは、さもありなんと思われる。

私の娘婿というのはロック歌手を目指してCDの一枚も出した昔を持つ男だが、見たことがないというので一度本場所を見せたら、理事長として初日の協会挨拶のために紋服姿の北の湖が土俵に上がるのを見て、「格好いい」と呻いていた。

この二つの話に通底するのは、男としての迫力が生み出す男の色気である。終生それを持ち続けた。こういうのを、本寸法の男の中の男というのであろう。

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原節子の場合は、既に生きながらの偶像として評価やイメージが、まるで氷結してしまったかのように、誰の言うことも固定してしまっている。一種の不幸とすら言いたくなるほどだが、実はこうした評価もイメージも、引退する前から出来上がっていた。以後ほぼ半世紀、変わることがなかったとも言えるわけで、それが彼女の「偉大さ」の証しと言ってしまえばそれまでだが、あるいは、今度の「死」によって呪縛が解けて、いろんな評価が出てくることになるのかもしれない。

その一方、これは又聞きだが、その死を伝えるどこかの局のニュースショーで、司会者とコメンテーターの3人ともが、あっけらかんとした口調で、原さんて私は一度も見たことがないんですけどねえ、とやっていたという。世代の、あるいは時代の違いを言いたいのか、あるいは、原節子など知らなくとも恥とも何とも思わないということか。

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私が密かに畏敬するところのある私より若いさる女性が、小津の作品での原節子が、どこか無理をして小さくなっているように見える、と言った。フームと思う。かなり鋭いところを突いている一言と思われる。

それとは直に結びつくことではないが、時に小津作品の原節子に、デケエなーと思(ってしま)うことがある。『晩春』の冒頭、生け花を習う場面で感じたのが最初だった。(その場面では、和服に腕時計をしている。つまり彼女は職業を持つ女性なわけだが、時計をはめたままでいるわけだ。)

もうひとつ。原節子はときどき、にこやかに笑いながら、はっとするほど怖い顔をする。これも、原節子を語る上で見落としてはならないことだろう。

それにしても。大正9年、1920年という、芸界人当り年の生まれの、中村雀右衛門、山口淑子、森光子、そして原節子(ついでに言うと川上哲治も!)その他その他の同い年生まれが、これでみんないなくなってしまったことになる。活躍の頂点が人生の早い方にあった者、後半生にあった者、晩年にこそあった者、それぞれの人生の在り様が、こう並べてみるだけでも浮き彫りになる。

結びに、私なりの原節子三傑。

1. 小津安二郎作品から『麦秋』

2. 黒澤明作品から『わが青春に悔いなし』

3. 成瀬巳喜男作品から『山の音』

(番外)千葉泰樹監督『東京の恋人』(こういう、いわゆるプログラム・ピクチャーでの原節子を語る人があまりいないのを、物足りなく思うのは私だけだろうか? それなら、というわけでもないが、いずれ、BC級映画名鑑に書こうと思っている。)

やはり昭和20年代に最も輝いた人だった。その輝きに於いて、抜群の光を放っていたことは確かだろう。

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水木しげるが死んで、私などが喋々するために出る幕はないが、ひとつ思うのは、手塚治虫と水木しげると、漫画というジャンルは戦後二人の天才を出したわけだが、小説や戯曲ではどうだろう? ということである。

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